2. 冬は無理です
雨あがりの広場は、匂いが変わる。
濡れた石畳から土の匂いが立ち、藁の甘さがそれに混じって、そのまた上にインクの匂いが乗る。壺の口を開けたままにしていたせいである。
わたしは蓋を閉め、袖で机の水気を拭った。市の立たない日は人が少ない。少ない日ほど、腹を決めてきた人が来る。
断り状がいちばん多いのは、秋の終わりである。冬の勘定が見えて、貸せる人と貸せない人に分かれる。だからこの季節は、〈断り〉の版木刷りを多めに刷ってもらう。
「あの」
顔を上げると、縫い子のヘトヴィヒさんが立っていた。二十九で、指の腹に針の胼胝がある。膝を折って、机の前の切り株へ腰を下ろす。
「金は貸せないと書いて」
「どなたへ、でしょうか?」
「兄です」
それきり、言葉が止まった。
ヘトヴィヒさんは膝の上で両手を組み、親指の腹をこすり合わせている。針の胼胝は硬く、こすっても音がしない。
わたしは〈断り〉の版木刷りを引き寄せる。この書式は最初の一行が強い。『委細承りました、されど当方、しかじかのゆえ、此度は御意に添いかねます』
「では、伺います。お兄さんが最後にいらしたのは、いつですか?」
「……春です」
「何を持ってこられましたか?」
「何も」
ヘトヴィヒさんが少し笑った。笑い方が、怒っている人の笑い方ではない。
「うちの子の靴を、直して帰りました。底が剥がれてたんです。糸も釘も、自分の袋から出して」
「お兄さんは、何をなさっていますか?」
「荷馬車の車輪を直してます。直せる人が減ったから、続くと思ったんですけど」
「仕事が減ったのは、いつからですか?」
「去年の冬から。街道が閉じているあいだ、車輪は壊れませんから」
わたしは羽根を持ち替えた。
「いくら、と言ってきておられますか?」
「銀貨二枚」
わたしは羽根の先で、紙の隅に線を二本引いた。
「縫いは、一枚いくらになりますか?」
「二枚です、銅貨の。……日に三枚縫えれば、いいほうで」
日に銅貨六枚。ひと月休まず縫えて、銀貨十五枚と少し。そこから糸と針の代を引き、仕事の来ない日を数えれば、手元には十枚も残らない。子が二人いて、部屋代が要る。
「その靴は、まだ履いておられますか?」
「……履いてます。上の子が。下の子に回すんだって、そればっかり言って」
ヘトヴィヒさんの声が、そこで一度だけ柔らかくなった。
わたしはこの仕事で、人が二度言葉を変えるのを見る。一度目は、来たときに言う言葉。二度目は、事実を数えたあとに出てくる言葉。二度目のほうが短い。短いほうが、たいてい本当である。
風が来て、広場の水たまりに雲が映って、崩れた。
「冬は、越せそうですか?」
「越せません。だから、貸せないんです」
ヘトヴィヒさんの声が、そこで初めて尖った。尖ってから、本人が驚いた顔をする。
「……すみません」
「いいえ」
「兄が悪いわけじゃないんです。あの人も、去年から仕事が減って」
「はい」
「でも、うちも無理で」
水たまりの雲が、風でもう一度崩れる。
「はい」
わたしは待つ。屋根の縁から雨滴が一つずつ落ちて、石畳の同じ場所を叩いている。音の間が、だんだん長くなっていった。
パン屋の窯が開いたらしく、焦げた麦の匂いが広場を横切っていった。教区の鐘が二つ鳴る。昼を過ぎたところである。
「……春なら」
ヘトヴィヒさんが、自分の指の胼胝を撫でる。
「春なら、縫い物が増えます。祝言の季節ですから」
「はい」
「最後の一行は、どうしますか?」
「……最後の一行、って」
「この書式は、断りの文句で終わります。そのあとに、一行ぶんの空きがあります」
ヘトヴィヒさんは、その空きを覗き込むように首を伸ばした。読めないのに、覗き込む。
「――冬は無理です。春に、二日だけ来られますか?」
言ってしまってから、この人は口を押さえた。
「……お書きになりますか?」
ヘトヴィヒさんは、ずいぶん長いこと、水たまりを見ていた。
「書いてください」
わたしは版木刷りを机の中央へ置いた。〈断り〉の紙は、ほかの書式より墨を吸う。刷りが濃いぶん、余白の一行だけがよけいに白く見える。
定型を四行。此度は御意に添いかねます、まで。そして余白の一行へ、いま聞いたとおりの言葉を写す。足しも引きもしない。
「では、読み上げます」
声に出して読むと、断り状の背骨が急に柔らかくなるのが分かる。前の四行が硬いぶん、最後の一行だけが人の声で立っている。
ヘトヴィヒさんは、最後の一行のところで顔を上げた。自分で言った言葉なのに、初めて聞くような顔をしている。
「たしかに、聞きました」
「これは、あなたの字です」
拇印を押し、控えの二枚目を渡した。ヘトヴィヒさんは控えを胸に当て、それから畳んで懐へ入れる。銅貨四枚。
「なあ、代書屋さん」
紙を受け取りに来たトビが、首をかしげている。
「断り状なのに、来いって書くの?」
「断るのは、あの方です。わたしではありません」
「よくわかんない」
「わたしも、はじめは分かりませんでした」
トビは肩をすくめて走っていった。門の手前でパン屋の女将に呼び止められ、何か頼まれて、二度うなずいている。あの子は街じゅうの用を預かって歩く。
「代書屋さん」
戻ってきたトビが、思い出したように言った。
「三の路地に代書ができたの、知ってる? 一通、銅貨二枚だって」
「安いですね」
「四半刻で書くってさ。読んだりしないから早いって」
わたしは羽根を削る手を止める。
削りかけの軸が、指の下で少しだけ冷たい――。
◇
十月二日。〈断り〉一通、銅貨四枚。走り使いへ銅貨一枚を払い、本日の残りは三枚。
読み上げ一度。受け取り、たしかに。控えの二枚目、懐へ入れて持ち帰られたること。
書き添え——断りの書式で、来いと書いた日のこと。定型は四行で足り、余りの一行だけが人の声になる。糸と針の代を引けば、縫い子の手元は月に銀貨十枚に満たぬ由。三の路地に代書ひとり、一通 銅貨二枚、読み上げなしと聞く。紙の残りは九枚。




