一章-1
目の前に飛んできたそれを、反射的に手で掴んだ。くしゃりと音がしたそれを確認すると、海の写真だった。
「尊くん、お見事ぉ」
俺の背中から、呑気な女性の声がかかって、それから小さな拍手がぱらぱらと聞こえた。藤堂さんの声に、日光浴をしていた数人が倣ったようだ。
「なにこれ。写真?」
男の手のひらに収まる小さな海の写真には、誰も映っていない。なぜか斜めに映っているが、美術的な意図なのだろうか。手の中に収まる、白と黒でできた空と海の鮮やかな白波を見て考えたその時。
「あのう」
「え?」
聞き覚えのない声を辿ろうと視線を上げた瞬間、目の前に影が落ちてきて風が吹いた。
咄嗟に袂で目を覆おうとして、手から持っていた写真が引っ張られて抜ける。
あ、と漏らす前だった。濁った鳴き声に鼓膜が震えた。
どこからともなく現れた鴉が、俺が手に持っていた写真を奪った。器用に足で掴むと、鳴きながら高く舞い上がる。二階建ての黄色い屋根をゆうゆうと越えて、その姿が消えた。
数秒の出来事に呆然として、はっと視線を戻した目の前にいたのは、知らない女だった。
あの。音は小さくて拾えなかった。それでもその口はそう動いた。
華奢な洋装の女だった。被っている白い帽子がやけに大きく見える。戦前によく見た流行りの格好のわりに、髪は結い上げられておらず前髪は目元を隠すように垂れており、洗いさらしのようだった。頬には少女の面影のなめらかさがある。
「あの、こっちに写真が飛んできませんでしたか」
「ああ……」
顔はこちらを向いているのに、目がちゃんと合っていない印象がある。カーテンのように垂れる髪と帽子の影のせいだろうか。
「ごめん、今、鴉に取られちゃって」
苦々しく答えると、そうですか、と視線を下げた。
真昼の明るい庭の中でその姿はいっそう儚く感じられて、思わず半歩前に出て、着物の腕を捲った。
「今から探すよ。だから待ってて」
写真なんて希少なものだ。カメラや現像、フィルム。いったいいくらしたのだろうか。
「いえ、結構です。そんな」
腕を捲って走ろうとした俺を、彼女の声が止める。よく通る声は、先ほどとは違う確かな意思を感じさせた。片耳が聞こえない自分にもよく聞こえるくらいに。
「そんな大したものでは……なかったので」
彼女はいっそう目元を深く隠すように帽子の鍔を下げた。俯く視線の先には、秋口でも青々した芝。
「それより、こちらにはよく鴉が?」
「ああ、鴉というか」
そんな大したものと言うが、そんなわけないだろう。それでも写真をなくしたのは自分の失態だった。深く言及できず、とりあえず答える。
「鳥が……餌付けしている鳥がいて、その鳥の餌を横取りしにくるみたいなんだよ」
初めて会う女性だ。新しい患者か。それにしては食事の際に見なかったな、と考えを巡らせつつ答えた。
「そうなんですか」
それから少し間を置いて「では突然、失礼しました」と立ち去ろうとした。スカートの裾が揺れる。
「あの、写真」
本当にいいの? その言葉が喉で詰まったのは、自分のせいで鴉に奪われてしまった負目だ。
「ええ本当に、お気になさらないでください」
彼女は俺に背を向けた。絹のような黒髪が風に踊って曲線を作り、細い背中に垂れる。
「もう価値もありませんので」
それは一体どういうことだ。そう思ったけれど引き止めることはしなかった。
少し肌寒さを感じはじめた、金曜日の午後のことだった。
昭和二十年、秋。サナトリウム。この場所の名前は、ベタニアの家。
その場に取り残された俺の左耳に、午前の波が岩に当たって砕ける音が聞こえた。
サナトリウムとは、新鮮な空気、栄養、日光を浴びて結核の人たちの療養を目的とする施設である。
結核の治療は高い緯度での安静が旨とされており、ここも海が一望できる高台に建てられている。
