一章-5
すべての景色の彩度が落ちる季節の中で、いっそう鮮明な花弁。中心から広がるようにこぼれんばかりの花びらが密に開く、紫混じりの赤色も相まって、なんとも華やかな花だった。
椿に似ているがそれではない。確か、名前は。
「サザンカだね」
サナを囲うように茂る木々を見つめていた俺に、声が降った。
「博さん」
「尊くん」
激しい咳き込み。
「悪いね」と言いながらデッキチェアに座った。
藤で作られた椅子が、軋んだ音を立てる。
「新芽はお茶としても飲めるから、山のお茶の花、で山茶花と書くんだよ」
「ああ、そうなんですね」
「それは私が教えたんじゃないですか」
文子さんがこちらを向いた。そうだっけ、と言う博さんにそうよ、と言ってそれからこちらを向いた。
「尊くん、女に花の名前を聞く時は覚悟なさい。女が花の名前を教える時は、自分のことを忘れまいとさせるときなのよ」
「恐ろしいものだね」
博さんの言葉に、笑いながら頷く。眼鏡を押し上げると博さんはそのまま話し始めた。
「まあ、女が男に花の名前を教えるべきなら、男は星の名前を女に教えるべきだと思うね。そうしたら愛した女は上を向いてくれるだろう? 俯かせる花の名前より、よっぽどロマンチズムだと思うがね」
それから激しい咳をした。痰が絡む重たい音がして、布で口を覆う。皆が顔を曇らせた。
筆を持とうとした手を止める。シスターの一人が博さんの元に歩み寄った。
「少し部屋に戻りましょうか」
激しく揺れる上半身に、痰が絡む音が混じる咳の音。背中をさすりながら言われた言葉に博さんは咳き込みながら頷き、立ち上がる。
毛布から顕になった和服姿の体を見て、痩せたなと気付く。
まるで枯れ木だ。
「私も一緒に」
そう言って文子さんも立ち上がった。おさげ
の髪が振り子のように揺れた。
「尊くん、ごめんね」
「ああいえ、そんな」
塗ろうと思っていた色の着物の色はもうキャンバスに置いた。
「ちょうど絵の具を乾かしていたところですので、ではまた、夕食の際に」
二人は俺に視線を向けて、シスターに付き添われながら寄り添って消えていく。
「博さんの咳……」
椅子の一つから放たれたその言葉が、不穏に途切れる。
後ろにいたシスターの一人が慌てるように声をかけた。
「少し寒かったですかね。皆さんお身体は大丈夫ですか?」
まあ、とか、ええ、とか曖昧でなんともいえない返事が飛んだ。
皆がわかっている。
停滞したようなこの場所でも、すべてが終わる瞬間があることを。行き止まりを到達点と読む者もいるのだ。
教会の扉を開けて、中の人物に声をかけた。
「茂雄」
箒を掃く手を止めて「おお、九条」と答えた茂雄は、朝と違い羽織を纏っていた。
仕立ての良さそうな羽織に、この無骨な男の家柄の良さを感じる。
窓の多い教会の中は戸を閉めていても薄ら寒い。誰もいない教会は、陽の光が注いでいても冷たく感じる。
「院長に頼まれた掃除中だ。どうしたよ」
元患者にも容赦がないな、と思いながら適当な椅子に座る。麓の村人も来る、二回目のミサ後の掃除か。
「仕事《絵》は?」
「ああ、ちょっとひと段落」
答えて座った俺に、茂雄が何かを投げてきた。反射的に受け止める。雑巾だった。
「なら手伝え」
茂雄が歯を見せて笑う。しょうがないな、と立ち上がると、茂雄も止めていた手を動かし始めた。
前の方から木の椅子を拭いていく。まだ新しいこの場所の椅子に傷はない。箒が擦れる音と、俺たちの足音だけが響く。
「九条」
「なんだよ」
呼びかけられてすぐに答えた。箒を掃く音は止まらない。椅子の上に落ちていた誰のものかわからない髪の毛を拭いて落とす。
