26.腹中の蟲
(潮目が変わったな。が、しかし時間の問題だ。東西からの挟撃だ。物資も兵の支援も望めねぇ。詰んでいるんだよ)
天幕で机に脚を投げ出した悪鬼は、眼下の戦場を見据えて冷たく嗤う。
そんなことは、向こうの将も承知のことだろう。だが、剣が交差する金の薔薇の旗印を掲げたファネリアの軍は、この局面にあっても尚も果敢に防衛線を維持している。
今、一番激化している戦場は自陣中央左翼寄りである。そこはベルンの戦士たちが、怒りに満ちた獣の雄叫びを上げながら敵陣を蹂躙している箇所だ。その圧倒的な突破力を止めるため、敵本陣からもそちらへと兵が流れ、壁が厚くなっていく。
一方、右翼でも多少の動きがあったようだ。ザックの隊だろう。
敵陣寸前で陽動を行い、敵の伏兵を見事に誘い出しては退却する。相変わらず徹底している男だった。ザックの隊はその後、かなりの距離を後退していたが、しばらくすると、今度は敵左翼を『中央に寄せるように』陽動しはじめた。
(……ククッ。敵左翼を中央に寄せて密集させ、俺が手薄になった横っ腹から本陣へ真っ直ぐ突っ込めるように、盤面を整えてやがる。……いいぜ、ザァーック)
悪鬼はザックの意図を正確に読み取り、満足げに喉の奥を鳴らす。
そして、自陣左翼から上がるベルンの戦士の雄叫びが更に大きくなった。
きっとアレクの仕業だろう。彼が敵のヘイトを限界まで引き受け、暴れ回っている証拠だ。
「さぁて。舞台は整えてもらったんだ。総大将がいつまでも天幕で寛いでるわけにもいかねぇな」
『だめだ、まだだ。そして、これは私がやる』
(……随分とまぁ)
悪鬼は机から脚を下ろし、傍らに立てかけてあった大剣を掴み取った。が、エルマの強烈な意志を感じ取ると、不敵に肩をすくめ、すぐさま静観に戻るのだった。
* * *
「うえぇ……逃げ切った。なんだアイツは。ゲロ吐きそうだ」
しばらく馬を走らせたザックは、肌を刺すような『死の匂い』が薄まっていることに気が付いた。
「移動したか。またいくぞ。敵左翼を中央に寄せる」
ファネリアが移動したということは、そっちが脅威と判断されたということだろう。ザックは馬を操りながら、味方の左翼方面へと目を向ける。
敵味方が入り混じる怒声のなかで、一際大きな咆哮が轟いてくる。一人や、二人のものではない。ベルンの民が束になって放つ、怒りと執念の咆哮だ。
戦場にあっては、これ以上なく頼もしい声である。
だが――ザックの背筋に、嫌な冷や汗が伝った。
(頼もしいが……目立ちすぎだぜ、おっさん。あの死神みてぇなジジイが狙いを定めたとしたら――)
最悪の予感に舌打ちをしながらも、ザックは副長としての役割を全うすべく、敵の右翼を中央へと押し込む陽動を再開した。
* * *
「オォォォォォォォォッ!!」
血飛沫が舞う帝国軍左翼付近の最前線で、ひときわ巨大な咆哮が弾けた。
「オラァッ! 退きやがれ王国の騎士共! ケジメつけにきたぜ!」
部分鎧に身を包んだ巨漢――元『黒曜の牙』副長、アレクである。
彼は異常なまでに膨張させた筋肉の膂力に任せ、鉈のような大剣『頭砕き』を荒れ狂う暴風のように振り回していた。
周囲には、彼に呼応するように戦意を燃やすベルンの戦士たち。彼らの怒涛の進撃の前に、ファネリア侯爵軍の精鋭たちでさえも一歩、また一歩と後退を余儀なくされていた。
「ユベール!!! 出てこい!!!!」
アレクは返り血を払い、息を荒げながらも獰猛な笑みを浮かべる。
だが、その瞬間。
彼は感じ取る。戦場において、無視しては死に直結する特例の戦力。見誤ってはいけない。感じ取らなくてはならない強者の威風を。
「――きやがったな。アデレータ嬢ちゃんの親父殿」
アレクが警戒して大剣を構え直した視線の先。
砂塵を割って、白銀の鎧を血に染めた王国最強の剣が、静かな、しかし城壁が迫りくるような足取りで彼へと歩み寄ってきていた。
立ちふさがる帝国兵を無造作な一閃で斬り捨てると、ルーク・ファネリアはそのままの流麗な足運びで、アレクの懐へと斬りかかった。
「久しいな。野盗の子分。……随分と男前になった」
「チッ、相変わらず嫌味な親父だぜ。変わってねぇな!」
アレクは強烈な踏み込みと共にルークの白刃を力任せに弾き、即座に大剣の剣戟を返す。だが、ルークは表情一つ変えることなく、最小限の剣の傾きだけでその豪腕をこともなげにいなした。
