一章-3
風に攫われた記憶を埋めるように描き、その絵が完成したのは月曜日の夜だった。
乾燥させて、火曜日の夕食に現れれば渡そうと思ったが、案の定その姿は食堂にない。シスター・イーダが配膳台に食事を乗せていた。
「その夕食、広幡さんの?」
そうだよ、とシスター・イーダが言ったので、食事が置かれた配膳台の下に板にカンバスを置く。
「じゃあ、ついでにこれも届けてくれる?」
「なにこれ? 小さい」
そう言いながらしゃがみ込んで絵を手に取った。
「可愛い」
彼女のために誂えた手のひら大の小さなキャンバスには、青く斜めの海の絵。
頼まれた博さんたちの絵を進めず、あの日見た写真を再現するように描いた海の絵だった。
写真のように、黒と白で描こうかと悩んだが、悩んだ末に青にした。せめてお詫びに、どうせ違うものならば忠実さよりも、カラーの写真なんて珍しいものを見ているような気になればと。
博さんたちに頼まれている絵を進めずに数日で仕上げた。
「なんでこんな小さいの?」
答えれば自分の間抜けさが知られてしまうから「なんでだろうね」と曖昧に濁した。さほど気にならなかったのか、ふうん、と言って配膳台の下に戻した。
「……なんで斜めなの?」
相槌を打った脳内に彼女の言葉を思い出す。
──見えるものに価値を感じないので。
さあねと濁してから、よろしくと任せるとシスター・イーダは短く頷いた。
絵を見た彼女は、どんな顔をするだろうか。少なくとも、嫌な顔ではないといい。
とはいえこれでゆっくり眠ろう。夜の長さだけに思いを馳せて、誰のことも夢に見ず眠った。
遠いところから声がかけられた気がした。誰のものかはわからないけれど、懐かしい声だと感じて、それと同時に感じた腹への強い衝撃で目が覚めた。
「起きろう!」
「うわっ」
眠気を引きずるまでのない唐突な覚醒。その人物の尻が置かれた腹から「嘘だろ」と漏れた。
「茂雄」
三井茂雄。胸元まで焼けた肌色と伸ばしかけの短髪。いなせな風格のある体躯をした、雑に和服を着た男。
「相変わらず寝坊助だなあ、九条!」
自分の寝起きで乱れた胸元を直すと「やっぱり目覚まし係の俺がおらんとだめか!」と背中を強く叩かれた。
「お前なんでここに」
先月このサナトリウムから退院した男。行き止まりのこの場所の壁を、治癒の診断を受けて飛び越えていった元患者。そして目覚まし係と揶揄される歳の近い友人。
「俺がいなくなってお前がどれだけ腑抜けになっているだろうと見に来たわ!」
「ああ……」文字通り寝首をかかれた最悪な目覚め。「いいお世話だな」
茂雄が相変わらずだなあと部屋を見回す。
「シスターたちにはさっき挨拶したが、みんなにはまだだ。一緒に食堂に行こう、九条。早く服を直せ」
漁業を営む家柄のせいか、この男は習慣的に朝が早い。
数少ない男同士だからとよく起こしに来たのだが、俺が苦言を呈してからはミサのある日曜日だけの目覚まし係になった。
結核患者は皆ひょろりと細く色白な印象だが、この男だけは療養中から見た目にそれらしさがない。
久しぶりに会った茂雄の肌は、結核患者だったということが信じられない焼けた肌色だった。
「新しい人も来たんだろ。俺という希望を見せてやらなきゃなあ!」
俺の名前を「尊大だ」と苗字で呼ぶくせに、その自意識の方が尊大だ。烏滸がましいことこの上ない。
この男が歩くと古い建物でもないのに廊下が軋む気がする。ただの廊下でなぜそうも胸を張れるのか、共に過ごした一年ずっと謎だった。
水曜日の朝。廊下の日差しを踏みながら共に食堂に向かう。既に食堂にいた人たちは驚いた顔をした。
「おー茂雄くん!」
「あら、茂雄さん」
「やあやあ、蒔田ご夫妻。藤堂さん、榧下さん……」
軽く手を上げながら順番に名を挙げていく。
挨拶をしながら朗らかに同じ椅子に座る茂雄に「まさか……」と蒔田夫妻が顔を見合わせた。
「再発したのかい!?」
「違いますよ! ちょっと皆さんのお顔を見たくなったんです!」
茂雄に勢い良く答えられた博さんは、なんだ、と胸を下ろした。退院した人間が戻ってきたんだ、最もな疑問だ。
