一章-6
茂雄が帰って一週間。足元に這い寄っていた冷たさが肩まで届くようになった。
十一月に入り、茂雄がいなくなって淡くなると思った日々の濃度も案外変わらない。
変わったことといえば、博さんが庭に出てくることが減った。部屋にいる時間が多くなり、顔を合わせるのは食事の時くらいになった。
それが示唆することは、結核の進行に他ならない。
結核の症状は《《階段的》》なものだ。じわじわと悪化を続けるのではなく、落ち着いたと思えば悪化し、安定したかと思えばまた悪化する。
進展、停止、改善、悪化を一進一退と繰り返し、やがて、衰弱し死に至る。
それが結核。薬のない、不治の病。
火曜日の昼前。柔らかい日差しに照らされて、カナリアンイエローの屋根は薄く光っているようだった。淡い空の色と深い山の緑色に映える。
夕食に現れたその姿を、藤堂さんが呼んだ。
「文子さん」
いつも夫婦二人で現れるというのに、今は一人の姿しかなかった。藤堂さんに微笑みで答えると、空いた椅子に座った。
「博さんは?」
配膳をしていたシスターが、追加の食事を用意する食器の音が鳴る。
既に目の前には夕食が並べられていて、これから食事前の祈りをするところだった。
「そうですね……少し、辛いみたいで」
シスターの沈む声に比例した視線。手荒れした手が今日の夕食が並べていく。
魚しんじょの吸い物、カツレット、ほうれん草胡麻和え、そぼろ大根。まだ症状が軽い患者と、俺への一号食事。食事内容は、症状が重くなると三号食という消化に良いものへと変わる。
配膳台に乗せられた一号食と、三号食。一号食はあの少女のもので、三号食は博さんのものだろうか。
揃った食事を前に、皆の声が重なる。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧にしてください。主の御名によって……アーメン」
いつもより静かになった食事を終えて、皆とともに部屋に戻る。部屋は窓を開けたままでいたのに、まだ絵の具の匂いがする。冷たさを感じて窓を閉めた。
絵はあと少しだった。キャンバスを見てこの後塗る色を考えながらパレットを手に取った。
早く完成させた方がいい。焦る思いが筆を持つ手を動かして、気が付けば午前二時になっていた。パレットを指から外して、持っていた筆を置く。
喉の渇きを感じて廊下に出た。指で弾かれたような音がして窓を見ると蛾がぶつかっていた。消灯時間の過ぎた暗い廊下のどこに惹かれたのだろうか。
食堂の前に人影があった。結えて上げられた髪型は昼間と同じだったからすぐにわかった。
「藤堂さん」
「え、あ……尊くんかあ」
声をかけると肩が跳ねて、それから安心したように長い息を吐いた。
「びっくりしたわあ、驚かさないでちょうだいよう」
「ああ、すみません」
寝巻き姿ではなかった。昼間鳥に餌をあげていた姿そのまま華やかな着物を前に、乱れていないだろうかと自分の木綿の襟を直す。
「水を飲んでたんですか?」
「……そうよ。尊くんも?」
そうです、と答えて昼間と変わらない姿に「眠れないんですか?」と聞く。
「ふふ、尊くんは?」
「僕はひと段落したので」
そう言って水を飲む真似をすると、そうなのねえ、と藤堂さんは柔らかく言った。
「まだまだ寒くなりそうねえ」
「そうですね」
窓の外には底冷たい夜が広がっている。
「おやすみなさい、尊くん」
「おやすみなさい、藤堂さん」
部屋に戻るのだろう後ろ姿を見送ってから食堂の明かりをつける。流しにはカップが一つも置かれていなかったから、新しいものを取り出して洗うのも億劫でよく手を洗って手酌で水を飲んだ。
夜明けの色はまだ遠い。
「では、ペトロの手紙第一章、十三節から」
寝坊すると思ったミサに間に合ったのは、まだ重雄に起こされた時間を体が習慣と思っているせいだろう。あいつ結局なんだったんだろう、そう思いながら院長の声に耳を傾ける。
「──── あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」
教会の列席者は、いつも通りの顔ぶれ。並ぶ黒髪と着物の上に、色とりどりの光が落ちる。座るベンチに落ちた光に触れると、ニスのひんやりした感触がした。
「では。聖書のみ言葉を終わります。アレルヤを」
頭の上を通る高い音。シスターたちの歌声が重なる。
それから終わって外に出ると、始まる前には無色だった日差しがどこか色を帯びていた。すぐ隣の建物に入ろうとした皆の前で、砂利を蹴って一台の自転車が止まる。乗ってきた体格のいい男は、学生服のような詰襟と、郵便局員にしては小さなバッグを肩にかけていた。男は教会から出てきた院長を見つけると声を出した。
「電報です」
電話局の電報配達人だった。院長がバッグから取り出された紙を受け取ると、自転車は下り坂を降りて行った。
皆の視線を受けて、院長が顔を上げる。
寒い季節の電報は、いい知らせなわけがない。
彩度の薄い院長の唇が重たそうに開いた。
「かつてここで過ごした、私たちの友人である三井茂雄さんが……自ら神の身元に行く決意をされたそうです」
すぐには理解できなかった。待ってくれ。全身の血が凍った。
それってようは自殺だろう?
