二章-2
もう早起きの習慣は抜けてしまった。それでもミサの後ではなく、ミサの時間に起きる分、まだあの大声の名残は残っているらしかった。
縁側に出て伸びをする。庭には誰もいない。命の残滓が舞っていない空気はすっと胃に染み入る気がする。
「おはようございます」
突然後ろからかけられた女の声に「ああびっくりした」と息を吐く。
「凪さんか」
左後ろ側からか。そりゃ気付かない。軽そうな体躯だから、その足音にも気が付かなかった。
「そんな驚かれるとは思いませんでした」
前髪で隠れがちな左目も大きく見開く彼女に、まあねと軽く返事をして、挨拶を交わしてから聞いた。
「ミサには行かないんだ」
「尊さんも」
「俺はまあ、寝坊」
家の中には誰もいない時間だ。彼女は部屋での食事を終え、誰もいない庭に日光浴に出るつもりだったのだろうか。
「もうきみが来て一ヶ月くらいか」
いつもと変わらない垂らされたままの髪と、洋装。今日も変わらず大事そうに抱えている文庫本を指差した。
「いつもその本読んでるよね」
「はい。本はこれしか持って来なかったので」
「そっか」
耳を澄ませば、波の音に混じって聖歌が聞こえた気がしたけれど、気のせいかもわからない。
これで終わりかと思った会話は、意外なことに彼女が続けた。
「この本、ホトトギスっていうんです」
「ああ、鳥の話?」
「違います」
わりと自信満々に言ってしまった。
本は読んでいたけれど美術書や雑誌ばかりで文芸はあまり詳しくない。そっか、と言ってあからさまにしょげた。
「赤い鳥だって全部鳥の話じゃないもんなあ」
赤い鳥は子供向けの文芸雑誌だ。童話だけじゃなく、が多く載っていて、成長と共に気がつけば読まなくなった。
「赤い鳥、懐かしいですね」
「ああ、読んでた?」
やっぱり凪さんとは年が近いんだな。華奢な体を身近に感じた。
赤い鳥。雑誌はいつの間にか廃刊になっていた。紙の利用制限かそれ以外の理由か。察する理由はあまりある。とはいえその雑誌の名前を書いて一番に思い出すものがあった。
「赤い鳥といえば……」
「クラブ練歯磨」
意外なことに、俺と彼女の声は重なった。
まさか連想したものが同じだと思わ図、嬉しさを隠さずに言う。
「やっぱりあれだよね、あの裏表紙」
彼女もおかしそうに笑っている。乾いた咳をしてから頷いた。
俺が読んでいた頃、赤い鳥の裏表紙はいつも決まっていた。クラブ練歯磨の広告。新年なら今羽子板に歯磨粉の絵、時には少女が船に乗り白鳥と進む絵。次はどんなイラストだろうかと毎号テイストの変わるそれを楽しみにしていた記憶がある。
笑い声が止んで震える細い肩が止まった。ぱちりと音を立てて、目が合う。初めて目が合った気がした。
笑い終えて、小さく息を整えるよう咳き込んでから、彼女は言った。
「この本は、結核の患者の話です」
結核に苦しんでいる当事者なのに面白いと思えるのか? 疑問が口をついた。
「それは……面白い?」
「面白いというより、憧れですかね」
「憧れ?」
「はい。そうです」
どんな話なの、と聞く。答える口ぶりは少し恥ずかしそうだった。
「恋愛小説なんです。結核の奥さんと、旦那さん……愛した人の」
「そうなんだ」
やっぱり女はそういうのが好きなんだな、と思いながら腕に抱かれた文庫本を見る。
繰り返し読まれたような小口を見ながら、死の病であってもか、と皮肉なことを思う。むしろだからこそ登場人物に共感できるのだろうか。
「尊さんって」
急に顔を見て言われた声に先ほどの重さはない。「ん?」と聞き返す。目は合ってるはずなのに、やっぱりどこか視線が合ってない気もした。彼女が続ける。
「笑う時に左側を向きますよね」
「ああ、ええ?」
そうなの? と聞きながら、気付かなかった、と言う。
「初めて言われた」
