表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/3

2. 冬は無理です

 雨あがりの広場は、匂いが変わる。


 濡れた石畳から土の匂いが立ち、藁の甘さがそれに混じって、そのまた上にインクの匂いが乗る。壺の口を開けたままにしていたせいである。


 わたしは蓋を閉め、袖で机の水気を拭った。市の立たない日は人が少ない。少ない日ほど、腹を決めてきた人が来る。


 断り状がいちばん多いのは、秋の終わりである。冬の勘定が見えて、貸せる人と貸せない人に分かれる。だからこの季節は、〈断り〉の版木刷りを多めに刷ってもらう。


「あの」


 顔を上げると、縫い子のヘトヴィヒさんが立っていた。二十九で、指の腹に針の胼胝(たこ)がある。膝を折って、机の前の切り株へ腰を下ろす。


「金は貸せないと書いて」


「どなたへ、でしょうか?」


「兄です」


 それきり、言葉が止まった。


 ヘトヴィヒさんは膝の上で両手を組み、親指の腹をこすり合わせている。針の胼胝は硬く、こすっても音がしない。


 わたしは〈断り〉の版木刷りを引き寄せる。この書式は最初の一行が強い。『委細承りました、されど当方、しかじかのゆえ、此度は御意に添いかねます』


「では、伺います。お兄さんが最後にいらしたのは、いつですか?」


「……春です」


「何を持ってこられましたか?」


「何も」


 ヘトヴィヒさんが少し笑った。笑い方が、怒っている人の笑い方ではない。


「うちの子の靴を、直して帰りました。底が剥がれてたんです。糸も釘も、自分の袋から出して」


「お兄さんは、何をなさっていますか?」


「荷馬車の車輪を直してます。直せる人が減ったから、続くと思ったんですけど」


「仕事が減ったのは、いつからですか?」


「去年の冬から。街道が閉じているあいだ、車輪は壊れませんから」


 わたしは羽根を持ち替えた。


「いくら、と言ってきておられますか?」


「銀貨二枚」


 わたしは羽根の先で、紙の隅に線を二本引いた。


「縫いは、一枚いくらになりますか?」


「二枚です、銅貨の。……日に三枚縫えれば、いいほうで」


 日に銅貨六枚。ひと月休まず縫えて、銀貨十五枚と少し。そこから糸と針の代を引き、仕事の来ない日を数えれば、手元には十枚も残らない。子が二人いて、部屋代が要る。


「その靴は、まだ履いておられますか?」


「……履いてます。上の子が。下の子に回すんだって、そればっかり言って」


 ヘトヴィヒさんの声が、そこで一度だけ柔らかくなった。


 わたしはこの仕事で、人が二度言葉を変えるのを見る。一度目は、来たときに言う言葉。二度目は、事実を数えたあとに出てくる言葉。二度目のほうが短い。短いほうが、たいてい本当である。


 風が来て、広場の水たまりに雲が映って、崩れた。


「冬は、越せそうですか?」


「越せません。だから、貸せないんです」


 ヘトヴィヒさんの声が、そこで初めて尖った。尖ってから、本人が驚いた顔をする。


「……すみません」


「いいえ」


「兄が悪いわけじゃないんです。あの人も、去年から仕事が減って」


「はい」


「でも、うちも無理で」


 水たまりの雲が、風でもう一度崩れる。


「はい」


 わたしは待つ。屋根の縁から雨滴が一つずつ落ちて、石畳の同じ場所を叩いている。音の間が、だんだん長くなっていった。


 パン屋の窯が開いたらしく、焦げた麦の匂いが広場を横切っていった。教区の鐘が二つ鳴る。昼を過ぎたところである。


「……春なら」


 ヘトヴィヒさんが、自分の指の胼胝を撫でる。


「春なら、縫い物が増えます。祝言の季節ですから」


「はい」


「最後の一行は、どうしますか?」


「……最後の一行、って」


「この書式は、断りの文句で終わります。そのあとに、一行ぶんの空きがあります」


 ヘトヴィヒさんは、その空きを覗き込むように首を伸ばした。読めないのに、覗き込む。


「――冬は無理です。春に、二日だけ来られますか?」


 言ってしまってから、この人は口を押さえた。


「……お書きになりますか?」


 ヘトヴィヒさんは、ずいぶん長いこと、水たまりを見ていた。


「書いてください」


 わたしは版木刷りを机の中央へ置いた。〈断り〉の紙は、ほかの書式より墨を吸う。刷りが濃いぶん、余白の一行だけがよけいに白く見える。


 定型を四行。此度は御意に添いかねます、まで。そして余白の一行へ、いま聞いたとおりの言葉を写す。足しも引きもしない。


「では、読み上げます」


 声に出して読むと、断り状の背骨が急に柔らかくなるのが分かる。前の四行が硬いぶん、最後の一行だけが人の声で立っている。


 ヘトヴィヒさんは、最後の一行のところで顔を上げた。自分で言った言葉なのに、初めて聞くような顔をしている。


「たしかに、聞きました」


「これは、あなたの字です」


 拇印を押し、控えの二枚目を渡した。ヘトヴィヒさんは控えを胸に当て、それから畳んで懐へ入れる。銅貨四枚。


「なあ、代書屋さん」


 紙を受け取りに来たトビが、首をかしげている。


「断り状なのに、来いって書くの?」


「断るのは、あの方です。わたしではありません」


「よくわかんない」


「わたしも、はじめは分かりませんでした」


 トビは肩をすくめて走っていった。門の手前でパン屋の女将に呼び止められ、何か頼まれて、二度うなずいている。あの子は街じゅうの用を預かって歩く。


「代書屋さん」


 戻ってきたトビが、思い出したように言った。


「三の路地に代書ができたの、知ってる? 一通、銅貨二枚だって」


「安いですね」


「四半刻で書くってさ。読んだりしないから早いって」


 わたしは羽根を削る手を止める。


 削りかけの軸が、指の下で少しだけ冷たい――。


       ◇


 十月二日。〈断り〉一通、銅貨四枚。走り使いへ銅貨一枚を払い、本日の残りは三枚。


 読み上げ一度。受け取り、たしかに。控えの二枚目、懐へ入れて持ち帰られたること。


 書き添え——断りの書式で、来いと書いた日のこと。定型は四行で足り、余りの一行だけが人の声になる。糸と針の代を引けば、縫い子の手元は月に銀貨十枚に満たぬ由。三の路地に代書ひとり、一通 銅貨二枚、読み上げなしと聞く。紙の残りは九枚。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