遠くなりそうな意識をなんとか留めて、院長の話す言葉を聞く。
「詳しくはわかりませんが……茂雄さんのお父様からそのような知らせがきました」
最後に結んだ硬い手の感触を思い出す。生きるエネルギーが走っていた、皮膚の下。
電報のくせに文字数は多いらしい。院長が言うには、死体はもう荼毘に付されたそうだ。茂雄の父親。さすが三井漁業の社長だ。
「……皆さん、彼のために祈りましょう」
ミサが終わった教会の外で、シスターたちが両手を組んだ。
「アーメン」
「あ、アーメン」
あまりにも突然の出来事に、シスターたちの声は重ならない。
草木が動揺を感じたように揺れて、耳障りな音を立てた。
日光浴中の空気は重く、個室に籠る人も多いのか座る人はまばらだった。
庭に降り立った鳥に、強い子ねえ、と藤堂さんが言った。
「他の子達はあったかいところに渡ったのに、あなたは一人で」
灰色の鳥は芝の上に撒かれた餌を啄んでいる。一歩弾むように移動しては灰色の頭をもたげ、また移動しては頭をもたげた。
眺めていた藤堂さんの腰が折れて、口元を押さえた。うっ、と嘔吐く声にシスターが駆け寄った。羽音を響かせて鳥が飛んで行く。
「さあ、おかけになってください」
背中をさすられながら、藤堂さんが椅子に座る。気分が悪くなるのも無理もない。
部屋に戻って、描きかけの蒔田夫婦の絵を見つめた。色を塗らなければと思うのに、筆を持つ手が重い。色がうまく作れない。
──上手く答えられていたら、何か変わっていただろうか。
戦前、戦時中、戦後。戦時中にここに来た俺は、戦後もろくに知らない。戦場に行かなかったから──戦時中もだ。
茂雄と会った最後の日のことを思い出す。自然と足が教会に向いていた。
誰もいないはずの時間に先客がいた。丸みのある頭の形と、結えられていない髪ですぐに誰か気が付いた。
できるだけ気丈に。深呼吸をしてから歩み寄った。
「やあ」
後ろから声をかけると、ハッとしたように振り向いた。
「ここにいるの、初めて見たよ。いつもミサに来ないから」
誰もいないこの時間に一人でいる姿はどこか現実感がなかった。彼女が洋装だということも相まっているのかもしれない。
「教会は、初めて?」
そう聞きながら隣に座る。大きな色とりどりの窓ごしに、素直に色を変えられた陽の光が注がれている。祭壇に置かれた十字架が床に影を落とす。とても静かな教会内で、沈黙が光に溶ける。
教会に波の音は聞こえない。彼女の息遣いは小さくて、片耳しか聞こえない自分には自分の息遣いしか感じられなかった。
彼女に言葉を催促する気はなかった。外の世界では許されないただ待つだけという行為も、この場所では許されるように感じる。聞き漏らさないように、聞こえる左耳を澄ませていた。
「……あの」
「ああ」
重苦しい切り出しですぐにわかった。
「茂雄のことだね」
聞いたんだ、と続けると、彼女は頷いてそのまま俯いた。長い髪に隠れた表情はわからない。
「私のせいなんです」
何がだ、と視線を向ける。言われたんですと彼女は言った。
「……結婚してくれって言われたんです」
は?
