1. 薪が、余っている
秋の市の翌朝は、街がいちばん散らかっている。
門前広場の石畳に藁くずが散らばり、踏み潰された林檎の匂いが日向に残っている。荷馬車が三台、門の下でつかえて、御者たちが言い合っていた。
わたしの机は広場の西の隅にある。樫の一枚板で、脚は四本とも長さが違う。先代が据えてから動かしていない。
机の上は、紙と、没食子のインクの壺と、削った羽根が三本きり。代書屋がどこにいるかは、字を読める者より読めない者のほうがよく知っている。
十人のうち、二人。この街で字を読めるのは、そのくらいである。
朝の光が門の壁を回り込み、机の左半分にだけ届いている。その日向へ手を置いていると、影が落ちた。
「代書屋」
門衛のグンターさんが立っている。
鉄の胸当てに光が細く乗っている。五十を過ぎた肩幅の広い人で、いつも怒っているような声を出す。怒ってはいない。
「おはようございます」
「帰ってこいと書いてくれ」
挨拶は返らない。
「娘さんへ、ですか?」
「ほかに誰がいる」
わたしは羽根を置いた。
「グンターさん」
「なんだ」
「そのとおりに書きますと、たぶん届きません」
グンターさんの眉が寄る。首の後ろを掌でこすり、机の脚を蹴った。脚の一本が短く、机が小さく鳴る。
「届かんとはどういう意味だ。ミューレンまで二日だぞ」
「紙は届きます。中身が、届きません」
「なあ、代書屋さん」
横から声がした。荷運びのトビである。十一歳で、耳がよく、口が早い。
「三つのやつ、また言ってよ。二つしか覚えてない」
「掟は三つあります」
「一つ、言われていないことは、書かない」
トビが指を一本立てる。
「二つ、書いたものは、読み上げる。本人が『たしかに、聞きました』と言うまで、渡さない」
指がもう一本増えた。
「三つ、宛先の書けない手紙は、留め置く。留めた手紙は、代書屋の手からは出さない」
トビの指は、二本で止まっている。
「……三つ目、意味わかんない」
「わたしも、十九のころは分かりませんでした」
グンターさんが革袋の口を開けた。
「いくらだ」
「私信は一通、銅貨四枚です。紙を二枚使いますので。……お持ちでなければ、次のときで構いません」
「持っとる」
銅貨が四枚、机の隅へ並ぶ。並べ方が几帳面で、今日を何日も前から決めていたのだと分かった。
「では、伺います。娘さんのお名前は?」
「ロージア」
「嫁がれたのは、いつですか?」
「三年前の秋だ。ミューレンの粉屋に嫁いだ」
名と土地を控える。
「便りは?」
「一度もない」
声は変わらない。ただ、胸当ての下で息が一つ、長くなる。
「薪は、今年は何束割られましたか?」
「……は?」
「薪です。冬のぶんの」
「四十二」
数を紙の隅へ控えた。
「去年は」
「三十八だ。……なんの話をしている」
門を抜けた風が、机の紙を一枚めくって、また伏せる。
「お宅は、何人でお住まいですか?」
「俺と、女房と、女房の母親だ」
「三人で四十二束は、多くありませんか?」
グンターさんが黙る。
門の影が机の縁まで伸びてくる。車輪が石畳を鳴らし、御者の声が遠ざかっていった。日向が動いて、右手はもう温かくない。
胸当ての留め具を二度いじって、門のほうを見る。三年前、娘さんが出ていった門である。
「……去年も、余った」
「はい」
「今年も、余る」
「はい」
グンターさんの口が、開いたまま止まった。
「――ことしも、あれの分の薪を割った」
〈遠方の身内へ〉の版木刷りを一枚、机の中央へ置く。
「この書式は、決まった文句が先に刷ってあります。息災でおりますか、で始まり、息災を祈ります、で終わります。……ここが一行、余っています」
差出人の名の上の、指一本ぶんの空き。版木の都合でできた空きで、埋めろとは誰にも言われていない。
「最後の一行は、どうしますか?」
「……今のでいい」
「今の、とおっしゃいますと?」
「――ことしも、おまえの分の薪を割った。それだ」
羽根の先を壺へ入れ、余分を縁で落とす。近況を三行。門の勤めのこと、女房の母親が春に転んで治ったこと、林檎が高いこと。どれもグンターさんが言ったことで、わたしが足したものは一つもない。
そして、余白の一行。
書いているあいだ、グンターさんは羽根の先を見ていた。字の読めない人は、たいてい字を見る。読めないのに、見るのだ――。
「では、読み上げます」
紙を目の高さへ持ち上げ、初めから終わりまで声に出して読む。
「……もういっぺん」
二度目を読んだ。
グンターさんは途中で胸当ての上を掌で押さえ、そのまま終わりまで聞いている。
「たしかに、聞きました」
「これは、あなたの字です」
差出人の名はわたしが書き、その下へグンターさんが拇印を押す。親指の腹が大きく、印は紙の縁まで届く。
控えの二枚目を書き、グンターさんの手へ渡す。日付と要点は控帳へ。本紙は折って、蝋で留めた。
「トビ」
「ミューレンだろ。知ってる」
トビが指を二本立てる。
「門の下の荷へ。御者に、粉屋のロージアさんまで頼んでください。……銅貨一枚です」
「ちぇっ」
トビは紙を懐へ入れ、門の下でつかえている荷馬車の列へ走っていく。三台目の御者へ紙を渡し、代わりに何か頼まれて、笑って手を振っていた。
グンターさんは、まだ帰らない。
「代書屋」
「はい」
「返事は、来るのか」
わたしは机の縁の傷を親指でなぞる。先代の手が付けた傷である。
机の下に木箱が一つある。蓋に留め金はない。中の手紙は、どれも宛名が書けなかったものである。わたしは箱を足で奥へ押した。
いちばん下の抽斗には、紙が一枚。宛名と、三行だけが書いてある。末尾の一行が空いたまま、十二年、そのままになっている。今日も開けない。
「返事は、たいてい来ます」
たいてい、と言ってから、わたしは口を閉じる。
来ないこともある、という続きは、言わないでおいた。
グンターさんはうなずいて、鉄の音を立てて門へ戻る。門の下で一度だけ振り返り、机のほうを見た――。
◇
九月二十八日。〈遠方の身内へ〉一通、銅貨四枚。走り使いへ銅貨一枚を払い、本日の残りは三枚。
読み上げ二度。受け取り、たしかに。拇印は差出人の名の下、紙の縁まで届くこと。
書き添え——薪の数を覚えているのは、割った人だけのこと。四十二束の勘定は、こちらでは検められず。紙の残りは十四枚、羽根は明日削るを要す。日の落ちるのが早く、机を仕舞う刻も早くなること。




