葵という名の女性
大和は立ち上がり、縁側からサンダルを引っかけた。家庭菜園の脇道を抜けて、垣根の間の戸口から裏道に出る。
ふと立ち止まって深呼吸をすると海の波の音と共に、微かな潮の香りがした。空を仰ぐと、都会では見られないほどの星々が満天に輝いていた。この景色を見ると、この町に来たことを実感する。
「!」
膝下に柔らかい毛並みと高い体温の塊がすり寄ってきた。目線を下ろすとそこには地域猫の文太がいて、大和の来訪を歓迎していた。
「よう。」
膝をついて、文太の背を撫でてやる。すると気に入ったとばかりに、腹を出して見せてくれた。しばらくその毛並みを堪能して、立ち上がる。目的地は祖父母の家のすぐ裏の家だ。あまり遅くなると、祖父母が心配するだろう。
「じゃあな。」
ぐるる、と喉を鳴らす文太に手を振って、今度こそお使いの目的を果たすことにした。
目的の家は、二階建ての民家で朝顔の鉢が玄関わきに置かれていた。表札には、「宗方」の文字が刻まれている。そこに玄関チャイムは無く、引き戸を直に開けて声をかける。
「葵ねえちゃーん、いるー?」。
「はあい、誰ー?」
大和が名乗ると、家の奥で「入って来て」と無防備な返事が聞こえてくる。都会では考えられない大らかさだ。
「あぶねえなあ…。」
呟きながらサンダルを脱いだ。軋む廊下を歩き、導くように光が漏れる部屋に行く。
「こんばんは、大和。久しぶりじゃん。」
去年の夏から一年ぶりに会うのは、宗方葵だった。
葵は21歳の若さで両親と死別しており、残されたこの家にたった一人で暮らしている。
「うん、久しぶり。」
ローテーブルにネイルケアのセットを広げて、葵は大和を見上げた。
「おー、身長また伸びたんじゃない?」
「去年から5㎝伸びた。」
「マジか。男子の成長、侮れんなあ。」
葵はマニキュアの上にトップコートを塗り終えて、ふっと息を吹きかける。深い海のような濃い青色のマニキュアだった。
「で?今日は何の用?」
「ああ、そうだ。めんつゆを貸してくれって、ばあちゃんが。」
「おっけー。私、手が離せないからさ、勝手に持ってってくれる?流しの下の棚ー。」
「りょーかい。ありがと。」
幼い頃から葵の家には入り浸っている。大和は勝手知ったるを装い、部屋続きになっている台所に向かった。
しゃがみ込み、棚を漁ると程なくして使いかけのめんつゆを発見できた。その間に遭遇した調味料を見ると、所々消費期限が過ぎていることに気が付く。
「葵ねえちゃん、棚ん中整理した方が良いよ。」
「えー?」
「消費期限切れがちらほら。」
「めんつゆは?」
「無事。」
じゃあいいや、と言って葵は笑う。いいのか?と首を傾げる大和を見て、ひらひらと葵は手を振った。
「また、家のメンテナンス手伝ってよ。」
そう言って、葵は猫のようににやりと笑う。この町に来るたびに、大和は葵の家のメンテナンスを手伝っていた。
部屋の掃除こそ行き届いているものの、切れた電球の交換や庭の草取りなどの細々とした作業はほったらかしにしてしまう悪癖が葵にはあった。それをひと夏かけて、大和が補っていた。今年は台所周りかな、と大和は段取りを頭に浮かべる。もう慣れたものだった。
「わかった。じゃあ、また昼来るから。めんつゆ、サンキューな。」
「うむ。待ってるよん。」
めんつゆの瓶を手にして、立ち上がる。最後に葵から、祖母の家に持っていく予定だったという回覧板を預かって玄関に向かった。背後で葵も見送りについてくる。ひたひたと裸足で歩く音が二人分、廊下に響いた。
「廊下の軋み、ひどくなってない?」
「古い家だからね。さすがに大和でも、大工さんは無理っしょ。」
「リフォームとかしないの。」
「うん。古くても、この家が好きなの。」
家族の思い出がたくさん詰まっているのだと、葵は愛しそうに言う。確かにこの家の隅々には思い出の片鱗があった。
柱に刻まれた身長の跡が幾重にも連なり、キャラクターが印刷されたシールが窓の縁で剥げかけている。畳にはクレヨンの染みが淡く滲み、壁には幼い葵が描いたらしき絵が日に焼けていた。
愛しい思い出の中に、彼女の寂しさが孕んでいる。その気配に気が付いた大和は自分の浅はかさに小さな溜め息を吐いた。
「葵ねえちゃん、夕飯は食べたの?」
「? まだだけど。」
「うちで一緒に食べない?」
大和の唐突の誘いに、葵は目をぱちぱちと瞬かせる。
「そんな独断で、決めていいの?ありがたいけど。」
「大丈夫。ばあちゃん、俺が死ぬほど食べると思って山盛りの天ぷらを揚げてるから。」
その量に、祖母の愛情深さを知るようだった。
「食べきれなかったら、ばあちゃんとじいちゃんに申し訳ないし。手伝ってよ。」
「この、しあわせ者!」
「知ってる。」
ははは、と笑い、葵は待っててと言う。
「鍵、取ってくるわ。」
「おー。」
家の中でバタバタと賑やかな音を立てて、ようやく葵が鍵についたキーホルダーを指で回しながら玄関に戻ってきた。
「ごめん、ごめん。どこに置いたか忘れちゃってさあ。」
「置く場所決めなよ…。」
玄関の鍵をかけ、二人はようやく歩き出す。暗い闇夜に月が追いかけるように、ついてきた。
「ただいまー。ばあちゃん、葵ねえちゃんも連れてきた。」
「あらあー、いらっしゃい。ごはん、食べていけるんでしょ?」
揚げ物の手を止めて、祖母が振り返る。その手元には大和が宣言した通り、天ぷらを山盛りにした大きな皿があった。
「そのつもりでーす!ありがとうございます。」
大和と共に、縁側から居間に上がる。葵の姿を見て、祖父が嬉しそうに日本酒が入ったグラスを掲げた。
「葵じゃねえか。お前、飲むだろ?」
「いただきます。」
葵の快い返事を聞いて、大和は彼女が年上だったことを思い出す。皆で酒を酌み交わす、自分が二十歳を迎えるのが楽しみだった。
大和はたらふく祖母が揚げた天ぷらを食べ、葵は祖父とともに酒をたらふく飲んだ。若者二人が食事をする様子を、祖父母は嬉しそうに見守っていた。




