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二章-3-過去



 生まれた時から喜ばれず、以後も祝福が与えられないさだめになった。


 十二月二十五日に生まれた。らしい。


 というのも、それは後から聞いた話だ。


 戸籍上は一月一日生まれ。なぜなら、十二月二十五日は大正天皇の崩御が発表されたからだ。



 俺が産声を上げたその後、ラジオで発表された時代の終わりに、縁起が悪いからと医者も父親も戸籍の日付をずらすことにした。珍しいことではない。


「あと少し待てば吉日《元日》生まれになったものを。よりにもよって」


 ある日の冬。物心ついた俺にそう言った父に疑問に思うと、母が俺が生まれた日の話をした。尊の生まれた日は、本当は一つの時代の節目だったのよ、と。


「お母さんがはやく会いたくて呼んじゃったのよ。あなたはそれに応えてくれたいい子なのよ」と。


 今思えば母だって傷ついてないわけがなかろうに、父の目に睨まれるだけで泣いていた気の弱い俺に呆れることなく膝枕をして慰めてくれていた。


 母の顎の下には黒子があった。膝枕をしてもらうとよく見えて、そのたびにこっそりと黒子を数えて数字を覚えた。


 警察官として努め、表彰状も多く飾っていた父は、俺のそんな姿に失望しているようだった。


 強くなれ、男なら泣くな。父に冷たい目で言い放たれる度、母の膝に逃げ込んだ。


「お父さんはね、国を守るお仕事をしている強い人なのよ。お祖父様から警察官で、だから尊さんにも強くあってほしくてそう言うのよ」


 お祖父さんから警察官だからと言ってその生き方を小さい俺にまで強要することはないだろう。片手ほどの年齢になった時には、できるだけ家の中で父と顔を合わせないようにしていた。


 母が病に罹ったのは、俺が五歳を過ぎた頃だった。


 よく咳をしては胸を押さえてた。


 今覚えば酷い咳に肋骨が折れていたんじゃないのかと思う。それでも家事の一つも手を抜かなかった。夏頃から伏せっていることが増えた。幼い俺の世話をしていたのは、静かな祖母だった。


 母が死んだのは、その年の寒い冬の日。俺が生まれた日と生まれたことにされた日の間だった。


 朝起きて触れた母の体の冷たさに、それからの記憶は断片的だ。葬儀の日にはじめて父に手の硬さを知った。


 それからの日々は、座布団を枕に仏壇に置かれた母の遺影を見ながら過ごしていた。


 起きてからずっとそうして母に膝枕をされている気になっていた。日中一緒に過ごす祖母は何も言わなかったが、見咎めたのは父だった。春の終わりだった。


「情けない! ウジウジといつまでも泣きおって!

 夜になっても仏壇の前過ごしている俺のそばに、仕事終わりだろう警官服を着たままの父が立った。聞こえないふりをしていると、いきなり頭部に衝撃を浴びて体が横に飛んだ。


 頭が痛い。


 それよりも、耳が熱くてたまらなかった。特に、座布団に面していた右耳が。


 突然のことに呆気に取られて泣くことも忘れていると、この後に及んで無視をされたと思っているのか、父の怒声が飛んできた。


「男児たるもの泣くでない! 九条家の男たるもの弱い言葉を吐くでない!」


 座布団を蹴飛ばそうとしただろう。俺の頭の下にあった座布団は部屋の隅に飛んでいた。どこかくらくらする感覚に頭を押さえていると、腕にぬるっとしたものを感じた。赤い色のそれを確かめると、右耳から流れていた。


 泣くことさえしない俺の様子に、医者に連れていってくれたのは祖母だった。俺の耳に布を押し当てて、医者が言った。


「右耳の鼓膜が破れてますね。もうこっちはほら、聞こえないでしょう?」


 ねえ坊ちゃん。かけられた言葉は頭の中で不思議な響き方をした。布の当てられていない左耳を自分の手で塞ぐと、世界から音が消えた。


 祖母は、遊んでて転んだと医者に伝えた。祖母に手を引かれて帰宅した。片耳に布を巻いた俺の姿に父が言った。


「耳に難があるなど、警戒勤務もできぬではないか」


 謝罪も心配の言葉もないのか。


 俺はその日から父に完全に心を閉ざした。


 破れた鼓膜と流れた血。右耳の方から話しかけられると気付かないことは度々あったが、片耳は聞こえるので特段の不便はなかった。


 片耳から聴力と選択肢を奪った負い目か、その日から父は俺に何も言ってこなくなった。それからすぐ、勉学に邁進しなさいと言って祖母は亡くなった。


 父は祖母の遺言に従おうと思ったのか、俺が家にいても勉強をしていると思ったのか、変わらず何も言ってこなかった。


 五年制の中学校生活は何の支障もなく、二年目を迎えた。第二次世界大戦が始まった。戦火がまだ他人事のその校舎の図書室で、既に廃刊になった雑誌を見つける。


 表紙に木の絵と洒落た書体で白樺と描かれた雑誌は、文学や絵画の雑誌だった。勉強の息抜きにと置かれたのか美術の資料として置かれていたのか、パラパラと流し見て、ふとその手を止める。


