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一章-2

 庭には十五余りのデッキチェアが等間隔に並べられており、その上に皆がゆったりと座り毛布を被っている。土曜日の朝の、いつもと変わらない光景。患者たちは、朝食を終えると屋外で新鮮な空気と日光を浴びながら過ごす。


「尊くん、おーはよーう」


 縁側から庭に出た俺に、すぐに藤堂さんが気付いた。


「おはようございます、藤堂さん」


 療養中の身とは思えないほど髪をきっちりと結い上げている姿が、老舗和菓子屋の娘らしい気品を漂わせている。だが、頬の白さに滲む哀愁と時折こぼれる抑えたような咳が、病の影をちらつかせる。一見で上等な着物だとわかる鮮やかな模様の袂が、かけられた毛布の上でいっそう目立っていた。


「この前は素敵な絵を描いてくれてありがとうねえ」


「ああいえ、モデルが良いからですよ」


 そう答えると、口元を手で隠して年上の女性らしく笑った。


「すっかり上手になったわねえ。絵のことじゃないわよ」


「それはどうも。藤堂さんに鍛えられたおかげです」


 肩を竦めて答えると、藤堂さんは「あとハルちゃんね」と言ってそれから「今はシスター・イーダね」と言い直す。


「どうもありがとう。手紙と一緒に家族に送るわあ」


「いえいえ」


 日光浴の際には、押し黙りただ安静にする沈黙療法が一般的だ。なかには運動療法という山での散歩を取り入れるところもあるらしいが、ここでは違う。


 孤独を癒し合い病を忘れる、できるだけ人と接する人感療法。キリスト教が神父に懺悔し、告解し人との対話を大切にする価値観から、ベタニアの家で取り入れられている過ごし方だ。ただ、体だけはできるだけ安静にして過ごす。沈黙療法とは対照的である。


「おはようございます、画家先生」


 新聞を読んでいた女性にそう言われて首を振る。着物姿の彼女も、デッキチェアに深く座り毛布を胸元までかけている。


「先生じゃないですよ。おはようございます」


 俺は頼まれれば気楽に絵を描いているだけだが、そんな軽口を叩くほど皆と仲は気安い。結核が二十代、三十代の働き盛りに発症することが多く、皆とはさほど歳が離れてないせいもある。


 健康な人と遜色なく話すように見えるその肌の色は、どこか精彩を欠いていた。それが自分と彼らを見えない線で区別する。


「そろそろ機会も巡ってきたかな。私たちも描いてもらおうと思うんだけど、どうかな?」


 そう眼鏡を押し上げて言ってきたのは博さんだった。隣に座る三つ編みの文子さんとは夫婦で、四年ほど前から二人そろってサナトリウムに来ているらしい。


「ああ、はい。僕でよければ」


 この夫婦には今まで言われなかったが、似顔絵もすっかり慣れた。快く頷く。下働きもするが、すっかり絵描きだ。歩み寄ると博さんの隣に座る文子さんが小さく頭を下げた。


「もっと近づいた方が良いとかあるかな?」


「ああいえ、お二人はよく顔を近付けて会話されてるので。普段と変わらず大丈夫ですよ」


 俺が答えると「そうかな」と言って二人で顔を近付けて笑い合う姿はいつも通りだ。夫である博さんが履き物屋を営む文子さんの家に婿入りした形でとられた結婚らしい。だからこそ穏やかな関係を築けているのだろうか。早くに母が亡くなった家庭環境ではわからなかった。


 いや、それよりも。──二人が。


 不意に聞こえた咳にハッとする。縁起の悪い考えを振り払った。──二人が結核《不治の病》だから。


「大丈夫ですか、博さん」


 文子さんが咳をする博さんに声をかける。後ろにいたシスターたちが近付いて、近くの台に置かれている水差しからコップを水に入れて渡した。


 博さんはコップの水を受け取ると、咳を抑えながら流し込んだ。次第にその咳が落ち着いていく。


 肺結核の典型的な症状。外でなら顔を顰められるくの字に曲がるほどの咳も、誰もここでは動じない。もしかしたら動揺を心の内に隠しているのかもしれないが、目を伏せるだけなのでわからない。


 博さんがむせる様子から目を背けながら、さりげなく見慣れぬ姿を探す。昨日見た洋装の姿は今日はなかった。


 手元の画調を広げてイメージする。蒔田夫婦。二人の絵。どんな構図にしようか。青い空と黄色い屋根に色を探した。



 南向きに並ぶ皆の部屋を繋ぐ廊下の窓からは、同じ敷地内に建てられている教会の十字架がよく見える。


 もうミサは始まってる。廊下の壁にかかった時計で確認した。ちょうど聖歌を歌うくらいか。


 日曜日の朝一番、隣の教会ではサナトリウムの患者だけでミサが行われる。キリスト教の精神を重んじるこの場所では、信者ではなくとも義理でと患者皆が集う。俺も少し前まではやかましく人に起こされるので参加していたが、最近は静かでつい寝坊してしまう。


