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一章-4

 日光浴が重要されている結核の治療で、患者たちは昼間屋外で過ごす時間の方が長い。


 欧米を相手にした戦争をしていたくせに、治療法は欧米から来た治療法に頼っている。


 キリスト教の教えの基に作られた場所ならともかく、鬼畜英米と銃を持っていた人間が休まる軍事病院もまた然りだ。


 日本人がコレラに対して太鼓を叩きラムネを飲むしかできなかった間に、海の向こうではツベルクリンが発見されていた。それは日本に伝わって結核の検査薬になった。


 だが未だ治療薬はない。治癒に期待できる療法は、大気、栄養、安静。


 結核は死亡率一位の病気である。





「起きろー!」


 目が覚めて一番に入ってきたのは、茂雄の清々しい笑顔。叩き起こされて唸る俺とは対照的だ。やはり今日も最悪な目覚めだ。


「ほら行くぞ! 朝食の時間だ」


 俺だけが乱れた和服を整え、連れられるがまま食堂へ向かう。まだ他に患者のいない食堂に現れた俺を見て、シスター・イーダが目を細めた。


「おはよ。やっぱり目覚まし係がいると違うわねえ」


 そう言いながら俺に布巾を渡してきた。


 雑事を手伝っているとやがてわらわらと他の皆がやってきて、食卓についた。茂雄が隣に座った。


 父よ、と院長が組んだ手を模倣する。


「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧にしてください。主の御名によって」


「アーメン」


 重なった声と祈りの手を解く。


 麦飯、ししゃも三尾、浸したほうれん草、漬物と味噌汁。患者たちのために十二分に用意された栄養。麓の村から購入している野菜は、相場より高い価格で購入しているだけあって味は悪くない。


 戦時中の異教の施設と亡国病の治療院の建設は周辺住民の過激な反対があったが、さまざまな条件のもとで折り合いをつけたらしい。来たばかりの頃、開設者である院長が俺にそう話していた。


「ここの飯は美味いなあ!」


 茂雄のでかい声が片耳にも響く。威勢の良さはここにいた頃と変わりないが、今は勢いよく飯をかき込めている。むせない。咳は出ていない。


「青年らしい食べっぷりだねえ、茂雄くん」


 博さんが咳を押さえ込みながらしげしげと言った。

茂雄は米を飲み込んで答える。


「やっぱりここの飯は美味いですから! ご馳走でございます!」


 日に焼けた手が持つ茶碗の中は空になっている。


「ここは世界一、素晴らしい場所ですね」


 その茂雄の呟きを、誰も聞き返しはしなかった。

せっかく退院したのに、と誰も言わなかった。







 蒔田夫妻の絵を描き進める。デッキチェアに深く腰掛けた上にブランケットを被る、和装の二人の姿。時折顔を見合わせて手元の本を読み合っている。


「尊くんは山羊座だったよね」


「ああ、ええ、そうでしたっけ? すみません疎くて」


 不意な自分への声かけに筆を止めて顔を上げた。

 視界の端では脚立に登った茂雄が木の枝の剪定をしている。博さんが俺に微笑んだ。


「いいんだよ。西洋占術はまだ一般的じゃないからねえ。僕としては四柱推命や九星気学より易しくて覚えやすいから、これから広まっていくと思うんだけど」


「そうなんですか」


「茂雄くんの誕生日はいつだい?」


 名前を呼ばれた茂雄は脚立から降りて、草を握りながら答えた。


「八月一日です! マヨネーズと同じ生まれ年であります!」


 何年だろう、と考えて俺の一つ上だった、と思い出す。


 マヨネーズか、多少は食べたことがあったなと瓶に入ったものを思い出そうとするけれど、味までは思い出せなかった。思い出せるのはジャガイモと酢で代用してたそればかりだ。博さんが笑う。