「盲目であり、片腕は効かぬか。……だが、闘志はよし」
老将は、致命的なハンデを負いながらも最前線でこれほどの覇気を放つ敵に対し、武人として僅かな敬意を声に滲ませる。
「うっせぇ! 侯爵親父、おめぇユベールに使われるタマじゃねぇだろ! どけ!」
「野蛮人め。相変わらず口が悪い」
ルークは静かに剣を構え直し、氷のような瞳でアレクを真っ直ぐに射抜いた。
そこにあるのは、狂王への忠誠ではない。王国の剣としての、純粋にして苛烈な義務感である。
「……ここは王都だ。ならん。バース、ハルト、此処は私が受け持つ。自軍左翼を荒らしている、あの冴えない顔の男がいるな。そやつから目を離すな。行け」
「ハッ」
ファネリアの騎士達は、ルークの命令を即座に実行すべく、この場から離れていく。
疑問も反論も挟まない。その無駄なやり取りのなさに、彼らの練度の高さと、主に対する信頼が窺える。
そして何より、目の前のアレクという強敵と対峙しながらも、戦場全体を俯瞰しザックの厄介な動きを正確に警戒するルークの視野の広さは流石という他なかった。
「ベルンは帝国に滅ぼされたと聞いた。尻尾を振るか、野盗」
「血縁関係のセリフとは思えねぇな。お嬢が泣くぜ」
「……知れたこと」
ルークの冷徹な言葉に、アレクは鼻で嗤い、大剣の柄を握る手に力を込める。
「大方、その頑固な頭で表面しか見なかったんだろう。アデレータ嬢ちゃんが離れていくわけだぜ」
「貴様ッ!」
常に氷のように冷たかったルークの顔が、その瞬間、初めて激しい怒りに歪んだ。
図星を突かれた怒りか、それとも娘を失った悔恨か。
老将の口から漏れた裂帛の気合いと共に、空気を引き裂くような白銀の閃光がアレクへと襲いかかる。
「ぐおっ!?」
アレクは強烈な踏み込みで大剣を盾にするが、ルークの怒りを乗せたその一撃は、まるで城壁を破壊するかのような圧倒的な重さを持っていた。
(……チッ! 怒らせたのはいいが、こいつは冗談じゃねぇ重さだぜ!)
アレクは衝撃でたたらを踏みながらも、獰猛な笑みを浮かべる。
かつて因縁を交わした王国最強の剣。その本気が、今ここから容赦なく振るわれようとしていた。
(ガルムのようなジジイだ。そういえば、なんだかんだ楽しそうに打ち合ってたな!)
「オラァァァァァァ!」
体中の血液を激流に変えるように咆哮し、アレクは愛剣『頭砕き』を叩き付ける。
やはり、ルークは難なくそれを躱す。だが、アレクの狙いはそこではなかった。叩き付けた剣の衝撃で、地面から大量の泥が跳ね上がる。
「傭兵の技か」
「くらいな、貴族様!」
「悪いが初見ではない」
「ごふっ!?」
ルークは泥の目潰しすらも最小限の動きで避け、それに合わせたアレクの死角からの廻し蹴りに対し、完璧なタイミングでカウンターの横蹴りを合わせた。ルークの踵が、アレクの脇腹に重くめり込む。
「ガルムの奴が、よく使っておったわ」
当時を思い出してきたのか。氷のようだったルークの顔が、怒りとも歓喜ともつかない獰猛な武人のそれへと変化していく。
(まっずいな。威風が跳ね上がりやがった)
アレクが脂汗を流し、大剣を構え直した、その時だった。
――突如として、自陣左翼、すなわち敵軍右翼の奥で異変が起きた。
固く閉ざされていたはずのオルディスの王都の門が開き、そこから大勢の兵が砂塵を上げてなだれ込んできたのだ。
一見すれば、王国軍への朗報のはずだった。
だが、盤面を支配していたルークの口からは、悲痛な怒声が発せられた。
「な、ならん!!!!」
なだれ込んできた兵たちには、軍としての統率が微塵もなかった。
手柄を焦ったのか、あるいは王都内に充満する恐怖と煙から逃れようとパニックに陥ったのか。指揮系統を無視した貴族の私兵たちが、味方であるファネリア軍の整然とした陣形を、あろうことか『背後から』滅茶苦茶に乱しながら雪崩れ込んできたのだ。
「へ、隊列がバラバラじゃねぇか」
その滑稽で無惨な光景を見て、アレクは腹の底から嗤った。
「これがお前らオルディス貴族の呪いだ。俺たち辺境を散々搾取してきた、その無能のツケが自分たちを食い尽くしてんだよ」
それは、エルマたちが捕虜として逃がした貴族達――中枢に恐怖と混乱を伝染させるべく放たれた『蟲』たちが引き起こした、致命的な暴走であった。




