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二章-1

──前に言ってた、見えるものに価値がないと言ったってたのは、そういうことだったんだね。


 改めて謝った俺に気にしないでと彼女は言った。


──いいんです。だって目が見えなくなる私には、どうせ意味がなくなるものなので。


 語られたものは、死よりも前に失明の恐怖を緩やかに受け入れる彼女の覚悟だった。


──だから覚悟は決めてるんです。そうやって言い聞かせてるから。自分で言い聞かせてきたから。


 けど、と前置きをした。自分がいずれ失うものを無価値だと呼ぶことで諦めようとした彼女は、けど、と抵抗の言葉を言った。


──本が読めなくなるのは、困っちゃうなあ。


 困ったような顔に、俺がかけられる言葉はわからなかった。


 何も答えは出るわけない。二人が今まで言った言葉を思い出しては、下手な慰めだけが頭の中で渦を巻くだけだった。


 キリスト教では日曜日は一度死んだイエスの復活を祝うための記念日らしい。


 暗い海から入ってくる風を窓を閉めて断ち切る。カーテンを閉めた部屋に、どこかの部屋からの大きな咳が微かに聞こえた。安息日と名付けられた日曜日が終わる。




 黄色い屋根の下で、蒔田夫婦が顔を寄せ合って喋っている。博さんは今日は調子が良いみたいで、文子さんと二人で庭に並んでいた。


「おはよう、尊くん」


「おはようございます、博さん、文子さん」


 蒔田夫婦に挨拶を返し、昨日調子の悪そうだった藤堂さんにも声をかける。


「おはようございます、体調はどうですか」


「ふふ。なんの冗談も言えないわあ」


 それはそうですね、と苦笑する。それから蒔田夫婦の近くに座って、カンバスを立てる。


 下塗りの淡い色が塗り終わって、今日から本格的な色塗りに映る。周りの皆もそれぞれ談笑をしたり本を読みながら過ごしていて、それを近くでシスターたちが見ている。


 午前の空気は少し冷たい。それでも肌の上で溶ける脆い日差しに、寒いとまでは感じなかった。


「あらあ」

 本を読んでいた藤堂さんが顔を上げた。

「あの子」


 視線の先を辿ると、そこには白い人影があった。洋装の服の裾は風ではためていて、和服では作れないシルエットを作る。


 危うそうだと思って自然と立ち上がってしまう。多分俺に用がある。あらあらあら、と声が聞こえて、そう思ってしまったことに気恥ずかしさを覚える。


 座り直そうとした瞬間に彼女と目が合った。


 歩み寄られる距離に報われた気持ちになってしまって、立ち上がったままでいることを決めた。


「ちょっと失礼します」


 周りからの生暖かい視線を感じたが応えなかった。柔らかい芝を踏んで、少し離れたところに立ち止まった彼女に早足で駆け寄る。


「おはよう、凪さん」


 挨拶をすると驚いたような顔をされて、逆に驚いてしまった。


「びっくりした」


 なにが、と聞く前に様相の彼女は言った。


「はじめて名前を呼ばれた気がする」


「……そうだったかな?」考えてみる。「そうかも」


 皆の名前を読んで挨拶を返していたから、癖のせいかもしれない。家柄を表す苗字よりも、変わった名前の方が印象が強かった。


「嫌ならやめるよ」


「尊さん」


 まるで応えるように、不意に呼ばれて少し驚く。


「覚えててくれたんだ」


「はい。……まあ」


 視線の先と目元の黒点が見えない。邪魔そうな髪だ。けれどだからこそ、かきあげる仕草が映える。黒髪を額にした白い顔の唇が開いた。


「せっかくなので、庭で……海を見ながら、日光浴をしようかと思いまして」


 微笑みが確かに俺に向けられた。


「それはいいね」


 俺がそう答えると彼女は庭に降りて、皆に挨拶を交わし空いているデッキチェアに腰掛けた。





 天岩戸から自ら出てきた彼女は、よく笑う少女だった。悲しみそのままに引きこもっていた素直さで、感情の温度そのままに表情を作る彼女は、すぐにみんなに溶け込んだ。


 いつも洋装で、手元に本を持っている。国民服を薄めたような色をした表紙の文庫本。時折ページを捲るが、周りと団欒しているから、あまり読む暇はなさそうだった。