「そうだよね、それはよかった」
そして博さんは眼鏡を押し上げて続ける。
「一旦結核免疫となりたる身体は、その後は如何に強力なる結核菌に遭遇するとも、これに感染し若くは発病することは滅多にない──とはいえ滅多は絶対ではないからね。よかった、よかったよ」
博さんはうんうんと頷いて、文子さんと目を合わせて、それから茂雄をもう一度見た。
「じゃあ、どうしてここに?」
おそらくこの場の誰もが思ってる、当たり前の質問に、茂雄は胸を張って答えた。
「一年も家族のように過ごした場所ですので、不肖三井茂雄、恋しくなって会いに来てしまいました!」
なにそれ、と、どっと皆が笑った。
「また罹っちゃったらどうするのよお」
そう言った藤堂さんも、口元は綻んでいる。
ここでの静養と治療の正しさを表す生き証人である茂雄との再会は、確かに皆の希望になったようだ。
博さんの隣に座る文子さんが聞いた。
「ご実家は小柴だったわよね、いつ頃までいるの?」
「えーっと」
言い淀んだ茂雄を横目で見る。家業が忙しくなるぞと勇ましく退院していったくせに、こんな暇があるのか。
「せっかくです。時間が許すのであればしばらくでも泊まっていったらどうかしら」
そう言ったのは院長だった。
「もちろんあなたが気にならなければ」
「はい!」
茂雄は先ほどの迷いを浮かべたような表情が嘘のように威勢よく返事をした。俺の背中を叩いて笑う。
「俺が朝起きる習慣を染み付かせてやろう、九条!」
「いたっ。うるさっ」
久しぶりに並んだ俺たちの様子に周りが笑った。
「それじゃお前、その新しい女っていうのは全然姿を見せんのか」
「ああ……まあ、そうだね」
茂雄は草むしりをしていて、俺は蒔田夫婦の絵を描いて、背中越しに会話している。
一体誰に聞いたのか、あれか、起こす前に挨拶をしたシスターたちか。茂雄は新しく入った彼女のことを知っていた。洋装の少女だ。
「九条も草をむしらんか」
「お前がやっているからいいだろう」
しばらくの滞在を許された茂雄は、ここぞとばかりに下働きをさせられることになった。物腰柔らかい老婆に見えて、院長という肩書きらしくシスター・マリア・マグダレナは人使いが荒い。
俺たちのやり取りを聞いてデッキチェアに座る皆が笑っている。茂雄がここにいた時もこんな風にやり取りをしては誰かしらが笑っていた。
外見には健康的な男である茂雄には、ここに来た患者にありがちな傷をひけらかしたがるセンチメンタルさがなく、一年前入院しに来た茂雄に俺はすぐに気を許した。年上の女性陣たちの言うことををよく聞く素直さは周りにも可愛がられていた。
二人揃ってよく「女性に対してはこう接しなさい」と藤堂さんを始めとする女性陣からの講座を聞かされたものだ。
ふと、茂雄が草をむしる手を止めた。
「あれか! もしかして」
誘われるように見た。あれは、と風に揺れるシルエットに俺が気がついた瞬間、茂雄が立ち上がる。
「おうい! あれか、きみがここ最近ここに来たっていう女の子か。俺は三井茂雄! 先月までここにいた者だ!」
張り上げられた声に、スカートの裾が動きを止めた。怯んだように立ち止まったのは、確かにあの日見た少女、広幡凪だった。今日も大きな帽子を被っている。
様子を窺うような間に、来たのか。と、来るな。が混ざり合って脳内に知らない色を作る。多分これは、来たら面倒だ、という灰色だ。
「おい九条、お前も呼ばんか!」
茂雄が肩を抱いてきた。「おい」と小突いて再び前を見直した時、彼女が再び歩を進めた。
白い洋装の裾が揺れる。帽子の下の長い髪が目の前で波打って、その口が開いた。
「……おはよう、ございます」
噂をすれば、目の前に現れた。帽子の影と前髪のせいで、目元は見えづらい。小ぶりな鼻と、少女のままの頬の輪郭。
「おい、九条」
茂雄に小突かれる。しょうがない。口を開いた。
「聞こえてたと思うけど、こいつは三井重雄。で、えーっと……」
なんと言おうか。逡巡の間だった。
「広幡凪です」
目の前の彼女は、すっと沈黙に声を差し込んだ。茂雄の前で、随分あっさりと自己紹介をするんだな。なぜだか納得できない気持ちになったところだった。茂雄が目を見開いた。