「……なんだよ、茂雄」
「九条、お前は戦時中と戦後、どちらの方が辛かった?」
「ええ? ああ……」
なぜそんなことを。疑問が湧いて返事に窮した。
まとまらない思考と対照的に、箒を掃く音がぴたりと止まる。
「ここで聞いた怪談宋公館、面白かったなあ」
脈絡のない話に、はてと思っても口を挟まない。声はいつもより《《らしく》》ない。教会の中で聞く話は、告解のように思える。神父も信者もいないのに。
「たまに聞く放送劇は楽しみの一つだった」
ここではあまり頻繁にラジオは聞かない。
心を平静にしてひたすら安静にすることが必要とされていたから、目立った戦時中の話は患者の耳に入らないよう阻害されているからだ。
そのため情報源となるラジオは時間が決められ、時折しか聞くことはなかった。
戦時中に流れていたラジオを思い出す。家で聞いていた頃はまだ落語や音楽番組が流れていた。
それが『起て一億の夕』や『勝利の記録』と。戦争のことばかりになり、必然的に聞く時間は減っていった。
「ここにいる間は戦時下だってことを忘れていたんだ。皮肉だな、配給制で稼げなくなって、闇市で稼いだ金でここで入院できたのに」
その話を聞くのは初めてだった。
その話が今まで抱いていた茂雄の人物像とかけ離れていて、返事につまる。
漁だけでなく魚を加工して売るようになった儲けでここに来たと言っていた。精神的に剛毅なのか、茂雄は傷を容易く漏らすことがなかった。だからこそこの環境で友と呼べるようになった。
「あーあ! 戦後はしんどい! しんどいぞお!」
わざとらしく大きな声が教会中に響く。
「商売では食えない時代だ! 何をやろうとしても何もかもが足りない!」
外まで聞こえそうな声に、茂雄、と呼びかける。俺の声は聞こえていないようだった。何を見ているのだろう、色黒の顔の中でいっそう黒い目が、じっと空間を見つめている。
「はは! はは! …… 俺が兵隊じゃなかったから言えることかもしれないが、戦時中より戦後の方がキツいな!」
戦争に行かず、守られるように過ごすだけの自分には、何も言う資格がないと思った。
死を待つ場所で何も待っていない自分には、何も言えない。
「なあ九条」
黙っていた俺に、言葉は再び向けられた。
「神はいるのかな」
俺たちは、玉音放送で神の声を聞いてしまった。新聞で神の姿を見てしまった。
そばにあるのは神の子のシンボルの十字架。
「…………さあ」
考えた末に、茂雄に答える言葉を見つけられなかった。はぐらかせない。今は何を言っても陳腐な気がした。
結核を治癒させた奇跡の人が、なぜここに来たのか。
「お前はどう思うんだ」
俺の質問にやはり茂雄は答えなかった。そのまま二人で掃除を終えて、教会を出る。
質問には何も答えてもらえなかったな、と思いながらサナトリウムの扉を開けると、帰る、と茂雄は言った。
「帰る? おい、茂雄?」
「忘れてくれ」
「何を?」
俺が首を傾げると、はっ、と笑った。
「全部を」
それから茂雄は皆に挨拶をして、一番遅い時間の汽車に間に合うからと帰って行った。
別れの挨拶を交わす際、彼女は現れなかった。
「広幡のお嬢には、気にするなと謝っておいてくれ」
「なんの話なんだよ……わかったよ」
じゃあなと握手を交わした茂雄の手は、ここでは感じられない皮膚の硬さと、血潮の熱さがあった。
茂雄は少ない手荷物鞄を持ち、着物が乱れることも気にせず大きく手を振った。
茂雄が死んだと報せが入ってきたのは、それから二週間後のことだった。