 ──目が合ったかと思って、それはすぐに気のせいだったと気付く。


 一ページに大きく紹介されていたものは、西洋の絵画だった。目が合った気がしたのは目を閉じた男の腕に抱かれる女性だった。その絵をよく見て、彼女は俺のことなども見ていないと気付く。自分を抱く男のことも。


 美しいレリーフの刻まれた廃墟の中で、二人は寄り添っていた。絵の左半分を使って斜めに生える薔薇は、まるで二人を守るようだった。雑誌の印刷にも、その棘が目立つ。



 作者はエドワード・バーン・ジョーンズ。廃墟の中の愛。




 たまたま見たその絵に俺はたまらなく惹かれた。


 愛は廃墟にも残る。人が捨てた廃墟にも愛は育つ。


 ──誰に見られずとも。知られずとも。


 それからは美術の本を読み漁るようになった。


 中学三年生。

 未だ止まぬ戦争の状況に贅沢は敵だという風潮になる。国民服令が制定され国民服が奨励されるようになった世の中で、資材を浪費するような絵を描きたいなんて言えるわけがない。まして惹かれたのが西洋画。彩管報国ならば許されるかもしれないがそうではない。大っぴらに言えやしない。


 だから隠れて美術の本を読み続けた。


 家で過ごしたくないあまりに本を外で読んでいると女の人から声をかけられるようになり、家の外で夜を越えることを覚えた。


「へえ、あんた。絵が好きなの? あたしの絵を描いてよ」


 俺は描くとは言ってない。なのにその女は、散らかった部屋の中で皺だらけの紙を見つけると雑に渡してきた。女の穴の位置を俺に教えた女だ。俺は床に落ちていた鉛筆を見つけ裸のまま彼女を描く。


 柔らかな脇腹と尻のライン。甘い線の反対で女は荒い気性をしている。


「へえ、いいじゃん」

 俺が描いた絵を見て彼女は喜んだ。

「あたしこんなに綺麗なのね」


 その雑なスケッチが、初めて人を描いた絵だった。


 金属回収令で近所の寺の鐘さえなくなり、紙でさえ不足し教科書でさえ全員には行き渡らなくなっていた。そんな中であるから女たちは俺に紙を渡せなくなり、ただ俺もまぐわうだけになった。



「これあげるよ」


 初めて描いた女が俺に渡したのは、油彩具だった。


 箱に入ったウィンザー・ニュートンの油彩チューブ。どれも少し端が丸められた使いさしだったが、それでも充分価値がある。新品は高価だったはずだ。


「お客さんから貰ったの。使わないからって」


 使わないからって手放せる物じゃないだろう。


 そう思いながらもチューブのラベルから目が離せない。光を作る白色の絵の具の名前は本で知っていた。ジンクホワイト。かつて白黒で見た雑誌の絵画が頭の中でよぎったところで、女の声が聞こえてハッとする。


「あんた絵描きになんなよ」


 女はそう言った。白とは遠い、日に焼けた女の顔。

 こんな高価なものをどうやって手に入れたか、夜に出ていく女のことを何も知らない。


 それなのに俺は、こんなの仕事にできないよ、と喜びを誤魔化すように笑うしかできなくて、皮膚の中の娯楽に興じるしかできなかった。



 卒業が視野に入った冬。徴兵に志願すると話す学友も多かった。もちろん高等学校に進学する者もいる。


 片耳に難聴がある俺は父のように警察官になれないだろう。ならばどうすれば良いか。選択肢があるということは恵まれているが、どこにも強く望まれてはいないに等しい。



 月月火水木金金。


 流行りの歌が家の中でも流される。レコードなんて娯楽の筆頭だろうに、なぜこの歌は許されるのだろうか。洗脳のためか。父親は家でこれを流す。


「高等学校はどうする」と父が俺に聞いた。


 どのみち二十歳になれば徴兵検査が待っている。生まれた日は祝うべきものではない。


──生まれたことすら。


 だから答えはすぐに決まった。


「志願します」


 左耳から入って来た冬の風の音が、右耳で止まる。


「軍に行きます」


 そう決めて、絵を描くことをやめた。彩管報国でない絵など、許されるわけもない。


『屠れ英米我等が敵だ。進め一億火の玉だ』


 通り過ぎた塀に、そう書かれたポスターが貼られていた。

 火は、いつか必ず消えるものだ。

 