「はは、マヨネーズかい。随分懐かしく感じるね。あれはまたいつか食べたいもんだねえ」


「美味しかったわね、カニと食べるのが好きでした」


 他にも魚貝の名前をあげて指折り数える二人に茂雄は胸を張る。 


「いやあ、ありがとうございます! 我が家もその宣伝の恩恵に預かりました。だからこそ先の戦争での製造中止は手痛かったです!」


 深くは聞かず、そうかい、とだけ答えた博さんに僅かながらに商売人らしさを感じる。戦時中の物資不足などの困窮は業種が違うとも同じ商売人ということで分かり合えるものがあるのだろう。こんな話じゃなかったね、と言って眼鏡を押し上げた。


「えーっと、八月一日は……獅子座だね。雄々しくて茂雄くんにピッタリじゃないか」


 ははあ、と聞いた茂雄は嬉しそうに笑った。


「星の並びにどのような意味があるかは分かりませんが、九条の山羊を聞いた後に獅子だと言われると嬉しいですね!」


「おい」


 すかさず言い咎めた俺に、周りの皆が肩を揺らした。同時に溢れる席に、いっそう重い咳が残る。痰まじりの音に、文子さんが心配そうな表情で声をかけた。


「あなた、咳が」


「若者が面白かったせいだよ。大丈夫」


 博さんの口元に当てられた布から目を背けた俺に、茂雄が放った質問が聞こえた。


「広幡のお嬢は今日も来ないのか。部屋で何をすると言うんだ」


「あの方はよく読書をされていますよ」


 後ろの方が立っていたシスターが律儀に答えた。皮肉っぽく茂雄が笑う。


「わざわざ! 本なんていつでも読めるだろう」


「いやいや茂雄くん」


 喉を整えるように咳をして話しかけたのは博さんだった。


「本を読む時間というのはありそうでない。バーナード・ショオいわく、人はたまにゆっくり読書をするためにも、病気にかかる必要がある……ということさ」


 それから割と大きな、咳。


「まあ、僕たちには皮肉だけれどね」


「ははあ! 人は自分が作った習慣を好む、とは言ったものですね!」


 博さんは茂雄の言葉に、咳混じりにそのとおりだと答えた。





 そのまま木曜日も金曜日もあの少女は現れなくて、土曜日になって蒔田夫妻の絵の下塗りを始めた。ふと気付いて手を止めた。


「文子さん、その襟は博さんのお着物に合わせてるんですか」


 文子さんの三つ編みが垂れる襟元の色と、毛布から見える博さんの着物の色が同じ色だった。聞いた俺に、文子さんは三つ編みを持ち上げて言った。


「そうなんです、よく気付きましたね」


「そうだったの?」

 微笑んだ文子さんと対照的に、博さんは驚いた顔をした。

「帯は気付いたんだけど」


「あなたったら」


 毛布を被った文子さんの姿に、帯は見えない。二人から漂う空気感に照れを感じて視線を逃がす。茂雄は脚立に乗って木の剪定をしている。


 周りの皆もそれぞれ談笑をしたり本を読んだり、謄写版の原紙をかりかりと削っている者もいる。


 各々腰掛けながらゆっくりと過ごす姿を近くでシスターたちが見ている。高台だが風は穏やかで空は明るく、脆い日差しは肌に触れて溶けるようだった。


 目の前の下書きを終えたカンバスに、薄く色を置く。午後の波が遠く砕ける音がした。






 起きろ、と与えられた衝撃にも慣れた。目が覚めて開口一番眉を顰める。


「平日は勘弁してくれって言っただろう」


「いや、日曜日だ」

 茂雄が笑った。

「これからミサだろう」


 そうだったか、着物の帯を締め直して考える。


 茂雄が来て五日。彼女が来て二週間と少しか。


「おうい、九条、行くぞ」


「ああ」


 部屋の扉に手をかけていた茂雄の跡を追う。部屋を出た瞬間に底冷えする空気を感じて肩が震えた。


 存外寒かったな。


 黄色い屋根がいっそう冷たく見える。


 茂雄は、だらしない着こなしで胸元が開いているくせに平気そうな顔をしながら数歩先を歩いている。


 ミサが行われる教会はサナトリウムすぐ、同じ敷地内の北側にある。外に出なければいけないが所詮数歩だ。


 大きな十字架がそびえる、ロマネスク建築の教会。白い外観に映える重厚な木の扉は大きく開いていて、迎えるようにシスターたちの姿があった。


 この時ばかりは普段は小煩いシスター・イーダも楚楚とした美しさを纏っている。


 高い天井の堂内には、色のついたガラスから差し込む光で柔らかく照らされている。


 祭壇に向かって左右対称に整然と並ぶ席の中央を歩き、茂雄が座った後ろの席に座った。木の匂いと混ざった、蝋燭の焦げた匂い。白い布の敷かれた祭壇には蝋燭と十字架が並べられている。


「久しぶりだ」


「ああ、俺もだ」


 呟いた茂雄に同意すると、振り向いて「お前はそれじゃ駄目だろう」と言った。


「にしても、こうして来ると、祈りたくなってしまうな」


「お前が?」思わず聞き返す。「キリスト教への信心はないと言っていたのに」


 我が家の信仰は船霊ふなだまさまだ、と漁業の家らしいことを言っていた。療養の義理だからミサには来る、と言ったことも茂雄らしいと思っていたのに。


「まあなあ」


 視線を向けていた俺に短く答えると、茂雄は再び前を向いた。


 それから患者の皆が続々と現れてそれぞれ席に座った。一番前はよく謄写版を削ってる三十代の末永さんという男で、通路を挟んだ隣に蒔田夫婦。通路を挟んで俺の隣にも患者が座った。後ろに誰が座ったかと思うと藤堂さんだった。和服の袖からひらりと振られた手に会釈をする。


