24.宝石の涙
ルーク・ファネリアは、白髪交じりの髪を揺らしながら王宮の廊下を荒々しい足取りで闊歩していた。
東部、アスタロッテの狂信者どもを押し返し、まさに戦局を安定させようとしていた矢先――王都から届いたのは、ユベール公爵による不可解極まりないファネリア家への撤退命令だった。
年老いてなお色気が薄れないその精悍な顔からは、隠しきれない怒りが滲み出ている。
「状況を報告せよ!」
ルークの鋭い怒声が飛ぶ。目指すはユベールの待つ指令室だ。だが、怒りに任せて足を止めることはない。歩きながらの情報収集は、ルークのような将にとって当然のことだった。
「西の平野、帝国軍兵約一万。旗印は『狼と薔薇』、ライカ・ローサです」
「そうか。ご苦労」
ルークは回りくどい報告を嫌う。だからこそ、部下たちも彼の前では恐怖や私見を交えず、端的に簡潔な事実だけを述べるよう徹底されていた。
王宮の窓から城下を見下ろす。煙が西風に乗って街を覆っている。普段街の各所に流れている水路が干上がっている。
(たかだか一万の帝国軍に王都の門前まで侵入を許すとは、西部の守備兵どもは何をしていた。それに、この惨状……)
国境の防衛線をかなぐり捨ててまで、王国最強と謳われる自軍を呼び戻した理由。それがもし、公爵の個人的な保身によるものであれば、ルークとて黙っているつもりはない。
重厚な指令室の扉の前に辿り着くや否や、ルークは一切の躊躇なく、その扉を力任せに蹴り開けた。
「ユベール公爵! 何故、我を呼び戻した!!」
怒鳴り声交じりに踏み込んだ指令室。
だが、老将の怒声に対する返答は、あまりにも場違いで異様なものだった。
「おお! 義父殿! ルーク義父殿! よくぞ戻ってきてくれた!!」
バルコニーから指令室へ戻ってきたばかりのユベール公爵が、両手を広げ、まるで子供のようにはしゃいだ声で駆け寄ってきたのだ。
ルークの鋭い視線が、室内を素早く巡る。
ユベールの足元には、胸を短剣で刺された文官の死体が転がっており、血溜まりを作っている。だが、公爵はそれに一瞥もくれず、頬を紅潮させて狂喜の笑みを浮かべていた。
「見ろ! あれを見るのだファネリア侯爵! アデレータだ! 私のアデレータが生きて帰ってきたのだ!」
「……何?」
そう言って、ユベールは魔力鏡をルークに手渡す。言われるがままにルークは鏡を覗き込む。焼野原を腕を組んで見下ろす女がいる。
狼と薔薇の旗をはためかせ、輝く金糸の髪。透き通るような肌と、美しくも気高いその貌。美しい青のドレスの戦装束。特に、あの青いドレスは確かにアデレータの物だ。
ルークはわずかに目を見張る。が、すぐにその表情を戻し魔力鏡をユベールに戻す。
「あの野蛮な帝国軍の最前線だ! 忌まわしきレゼンの残党どもに囚われ、心を操られているに違いない! あぁ、可哀想な私のアデレータ……! だが安心しろ、作戦はすでに立ててある!」
ユベールは机の上に広げられた王都周辺の地図をバンバンと叩きながら、狂ったように早口でまくし立てた。
「貴公のファネリア軍を正面から突撃させる! そして側面から近衛騎士団を回り込ませて退路を断つ! アデレータを傷つけることは一切ならんぞ! 憎き帝国の悪魔どもを一人残らず八つ裂きにし、恐怖に震えているアデレータを取り戻すのだ!」
東部の危機を捨て置き、己の妄執のためだけに国の最強戦力を動かそうとする男。床に転がる死体と、狂気に呑まれた最高権力者。
ルークは、その悍ましい狂態を目の当たりにしても、顔色一つ変えなかった。
彼は白髪交じりの頭を僅かに上げ、氷のように冷徹な瞳で、はしゃぐユベールを真っ直ぐに射抜く。
「……公爵」
感情の起伏を感じさせない、重く硬い声。
「私は娘とは、とうの昔に絶縁しております」
「え……?」
狂乱していたユベールの動きが、ピタリと止まる。
「それが何処で誰に殺されようが、誰に操られていようが、私には一切関わりのないこと。ましてや仇などと、それで我が軍を動かす理由にはなりえませんな」
固い王国武人としての線引き。
血を分けた娘であろうと、戦場においてはただの敵か味方の識別でしかないと言い切るその非情さ。
「な……何を言っているのだ義父殿! 君の娘だぞ!? あの美しいアデレータが――」
「公爵、お言葉ですが娘はすでに他界しております」
ルークは静かに、だが指令室の空気を圧するほどの覇気をもって言い放った。
「敵軍が王都の門前に陣を敷き、この国を脅かしている。理由はそれだけで十分です。ファネリアの軍は、貴公の妄執のためではなく、オルディス王国を守護する剣としてあの軍勢を叩き潰す」
そう言い残し、ルークはマントを翻して踵を返した。
背後で「アデレータを傷つけるな!」と喚くユベールの声を無視し、歴戦の老将は王国の誇りを胸に、眼下に広がる万の軍勢――『狼と薔薇』の陣へと出撃の号令を下すのであった。
* * *
「ルーク様、征かれるのですね」
年老いてなお、その美しさに陰りを持つことがない妻、カリスタ・ファネリアは、夫ルークの肩に外套を掛ける。
「ああ、カリスタ……その、な」
「なんでございましょうか?」
輝くようなサファイア色の瞳がルークを見上げる。
「エルマがいる……帝国の将として……」
「――ッ!?」
カリスタは大きく目を見開き、ハンカチで口元を押さえる。王国淑女の手本となる彼女は、ここで大口を開けるような失態はしない。
「……それでも、ルーク様は征くのでしょう?」
「ああ、ファネリア家は王家の剣だ。私情を挟むことはできない」
「ルーク様、私の前では本音を打ち明けると結婚式のあの日、約束したではありませんか」
そう言って彼女はルークの頭を胸に抱く。その髪を優しく撫でた。
徐々に嗚咽交じりの声が聞こえてくる。
「カリスタ……! ……辛い! 辛いんだ! エルマは、エルマは立派に成長していた! 孫なんだ……僕等の孫なんだよ……」
「ええ、ルーク様。ありがとうございます。……ご武運を」
そのサファイヤの瞳から一筋の涙が静かに零れ落ちる。そして、夫の頬に唇を落とすのだった。