「────そうねえ、見に行ったわ。イルカ、不思議な生き物だったわよお」


 金曜日の午前。部屋での朝食を終えたのだろう、遅れて庭に現れた彼女は、藤堂さんのゆったりとした話しぶりに傾けていた。文子さんが僅かに身を乗り出して答える。


「私も行ったことがあります。入江を囲むようにお城があって、中には自然の岩場があって……まるで竜宮城にいるようでした」


 文子さんの胸元でずれた毛布をすぐにシスターが手を伸ばして掛け直す。


 中ノ島天然水族館の話らしい。



「ああ竜宮城! 確かにねえ。お客さんが多かったわよねえ?」


 藤堂さんはまっすぐ庭を見るように置かれた椅子の上で、時折顔を左右の二人に向かせながら話している。


 俺はといえば、絵はもう終盤で夜に進めた分を乾かしているだけだったので庭を箒で掃いている。


「このあとは教会の前もね」と言ったシスター・イーダは、だんだんと院長に似てきている。逆らえない。


「イルカのいる池を囲む様にぐるっとお客さんたちが並んでね、私も手すりに張り付いて水面に目を凝らしたわ。そうするとね、すうっと影が浮かんでくるのよ。それから水の上を飛び上がるの。すごいわよお、羽もないのに飛んだみたいに」


 箒で掃きながら聞こえた話に思い出すのは友の話だった。茂雄が見たことあると言っていたな。水族館じゃなくて、伊豆の飼育池の方で。海にいるものに金なぞ払えるか、と海を仕事場とする男らしいことを言っていた。


「賢そうな顔をしていました。あれなら人語を理解すると言われても信じられます」


「私も聞いたわあ。本当なのかしらねえ」


 藤堂さんの返事を聞きながら、文子さんは咳き込んでむせた。途切れ途切れに言う「すみません」を誰も責めたりはしない。


「凪ちゃんは見たことあるかしらあ?」


 藤堂さんだった。皆で彼女の呼び方はそれで決まったそうだ。少し考える間があって、それから彼女が頷いた。


「はい、見には行きたかったんですけど……昔から体が弱くて、人混みには、なかなか……」


 それぞれが労わるよう顔で沈痛なため息を漏らした。


 じゃあ治ったら、と軽率には言われない。言わない。


「そう、見られるといいわねえ」


 海の方を見ながら、藤堂さんが願うように呟いた。精彩を欠いた頬の上で、木漏れ日が動く。


 ここで許されるのは慰めではなく、願いだ。





 小用を足して部屋に戻る途中で、シスター・イーダに鉢合わせた。


 黒のワンピースに映える白いエプロンの姿。昼食はとうに終わった昼下がり。部屋の食器を下げてきたのだろう、お盆に乗った食べ物は盛り付けられた時と変わらない色彩を持っていた。


「それ、博さんの?」


 食事の場に、蒔田夫婦はいなかった。食堂の扉を開けながら聞くと、そう、と彼女は頷いた。それから沈痛そうな面持ちでそうなの、と重ねる。


 ほとんど手の付けられなかった食事。


 それが何を意味するのか、もう知っている。


 比較的軽微な咳を伴う肺結核の症状が一、二年。それから咽頭結核を併発する。そうなると食事を飲み込むのはもちろん、痰を飲み込むにも喉が痛くなる。その喉の菌のある痰を飲み込んで腸結核になり、高熱と下痢が出る。


 それから一、二ヶ月。長くて数ヶ月で死ぬ。それが普通。


 階段的な症状は、いっきに悪化の一途を駆け上がったり、ときに病状は駆け降りたように軽くなったりする。


 外を見ながら、次の季節を思い出そうとする。感じる肌寒さに、まだ春の片鱗はない。


 冬はまだ、これからだ。


 部屋に戻って、立てかけて乾かしているキャンバスを眺める。絵は既に佳境になっていた。


 行き止まりのこの場所で、寄り添い微笑み合う二人。博さんは文子さんが襟の色を合わせていた着物を着ている。あとはホワイトを使い、髪の艶めきや服の皺の光加減を調節するだけだ。


 部屋の中から庭を眺める。蒔田夫婦の姿の代わりに、藤堂さんの隣には広幡凪の姿があった。十一月の空は淡い。


 午後の波が遠く、白く散る。潮風がほのかに薫った。




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