木造二階建ての建物は青い外壁に、屋根は幸福を呼ぶというカナリアンイエローと呼ばれる黄色に塗られている。敷地内には教会が隣接しており、そこではサナトリウムの外のクリスチャンも参加するミサも行われている。
今はこのサナトリウムには今は十四人ほどの患者が療養し、シスターたちと医者の五人。俺を入れて二十人が生活している。
結核を患い療養のためのこの場所を、人生の行き止まりだと外の人は言う。
皆子どもではないから声高には絶望しないが、実際ここは行き止まりの場所だ。俺が来た二年の中で、ここを出た人間は七人。治癒した一人を除いて、棺桶で運び出された。
「今日から入ったっていう新しい人。夕食には来ないのかしらあ?」
「部屋でとるそうですよ」
食卓に座った藤堂さんの声に、給仕をしていたシスター・イーダがすぐに答えた。
三度の食事は基本的に皆が揃って食堂でとる。そうではない場合は、
「あら? 《《そんな》》悪いのお?」
《《そんな》》悪いか、
「病状的には、今は落ち着いてらっしゃるんですけれど」
一人で塞ぎ込みたいかのどちらかだ。
「まあねえ、始めは誰でもそんな感じよねえ」
シスター・イーダの言葉に、藤堂さんが何の気もなさそうに湯呑みを持ち上げた。
俺も湯呑みを持持ち上げたところで、シスター・イーダと一瞬目が合った。一口飲んですぐにテーブルの上に置く。
「この中では尊が年近いと思うよ」
口元まで運んだ湯呑みを止めて「そうなんだ」と言う。
俺は二十だが、彼女はそうは見えない。年下だろう。
帽子の影になっていた頬の輪郭を思い出しながらお茶を飲み干す。
新しく入院してきた人が人の輪に入らないことなど、珍しいことではない。この場所に来るに至っても、結核という病に罹ったことが受け入れられない者はいる。
もうすぐ死ぬのだからと、やさぐれ、投げやりな態度で人に接する。けれど時間が経ち、同じ病の人たちと生活を共にしていると次第に険がとれてくる。
苦痛は人を孤立させるが、共感は人を孤独にさせない。同じ痛みの者がいるから、孤高にもなれない。
「さあ、皆さんに行き渡りましたね」
細長い食卓の短辺に一人で座るシスター・マリア・マグダレナが言った。院長である彼女の目元には、誰もが刻めるとは限らない皺がある。
魚そうめんの吸い物、茶碗蒸し、ボイルドビーフ、大根の酢漬け、白米。
患者ではない俺の前にも、皆と変わらない食事が並ぶ。結核患者のために栄養の考えられた食事は、外の世界では考えられない豊かさだ。
「ではお祈りを致しましょう」
食事こそ日本のものだが、食事風景は皆で談笑を楽しむ西洋式でとる。食前の祈りも。手を組み合わせる。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧にしてください。主の御名によって。──アーメン」
「アーメン」
皆の復唱が重なってそれから、組んでいた手を解き箸を持つ。皆の手元で食器の音が鳴った。
夕食を終えて自室に戻る。
窓を開け放っていても画材の臭いがしている。
個室は他の患者同様、テーブルや椅子、ベッドと丸椅子がある。テーブルに雑に置いたままの画材を見て、そういえばそろそろホワイトがなかったな、と潰れたチューブを並べ直す。ウインザーニュートンの油彩絵の具。普通ならなかなか手に入らない画材も、ここではすぐに手に入れてもらえる。
床に置いたままの白いキャンバスをよけてベッドに寝転がる。夕食の話題に上がった彼女ことを思い出す。
俺のせいでなくした写真を「価値がない」と言って探そうともしなかった。写真なんて高価なものなのに。
使用人がいないこの場所で、赤の他人に探すよういうのが嫌だったのか。会ったら聞こう。そう思いながら、窓の外の海を一瞥した。
夜の闇と変わりない色の波に、絵の具を散らしたような白が飛んだ。