すぐに理解ができなかった。数秒して、それがあの日、教会から出て行った茂雄と交わしていた会話の一幕だったと理解する。
「広幡廻船の力を貸してくれって」
死の病から生還した茂雄は、日常生活に戻ることができたのに、わざわざここに来たのは何故か。教会での告白のような話を思い出す。
──お前は戦時中と戦後どちらの方が辛かった?
答えられなかった質問と、茂雄が放った答えを思い出す。
「今はきついけど、三井漁業は名前の知れた会社だから、長い目で見たらお互いの家のためになる。だから、って……」
古くから続く彼女の家の広幡廻船と、漁業では割と名の知れていた茂雄の三井漁業。戦後の混乱と商いの辛さは、どうしても想像がつかない。それでも現状打破のためにその考えに至ったのだろうこと推測することは容易だった。
「私、家のことはわからないからって言ったんです、ずっと入院がちだったし、家の仕事のことは知らないって、断ったから。それでもいいって、名前だけでもいいって、言われたんです……けど」
右耳に、彼女が息を吸い込む音がはっきりと聞こえた。
「けど私、まだ。──恋もしてないのに、って」
馬鹿だな、茂雄は。
「ははっ」
聞いたら自然と笑いが漏れ出た。
「困っちゃうよな。そんなこと、いきなり言われても」
息を吐くたびに体が軽くなるのを感じて、我ながら驚いた。
なんだよ茂雄。馬鹿だな、お前。けど、
「それはないよな」
女を口説くのにそれはないだろう。──なんだよお前、馬鹿だな。今まで何回も言った。
「自分のせいだって言うことないよ。文句こそ言っていいんだ」
十字架を見ていた彼女の顔がこちらを向いた。
「そうじゃないと、女に振られて死んだ冴えない男になっちゃうだろ」
ここで同情のような言葉を見せたら、本当に哀れな男にさせてしまう。仕事で負け、女に負けた、道化にもなれない男になってしまう。だから友人として、背中を叩く気持ちで笑った。
馬鹿だなあ、と言った俺に、しずしずと彼女は話し始めた。
「……私、ずっと入院がちだったから、男の人ともあまり接したことがなくて」
「そうなんだ。……長いの?」
曖昧な聞き方も、通じたようだった。──長いの? 結核になって?
「結核自体は、二年ほど前の診断で。結核になってここに来る前は、熱海の噏滊舘にいました」
「ああ、なるほど」
また金持ちの施設だな。確か温泉の蒸気にあたり治療するんだっけ、聞いたことある程度だ。と、知識を掘り起こして頷いた。
「それで、どうしてここに」
言いながら思い出す。ここに──確認しにきたと言っていなかったか。
海の写真。今まさに、カンバスの空白が染められていると思った。
「私、左目が見えないんです」
彼女が髪をかき上げる。手の内側に、青い静脈が見えた。手というものを初めて見るように見てしまった。
「麻疹で、左目を失明したのが……四歳の時だったかな」
掴めば折れそうな腕を見ながら、頭の奥で納得する。──だから目が合ってあるのに、遠くを見ているような感覚を受けていたのか。
「小さい時であんまり覚えてないんだけど、高熱だったらしくて、体が重くて動かなかったのは覚えてる」
今まで隠されていた左目が顕になる。瑞々しい白い肌と、まつ毛を冠る瞳の下に小筆で置かれたような点。
目元に落ちるまつ毛の影の中の色濃い一つの点に、見てはいけないものを見たような罪悪感を感じた。
「この黒子嫌いなんです、恥ずかしい」
「そうなんだ」
ただ同時に、それがひどく艶っぽく感じられてさりげなく目を伏せた。だから隠してたんだね、と言った声は乾いてなかっただろうか。彼女は恥ずかしそうに頷いて、再び目元に黒い前髪のカーテンを落とした。それからやや間があって、彼女は言った。
「こっちの目」
前髪の垂れていないほうの目を指さす。
「眼結核です。眼。もう、この片目も結核になっているんです」
聞き慣れない併発箇所。すぐにその意味を理解した。
「私、そのうち右目も視力を失うんです」
右目にだんだんとモヤがかかっている、と彼女は言った。
「眼痛で、噏滊舘にいた時に診断されて……なら、死ぬ前に、目が見えるうちに、父と母が出会った海だと聞いて──ここで死にたくて、ここにきました」




