3. 読むだけ、銅貨一枚
十月に入ると、朝の光が薄い蜜の色になる。
門の石にはまだ霜が来ない。けれど風の縁だけが冷たく、羽根を持つ指の関節が、朝のうちだけ少し動きにくい。
この時刻の広場は、荷を下ろす音だけでできている。樽の底が石を擦る音、紐を解く音、荷馬車の荷物を下へ落とす音。人の声はまだ低い。
その朝いちばんの客は、桶屋のアントンさんだった。六十八で、腕だけが若い。両手の甲に、たがを締める仕事の傷が幾筋も走っている。
桶屋は、たがを締めるときに息を止める仕事である。だからこの人は、話すときも息の継ぎ目が少ない。
「これを読んでくれ」
畳んだ紙を、机の上へ置く。
「読み上げのみでしたら、銅貨一枚です」
「知っとる」
銅貨を一枚置いて、アントンさんは腰に手を当てたまま立っていた。座らない人は、たいてい早く帰るつもりでいる。
紙を開く。証文である。
麻紙ではない。厚みのある、少し上等な紙である。借りる側が用意する紙ではない。
書記局の割印が右上にきちんと押してあった。朱の色も濃い。文字は速い手で、行の間が詰まっている。
「では、読み上げます」
声に出して、初めから終わりまで読んだ。屋根の葺き替えのために銀貨八枚を借りたこと、利は市の定めのとおりであること、借りた者の名と、拇印。
読み終えて、紙を下ろす。
「そのとおりだ」
「利は、いくらと聞いておられますか?」
「年に一割だ。市の定めどおりだと言うとった」
「そのとおりに書いてあります」
「だろう」
アントンさんは満足そうにうなずいた。
「アントンさん。二つ、伺ってもよろしいですか?」
「なんだ」
「期日の欄が、空いています」
アントンさんの眉が動いた。
「催促は来とらん」
「もう一つ。金額の下に、指一本ぶんの空きがあります」
「空きがあると、どうなる」
「この紙は、今からでも書き足せます」
言い直しはしない。わたしは紙を回して、金額の行を上にして机へ置いた。
「たとえば八の下へ十と足せば、銀貨八十枚になります」
アントンさんは紙を覗き込み、それから声を出して笑った。笑い声が広場の朝の低い音の上へ、ひとつだけ高く乗る。
「うちの工房に、そんな値打ちはないぞ」
「……いえ。工房のほうが、高くつきます」
「代書屋さんは、心配性だ」
笑い皺の寄り方に、悪気はまるでない。わたしの言葉は、その笑いの上を滑って落ちていった。
「どこでお書きになりましたか?」
「三の路地だ。速いぞ、四半刻で済んだ」
「読み上げは、ありましたか?」
「なかった。要らんだろう、そんなもの。書いてもらったのは、俺の言うたとおりだ」
わたしは羽根を置いた。置いてから、置くのが早すぎたと思う。
「控えは、お持ちですか?」
「一枚こっきりだ」
風が門から入ってきて、証文の端をめくる。わたしは紙を押さえ、丁寧に畳み直して、両手で差し出した。
「……その紙は、なくさないでください」
「桶屋が紙をなくすものか」
アントンさんは、それを胸のあわせへ押し込んで帰っていく。背中は真っすぐで、歩きは速い。自分の桶の出来を疑ったことのない人の歩き方である。
ここから先は、わたしの仕事ではない。訊くことはできる。書くこともできる。けれどこの人の代わりに決めることだけは、どうやってもできないのだ――。
わたしは控帳を開いた。
この帳面は、綴じ糸を解かないかぎり紙を差し込めない。頁の隅には通し番号が振ってある。番号の飛びは、そのまま抜き取りの証しになる。
十月九日。読み上げ一件、銅貨一枚。〈証文〉一通。金額は銀貨八枚、期日の記載なし、末尾に空きあり。
書いたのは、それだけである。それだけが、いまのわたしにできることだった。
「代書屋さん、いま空いてる?」
次に来たのは、市の魚売りの女の人だった。籠の水が肘まで垂れている。
「弟に、店の話を書きたいんだけどさ」
「〈遠方の身内へ〉でしたら、銅貨四枚です」
「高いねえ」
「紙を二枚使いますので」
「二枚も要る?」
わたしは机の上で、紙を二枚、少し離して並べてみせた。
「一枚は、あなたが持つ紙です」
女の人は、へえ、と言って腰を下ろした。
「弟さんは、おいくつですか?」
「三十一。あたしと同じ年に見られるんだよ、あの子」
「お店は、弟さんも継がれたのですか?」
「いや。あっちは船に乗ってる。だからこっちの店の話なんか、退屈だろうけどさ」
女の人は籠を持ち直した。水が肘から手首へ伝う。
「便りは、ありますか?」
「去年の秋にひとつ。それきり」
「いまは、おひとりで回しておられますか?」
「あたし一人。人は雇えないよ」
籠の底で、鰊が二尾、光っている。細い。たしかに細い。
「ことしの鰊は、いかがですか?」
「入るには入る。……入るんだけどさ」
わたしは版木刷りの、いちばん下の空きを指で示した。
「最後の一行は、どうしますか?」
「んー……達者でな、とか」
「それは、上に刷ってあります」
「じゃあ、いいや。あんた、なんか書いといて」
「わたしは、伺ったことしか書けません」
女の人は、ちぇっ、と言って籠を膝に乗せ、しばらく指で水を弾いていた。
「――ことしの鰊は、細い」
顔を上げないまま、そう言う。
「それで、よろしいですか?」
「それがいちばん、あいつに分かる」
書いて、読み上げた。女の人は途中で二度うなずいている。
「たしかに、聞きました」
「これは、あなたの字です」
銅貨四枚と、鰊が二尾。鰊は要らないと申し上げたのに、置いていかれた。
「代書屋さん」
西の空が林檎の色になり、門の影が広場を半分まで渡ってきたころ、荷を下ろしたトビが机の脇へ滑り込んでくる。
「三の路地、いま行列だよ。すごい人」
わたしは控帳を閉じ、綴じ糸の結び目を指で確かめた――。
◇
十月九日。読み上げ一件、銅貨一枚。〈遠方の身内へ〉一通、銅貨四枚。ほかに鰊二尾、辞したれど置いていかれたること。
読み上げ、受け取り、たしかに。
書き添え——〈証文〉一通、金額は銀貨八枚、期日の記載なし、末尾に空きあり。割印は本物、紙は厚みのある上等のもの。書き足せると申し上げたが、笑って帰られたること。訊くことはできても、代わりに決めることはできぬ由。控帳の通し番号、本日で四百九番。綴じ糸の結び目、あらためて確かむ。