誰にも言われたことがない。それでも理由は思い当たる。
「そうなんですか? いつも、笑う時顔を傾けるなあって……」
「ああ、俺ね、右耳が聞こえないの」
なんの感慨もなく事実として答えると、彼女の方が気まずそうに言葉に詰まった。今にも謝りそうな空気に先手を打つ。
「違うよ。全然そんなんじゃない。別に大した話じゃないよ」
だからと言って女の子に聞かせるような話でもない。どうしたもんかな、と新しい話題の方向を探すと、ちょうどよく声が飛んできた。
「ひーろーはーたーさーん!」
シスター・イーダの大きな声が庭の方から聞こえると同時に、鳥の羽ばたきが重なった。庭に来ていた鳥が大声に驚いて飛んでいってしまったようだ。
「行っちゃった」
「そうだね、ごめんね。立ち止まらせて」
シスター・イーダが空いたデッキチェアにかける毛布を広げた。日に照らされる大きな毛布が波を打つ。
「じゃあ、また」
「はい。あ」
何かに気付いたような彼女の声に、呼び止められた気がして足を止めた。
「どうしたの?」
「はい。その」
聞こえた咳払いは小さい。
「……今日も、海が綺麗ですね」
「ああ」
高台にあるこの場所から見える海は、時折風で白に砕けて、ニスを塗られたばかりのように煌めいた。
「うん、そうだね」
死を待ちながらも、人は愛を求めることを知っている。行き止まりのこの場所でも、廃墟の中でも、愛は育つ。
髪をかきあげて与えられた微笑みに、着物の襟を直した。
夕方になって確認すると、絵の具はすっかり乾いていた。蒔田夫婦の部屋の扉をノックする。二階、俺の部屋とは反対側の奥。すぐに内側から返事があった。
「尊です」
どうぞ、と言われて、絵の具を落としきれていなかった手で扉を開く。
「絵が乾いたんで持ってきました」
はためくカーテンの向こうから、赤々とした日差しが差し込んでいた。火の玉のような明るさに細めた目を開くと、博さんと文子さんが上半身を起こしてベッドの上にゆったりと座っている。
「描いてもらうのは始めてだったね」
「あなたが充分だと言っていたからではありませんか」
言葉を交わし合う二人のベッドに歩み寄った。持っていたカンバスの絵の面をゆっくりと向ける。
「そうだね」
博さんが眼鏡を押し上げた。
「あの日店の前で写真を撮ってからずっと、僕の時間は止まっていたから」
二人に絵を向ける。
カーテンの金具が音を立てた。
すっかり乾いたはずの絵から漂った塗料の匂いが鼻を掠める。
絵を見せると「まあ」と文子さんが口元を押さえた。
明るい日差しの下で、顔を寄せ合って微笑み合う二人の姿を描いた。絵の中の文子さんの襟の色と博さんの着物の色は同じ色だが、動く木漏れ日を意識して若干違う色で塗っている。
絵を見ながら、博さんがまた眼鏡を押し上げる。言葉少ない二人を前にして気恥ずかしさを感た。
ここに置いておきますね、と床と壁に立てかけようとすると止められた。
二人の視線が手元に集中する。
「どこか西洋画の雰囲気を感じるね。けれど、青木繁の絵のような生命力もある」
そう言って、博さんは誰の言葉も引用しなかった。
「幻想的に思える。この絵の中の僕たちは、どこへだって行けそうだ」
二人の部屋に絵を置いて、自分の部屋に戻った。開け放っていた窓はすっかり空気を変えたらしく、画材は転がってるけれど生乾きの絵の具の新鮮な匂いはしない。
窓を閉める時に見た海の色は黒い。時折白い筋が浮かんでは砕けて消える。一定のリズムで動き続ける波は生き物のようだ。今か今かと獲物を待っているようだ。
夜には恐ろしさを湛え、昼には希望を見せるようなこの海は皆の命を吸い取っているようだ。
そんな海に呼び寄せられた彼女と、海を見てから消えた茂雄。
窓を閉めたら波の音はもう聞こえない。瞼を閉じて、自分のことを思い出した。