 三十分ほどのミサが終わると、換気と掃除が行われ、外部の信者を迎えて二部のミサが行なわれる。


 耳を澄ませても聖歌は聞こえない。結核患者は、肺に負担をかけるから談笑ぐらいはできても歌唱はできない。シスターたちだけで歌われる聖歌は、扉の閉められた部屋までは届かない。


 ミサのことを国民儀礼と呼び替えなくなり、と、聖歌を歌うようになったのはつい最近からだった。海外を相手にしていた戦争が終わってからだ。その結果のせいだろう、ぽつぽつと二部のミサに訪れる人間は増えているそうだ。



 皆が朝食を終えた食堂に朝食を取りに行くと、俺の分の食事が皿に取り分けられていた。サンドイッチは食事に間に合わなかった俺にシスター・イーダが用意してくれたものだろう。無作法を咎める者もいないので皿から取り出してそのまま外に出たが、片耳に聖歌は聞こえなかった。


 全室南向きの大きな窓からも海はよく見えるが、外に出た方が一層綺麗だ。朝の日差しを反射して光が揺れている。空の色は淡く、水平線は色濃い。


 そんな誰もいないはずの庭に、人影が一つあった。


 長い髪には一昨日と違って帽子はなく、頭の形の丸みがよくわかる。洋装の服の裾が風にはためていた。


 一日ぶりに見た姿に、後ろから近付いた。


「ミサには行かないの?」


 右側から声をかけると、白目が大きくなって心底驚いた顔をした。


「おはよう」


 そんな驚くかな。いい天気だね、と続けて話す。


「この数日、ずっと部屋にいたの?」


「はいその、そういうわけでは……」


 言い淀む、小さい鼻と小柄な体。目を背けられた、と思ってすぐに、自分が持っているものにその視線の照準が合っていることに気付く。


「ああ、これ?」掲げて「ご飯は食べた?」と聞く。


 彼女は素直さの滲む間で首を左右に振った。


「はい。じゃあこっち座って」


 デッキチェアを前に引っ張り出しどうぞと手で示すと、少し困ったような素振りをした。その表情には「価値なんてない」と吐き捨てた時の冷たさはない。あの日とまったく違った印象だ。