 それから扉が閉められて、堂内に流れていた風が止まった。院長が祭壇に現れる。 


「では皆さん、聖なる儀式を執り行う前に、私たちの罪を認め、ゆるしを願いましょう」


 小さい身長から発せられたとは思えないよく響く声。


「全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します」


 院長の言った言葉を、シスターたちが揃って復唱する。


「全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します」


「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」


 再び揃ったシスターたちの復唱に、ところどころで患者たちの復唱が混じる。信者というよりは患者である参列者たちに復唱は強要されたものではない。


「聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」


 院長の声のあとに復唱が続く。皺の刻まれた目に俺たちを映した。


「全能の神、いつくしみ深い父がわたしたちの罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように」


 それを合図に、声が揃う。


「アーメン」


 突然振り向いた茂雄が小声で言った。


「来ないな」


 は? と思って目立たないように頭を動かして列席者を見る。


「広幡のお嬢」


「ああ」

 確かにそうだな。

「先週もそうだったぞ」


「では、いつくしみの参加を応唱しましょう。──主よ、いつくしみを」

「主よ、いつくしみを私たちに」


 先唱にシスターたちの揃った声が続く。


「キリスト、いつくしみを」

「キリスト、いつくしみを私たちに」


「なんで参加しないのか言っていたか?」


「ああ?」


 応唱に混ざりバレないように茂雄が話しかけてくる。どうせ振り向いている姿でバレバレだし聞こえづらい。


「祈りましょう」


 応唱が終わり院長の声が響いた。茂雄が慌てて前を向く。


「治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」


 皆が息を吸う、一瞬ののち、吐き出される祈りの言葉。


「アーメン」


 閉じた瞼に、一瞬、名前を聞いたその姿が過よぎった。頭の中で、洋装の裾が風にはためく。


「……では、ことばの典礼に移ります。ペトロの第一の手紙一章、三節から《《み言葉》》を朗読します」


 院長が祭壇の上の聖書をめくる。


「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え────」


 また茂雄が振り向いた。


「九条みたいに寝坊助なわけじゃないし、キリスト教の儀式に気が引けているんじゃないか」


「いや、それは」


 違うだろ、と何も考えていないくせに口をついて言おうとした俺の言葉が遮られた。


「行ってくるわ」


 おい、と止めようとした声がシスターの朗読に隠れる。茂雄が立ち上がる。


「────あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され────」


 皆の視線にすまんと手刀を切るように手を動かしながら、茂雄が通路に抜ける。


「────あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに────」


 立ち上がった茂雄に、シスターたちも視線を送る。


 患者でもないから声をかけないのだろう、茂雄が扉を開けた。開かれた扉の隙間から、冷たい空気が一筋入って、その先に消える。まったく本気かよ。