「よろしく……っておい、広幡、広幡って!」
その茂雄の様子に、さらに納得いかない気持ちになる。なるほどやはり聞けばわかるのか。藤堂さんといい、こいつもやっぱり上流なのか。
「驚いた! あの廻船問屋の娘か! なんでこんなところ、」
「おい。失礼だろ」
勢いづく声を遮った。咎めるような俺の声に、茂雄がすぐに頭を下げる。
「すまん、つい」
持ち前の素直さで謝ると、気まずそうに続けた。
「なんでこんなところにったら、俺もだな。そんなの、みんな……みんな決まって同じなのにな」
聞いていて逆に俺のばつが悪くなる。結核に罹りここに静養に来た皆と、奉仕のためにいるシスターたちと、俺だけが違う。思わず目を伏せた。
それでも「あの」と小さな声でかけられた呼びかけが、自分へのものだとすぐに気が付いた。
「どうしました」
「おい馬鹿、俺だよ」
なぜか丁重な言い回しで身を乗り出した茂雄を抑え込み、庭の端にあるベンチを示して彼女に声をかける。
「ちょっと向こうに座らない?」
「なんだよ助平。俺がいちゃできん話しか」
「そうじゃなくて、単にお前がうるさいからだよ」
いいよね、と聞くと「はい」と頷いた。
唇を尖らせる茂雄をその場に置いて庭の端に移動して、ベンチに彼女を座らせる。二人掛けの椅子は、二人で座るには近すぎて、立ったまま言葉を落とした。
「ごめんね、あいつ」
皆のところに歩み寄り、話しながら空いているデッキチェアに横向きに腰掛ける茂雄を指で示す。
「先月退院したやつなんだけど、なんか暇らしくってここに遊びにきてさ……治ったのにわざわざ来たんだ。変なやつだろ」
「そうなんですね」
打たれた相槌は硬い。気まずいよな。上からでは見えない帽子に隠れた表情にそう思って、再び俺の方から口を開いた。
「ああごめん、なんか言いたいことありそうだなって思って呼んじゃったけど、違ったかな」
単純にびっくりしてただけ?
そう付け足すと、しばらく間を開けて、彼女の声が聞こえた。
「はい。その、絵のお礼を、と思いまして」
「ああ、そんなのいいのに。俺のせいだし、写真の代わりにはならないし」
わざわざいいのに。俺がそう言うと、気まずそうに帽子の鍔が少し下がった。ごめんごめん、と言って話す。
「本当は直接渡すべきだったけど。写真、なくしちゃってごめん。代わりにはならないかもしれないけど、あってたかな。俺も一瞬しか見てないから、あんな感じだったかなって描いたんだけど」
座っている彼女の表情が見えないから、どんな言葉が正解かわからない。沈黙が耐えられなくて続けた。
「……海、好きなの?」
我ながら陳腐な質問だった。後悔しつつ彼女を見ると、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。だから」
風が吹いて、長い髪が踊った。乱れた髪を耳にかける指先は、手荒れもなく美しかった。
「だからここに転院してきたんです」
顔は俺の方を向いている。なのにどうしてか、目が合っているように感じないのは、目元が影になっているからだろうか。
「ああ、そうなんだ……じゃあさ、もっと庭に来なよ」
彼女の見た目に、自分の前髪を確かめるように触った。男にしては長い前髪も、視界に入るほどではない。
「ここの海は庭から見た方が綺麗だって──ミサに行かなかったんだから知ってるだろ?」
俺の笑いかけに、彼女は答えなかった。
嫌味っぽかったかな。後悔して庭を見ると、ちょうど庭の真ん中に一羽の灰色の鳥が降りたったところだった。餌付けされたふくふくとした体と、まだ柔らかそうな羽毛。
片方しか聞こえない耳のせいか、羽ばたきの音に気が付かなかった。
「……あの鳥、なんていうのか知ってる?」
降りてきた話題を彼女に振る。答えなんて期待していない。
他のみんなに聞くと「今更」とか「また」とか言われかねなくてできなかった質問だ。沈黙を紛らわせるためだった。
「カッコウ? ホトトギスでしょうか?」
彼女が口を開いたことにほのかな安堵を感じて、肩が軽くなる。