 座る気配はない。椅子をもう一つ引っ張り、向かい合うように座る。


「食べる?」持っていたサンドイッチを半分に割って差し出した。「食べなよ、口付けてないから」


「せっかくですが、結構です」


 ああ、あの日の声だ。写真に価値がないと言い捨てた、意思のある声。


「烏の餌にはしたくないんだ。受け取ってよ」


 そう言って手を下げないでいると、渋々といった様子で手が伸びてきた。白い手の内側に青い静脈が透けて見えた。


「あなたは、ミサには?」


「寝坊だよ。まあ、元々そんな関心ないからね」


 サンドイッチを持ったまま不審そうな顔で聞かれた質問に答えた。興味がないわけではないが信仰はない。起きてたら行く程度で十分だ。


「きみは?」そう聞いて、サンドイッチを齧った。飲み込んだ俺を見ている。「行かないの?」


 目を合わせているはずなのに、片目が髪に隠れているせいか目が合っている感じがしない。唇の色の淡い桃色が、顔の中で最も彩度が高く見えた。


「目に見えないものに意味を感じませんから」


「何それ。前もそんなこと言ってたね」


 忘れないように聞こうと思った言葉も、一日経って少し曖昧だ。その中で覚えている確実なことは写真に映っていたものが海だっていうことだ。


「……あの写真のことなんだけど、本当にごめんね」


「気にしないでください」


 意外と優しい返事だった。いや、これは諦めか。食い下がる。


「けど、写真なんて」高価なものを。言いかけた言葉は我ながらナンセンスだ。「……特別なものだから、持ってたんでしょ?」


 言い終えてサンドイッチを食む。半分のサンドイッチは三口ほどで食べ終えてしまった。彼女が持っているサンドイッチは渡した時の変わらない。


「……目の前の景色が、写真の景色と同じものか、確認していただけです」


「えっ」

サンドイッチの輪郭を崩していた口を止めた。

「それって、どういう」


 慌てて飲み込む。まだサンドイ、くらいの形を残していた炭水化物は喉の奥でつっかえて、飲み込む時に痛みを伴った。


 確認なんて。


 何も言わない顔に胸の穴の塊をなんとか下げて聞き直そうとした瞬間、目の前に風の筋ができた。


「きゃあっ」


「あっ」


 危ない。


 視認した黒い影を手で払おうとした瞬間、高く舞い上がった。鴉だ。高く舞い上がった黒い体の足に、先ほど手元にあった白い三角形が掴まれていた。


「大丈夫?」


「はい。え、ええ……」


「はいって……大丈夫じゃないよね」


 胸元を抑えている指先は今の衝撃に震えていた。指先に傷はないがさぞ驚いたことだろう。上がった肩は傍目にも強張っている。


「はい。……びっくりした、だけです」


 男の俺でも驚くんだ。《《はい》》じゃないだろう。それは口癖か。不意に俺たちの間に声が割って入った。


「広幡さん!」


 シスター・イーダだった。頭を覆う白い布と黒い洋装。ウッドデッキから声をかけると庭にいる俺たちに歩み寄った。


「ここに居たんですね。ミサが終わって部屋に行ったらいなくてびっくりしました」


「すみません」


 素直に謝る彼女の言葉に、シスターの視線が気まずそうに逃げて俺に向いた。


「尊くんは寝坊でしょ。やっぱり起こしにくる係がいないと駄目ね!」


「いやだなあ、ほっといてくれていいよ」 


 反射的に言ってしまった途端、説教の香りが漂ってきた。まずい、とひきつった笑いを浮かべたところで、後ろから藤堂さんが現れる。ミサが終わって庭で日光浴だろう。俺たちを見て「まあ」と開けた口元に手を当てた。


「ねえ、広幡って……広幡廻船の?」


「はい。そうです」


 肯定はすぐだった。

 広幡廻船。誰でも知ってる廻船問屋だ。とんでもないお嬢様じゃないか。左隣にいる彼女に露骨に視線を投げる。あからさまに好奇に光った目にも動じなかった。


「広幡凪と申します」


 凪。


 名前にするには変わった響きだった。だが不思議と馴染んで、分限者《金持ち》は洒落た名付けをするもんだな、と感心した。


「すごいわあ。光栄ねえ」


 藤堂さんが歩み寄った。そのまま座るかと、譲るつもりでデッキチェアから立ったが、初対面の凪の前で座らなかった。


「こんなところでなかったらもっと喜ぶんだけど」


 和装の藤堂さんと、洋装の広幡凪さん。それに修道着のシスター・イーダ。三者三様の姿をしている。


 戦時中でも格好が問われなかったこの場所は、動乱から隔絶された場所。安寧のサナトリウム。


 生き続けるための療養の場所。


 シスター・イーダの気丈な声が割って入ったのは彼女が返事をする前だった。


「こんなところとはなんですか。皆さんしっかり直してこれからも外でお付き合いすればいいじゃないですか」


 少し間をおいて、「そうね」と藤堂さんが微笑んだ。それから何も言わない彼女に声をかける。


「広幡さん、お昼は一緒にどう? 食堂でみんなと」


「ありがとうございます。せっかくですがご遠慮します」


 その口調に、名前のことを話していた穏やかさはなかった。礼儀正しく、芯を曲げない声。


「お誘いには感謝いたします。ですが……」


 見据えるような強い眼差しをしているだろう。けれどその双眸に揺らぎを感じる。


「私は一人で結構です」


 そう言って一礼すると、何も答える間もないまま、庭に出てくる人たちと対照的に家の中に戻って行く。


瀟洒しょうしゃな子ねえ」


「若い子は洋装がよく映えますね」


 藤堂さんと文子さんが話しながら並べられたデッキチェアに座るさまを見ながら、思考が一つの仮説を立てる。


──もしかして、写真をなくしたショックで部屋に引きこもっていたのでは?


 ぞろぞろと現れた皆がデッキチェアに座った時、二階の窓が開く音がした。


 新しく窓の空いた部屋は、俺の部屋の上だった。








 温かな色に染まる乳白色のシェードを見ながらベッドに寝転んだ。

 壁にかけられた精工舎の時計。夕食が終わり消灯時間はもうまもなくだ。機械仕掛けの秒針が音を刻むたびに考えが深まっていた。


── 目の前の景色が、写真の景色と同じものか、確認していただけです。


 彩度の薄い桃色の唇はそう言っていた。


 おそらく何らかの思い入れがあって見ていた写真だ。そんな写真が風で飛ばされてしまい、よもや誰かが掴んでくれると思い追いかけ、光明が差したと思えば、それはあっさりと鳥に明け渡してしまう。……写真を掴んだのが間抜けな男だったせいで。


 俺の顔さえ見たくなくて部屋にいたのかも──とそこまで考えて布団から身を起こした。


 探しに行こう。


 ベタニアの家に入院する患者の制限は少ない。消灯後の外出禁止なんてわざわざ掲げなくとも、誰も夜に外出なんてしやしない。何かあったら被害を受けるのは患者自身なのだ。ましてや、雑木林に囲まれたこの場所で夜に場所出かける用事なんてない。夜に監視はない。


 窓の外を見やる。月明かりさえ照らさない夜の海。黒は時折音を立てて、白い線を作る。


 携帯電灯を持ちベランダから外に出ると、着物越しの肌を冷たい空気が刺した。デッキを降りると、木々のさざめきと、遠い波の音が聞こえた。


 携帯電灯を光らせながら茂みを分け入ると、鳥が鳴き声をあげて飛び立った。藤堂さんが餌付けしている鳥だろう。どれだけ懐いている無害な鳥でも、こんな暗闇では鴉と大差ないな。そう思いながら木の上を照らした。


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