 茂雄が消えた空間で、俺に移った視線を感じて座り直した。勝手な奴だ。祈りは強制するものではない。勝手にすればいいさ。


 そう思いながら、頭の中でレコードのように再生される、今まで交わした彼女との会話。


 庭においでよ、と俺は言った。


 まだ庭に出るには肌寒い朝だ。なら、彼女は部屋に一人でいるのだろうか。茂雄は部屋に呼びに行ったのだろうか。


「────福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです────」


 朗読が終わり、院長が参列者すべてに眼差しを向ける。考えが固まる。


 朝とはいえ、男が一人で女の部屋に行くなんて、《《ない》》だろ。


「では、歌いましょう。アレルヤ」


  一斉に皆が立ち上がったのに合わせて立ち上がった。参列する患者の皆は歌わないが、起立は推奨されている。それに便乗して立ち上がり席を抜けた。皆の視線に無抵抗に刺されながら、教会の扉を開ける。


 アレルヤ。


 祭壇の横に並んだシスターたちの歌を背に浴びて教会の扉を閉めた。


 寒さを感じる間もなく、足早にサナトリウムの中に入る。ミサの最中でしんとしていた、しんと静まり返った建物の沈黙だけを耳にする。


 彼女の部屋は二階とはいえ、茂雄が話していてこんな静かなわけがない。


 階段の手すりから手を離す。なら多分、庭だ。縁側から出ようと、すぐにその姿を見つけた。


 茂雄はこちらに背を向けていて、向かい合う彼女の洋装の裾が揺れていた。


 二人はこちらに気付いていないし、声も聞こえなかった。片耳しか聞こえなくても、いつもの茂雄の声量ならはっきりと聞えこるはずだった。


 聞こえないことが焦燥になって、足早に歩み寄った。


「何の話をしてるんだ?」


 着物を纏う肩を掴む。


 振り向いた顔が驚きを浮かべたので、気付かなかったのか、とそこまで集中していた会話を想像する。おい、茂雄。


「九条」


 向かい合っている彼女は俯きがちで、垂れる髪に帽子がなくても表情はわからない。


 不穏な沈黙だ、と思った。不用意な一言を発せない。その沈黙をかかと笑って破ったのは重雄だった。


「いやあ、なんてことない世間話をしていた!」


「……ほんと?」


 細い肩に聞いた。僅かに白い顔が上がった。それでも伏せられたまつ毛が、目元に影を落としている。返事に悩んでいるようだった。それがわかる素直な表情に「茂雄」と言った。


「……なんだよ九条、悋気りんきかあ?」


「茂雄」


「わかった、わかった。……そんな顔をするなよ」


 自分がどんな表情をしているか、まったくわからなかった。ああごめんね、と言った言葉は茂雄に向けたものではない。


 もう一度聞いて答えられなかったら諦めよう。地面に向かって項垂れる黒い髪を見て、息を吸い込んだその時、


「朝餉にしましょ……って、三人で外にいたの?」


 不意にシスター・イーダの声が降った。怪訝そうな顔でこちらを見ていた。


「広幡さん、寒いでしょう。……まったくあんたたち」


「おうおう、すまなかった!」


 茂雄が威勢良く答えた。じゃあ入ろうか、と振り向いた顔に返事を悩むと、


「失礼します」


 彼女が一礼して、俺たちの横を通り過ぎた。庭を進んで、縁側から声をかけたシスタ・イーダの横で立ち止まる。


「おはようございます。食事は部屋でとります」


「え? ……あ、うん。はい」


 シスターイーダがした返事に小さく頭を下げると、その背中が建物の中に消えた。


「何の話してたの?」


 首を傾げるシスター・イーダに、茂雄はすんなりと答えた。


「他愛ないことさ」


 それは愛がある話なのか?


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