「ホトトギスって、《《あの》》?」
「はい。多分、《《あの》》です」
笑いを含んで言われた。あ、笑うとあどけない。
俺が言ったあの《《・・》》は浅い返事で何を思い出したわけではないが、彼女の方はきっと何かを思い出したのだろう、はっきりとした語調だった。
「鳴かないとわからないですね。見た目が似てるから」
「そうなんだ。詳しいね」
「そんな詳しいわけでは……。ただ、窓の外を眺めてることが多かったので」
「ああ」長く患っていたのだろうか。「そうなんだ」
相槌を打った俺に、彼女は鳥の姿を見ながら首を傾げた。
「どっちなんでしょう」
「鳴き声を聞けばわかるの?」
「はい。それかもっと近付けば……」
「鳴かぬなら?」
「鳴かせてみせよう、ですか?」
まだ小鳥でしょう。言いながらまた笑った。
前髪で隠れた目元が細められるのを見る。意外と話してくれるんだな。
「見た目じゃわかんないもんだね。声は全然違うのに」
「はい、そうですね。見えるものだけじゃ……わからないことって多いんですよね」
「ああ、それ。その言葉、あの写真」
思い出したのは初めて会った日のやり取りだった。
見えるものを無価値だと言っていた。あの言葉の真意をどう聞こう。
決まらないまま口を開いたその時「あ」と彼女の口が開いた。
庭に降りたったひと回り大きな黒い影に、見守っていた鳥が飛んでいってしまう。その代わりに降り立った鴉が、周りを窺うように首を動かながら跳ねた。
「ああ……」
またか、とため息に混ざった。箒を持ちだすと大きく振るシスターが見えて、鴉は鳴きながらすぐに飛び立った。
行っちゃった。隣から小さく漏らしたのが聞こえた。
「ああ、そうだね」
穏やかな風が芝を揺らす。木漏れ日が動いて、彼女の帽子に落ちる模様を変えた。
「……では、失礼します」
彼女が立ち上がって、俺の前で一礼した。深く被られた帽子のせいで、やっぱり表情はわからない。
それでも、嫌われてはないと思った。だから声をかけた。
「見てるうちに、わかることもあると思うよ」
写真に価値がないと言った少女。見えるものだけじゃわからないと言った少女に、俺は声をかける。
「だからさ、庭においでよ」
「……考えておきます」
返事はそれだけなった。やや素っ気ない口調だったが、その言葉の中身だけを信じて、家の中に戻る背中を見送った。
華奢な洋装の後ろ姿がすっかり建物の中に消えて、茂雄が俺の元へ走り寄ってきた。
「おい何を言ったんだよ助平、行ってしまったじゃあないか」
「そうだな」
これで彼女が皆に溶け込むとは思ってない。それでもいいきっかけになったらいい。
俺の部屋の上の窓が開くのを待つ俺に、まあなんだ、と茂雄が言った。
「まあなんだ……まさしく深窓の令嬢、って感じだな」
家の中に消えた後ろ姿。同じことを思ったのは癪だったが、そうだなと返すことしかできなかった。
夜になると、茂雄はどこからか持ってきた布団を持って俺の部屋に現れた。
「俺の部屋で寝るのかよ」
「いいじゃないか九条! 男同士で語らい合おうじゃないか!」
「うるさっ。夜なのに声がでかいぞ」
こいつはどこで寝るかと夕食時に思っていたが案の定だった。俺の言い分を流し聞きながら、運んできた敷布団を広げている。
「何しに来たんだよお前は」
「皆の顔を見に来たと言っただろう」
「お前はそんな男じゃないだろ、馬鹿か」
そんな殊勝なことを言うなんて。
茂雄は俺のベッドの横に寝床を作り終えるとごろんと寝転んだ。俺もベッドに寝転び天井を見る。
「あの広幡のお嬢って、ここに来る前は?」
「他の療養所にいたって聞いたけど……細かいことは知らないよ」
思いながら答えると「ふうん」と言った。それからしばらく返事がない。
「茂雄?」
心配になって呼びかけると天井をぼうっと見ていた。
「……やっぱりここは常世の国みたいだなあ」
ポツリとこぼされた声に「どうした急に」と聞き返すと今度こそ返事がなかった。
「茂雄?」
ベッドの上から覗き込むと手足を放り出して眠っている。寝息は穏やかだ。
その健康な人間そのものの上下する胸元を見て、俺も眠りについた。