 徴兵検査の朝は冬だった。着物の上に半纏に袖を通しながら起きると、庭で父親が火を焚べていた。長い棒を持ち、何を燃やしてるのかとまじまじと目を凝らしてすぐ、裸足のまま縁側を降りて火に近づいた。


 赤い火の中に消えるWINSORの文字。焚べられていたものは、女が俺にくれた油彩具だった。


「これは」


 火に向かって手を伸ばした俺の目の前で、父親は油彩具を焚くべていた棒を振るった。目の前に火の粉が飛ぶ。


「こんな不真面目な遊びばかりしておって! こんな時に! おまえは!」


 棚の中に隠していたはずだ。なぜ見つかった。いつ見つかっていた。


「鬼畜米英が作ったものから芸術など生まれるわけがあるまい! 敵性語のものなど、燃やして当然だ!」


 目の前に火があって、半纏まで着込んでいるのに寒くてしょうがなかった。体の奥が冷たい。何を言っても無駄だ。


 俺が悪かった。生まれてきたことすら。


 これをくれた女の顔が、色の濃い煙に曇って思い出せない。


「早く丸刈りにして来い。この半端者」


 父は長い棒をその場に捨てると、草履を脱いで縁側に登り部屋の奥に消えた。


 吸い込んだ煙に肺が薫るのを感じる。乾いた咳が出た。


 もう何もかも終わりでいい。



 朝の理容室は俺と同じような男たちで理容室は混み合っていた。


 咳き込むと周りの人間は皆嫌な顔をした。しつこい咳になったのは女の執念か、と思うと肋骨の痛みも許せた。


「ほら、知識人らしくなりましたよぉ」


 見せられた鏡の中には、丸刈りにされた国民服姿の俺が映っている。生まれたてなような頭にすぐに目を逸らす。坊主の感触を確かめようと触ると、頭蓋骨の形の悪さがよくわかった。


 検査場である役場に褌姿の男子が並び、どこも床板はぬるかった。


 姿を見ても尚、いよいよ戦地に行くのかという高揚感もなく、ただ自分の代わりは他にもたくさんいるのだと不思議な気持ちになった。


 咳をすると白い目で見られて距離を取られた。なかなか喉に残る煙だ。


 褌一枚にされて行われる検査の、つつがない流れが止まったのは聴力検査だった。


 やはりか、と思うと同時に後ろに並ぶ男子たちからの無遠慮に刺さる視線を感じて褌のみつを確認する。軍服を着た検査員が大声で俺に言った。


「右耳、もう一度!」


 桶に入ったホウ酸水を指につけて左耳の穴を塞いで目を閉じる。俺に先ほど大声で指示をした検査員は、二メートル離れた位置できっと何かを言っている。が、聞こえないから復唱できない。左耳では聞こえた声量だった。左耳を塞いで仕舞えばもう聞こえない。


 俺の右耳は、どんな音も拾えないのだと改めてわかる。


「次の者へ!」


 左耳を塞いでいても聞こえるような大声が放たれ、追い出されると再び流れ作業の徴兵検査が進む。その後の軍医の診察で右耳に聴力がないことを説明している間にも咳は出た。


「……その咳は?」


 大したことはありませんと答えながら、飛沫を飛ばさないよう口元を抑える。よほど警戒されているのか聴診器さえ当てられなかった。


 聴力だけは執拗に確認されて俺の徴兵検査は終わった。


 後日届いた検査結果に、俺の区分が書かれていた。──丁種。


 甲種とならずとも、乙種合格にはなるはずだと父は言っていた。最低でも丙種にはなるだろうと。


 徴兵検査の結果区分は、甲、乙、丙、丁、戊の五つ。上から身体強健で剛健。戊は翌年再検査。丙は──少し前は現役入隊ではなかったが──後方勤務。唯一の、はっきりした不合格の烙印が丁である。


 聞こえない右耳のせいだろうか。それでも配給が減る中で、この程度の咳ならば徴兵されるだろうと思っていた。震える手で、父が紙を読む。


「結核の疑いアリ……!?」


 走り書きの文字に誤診だと思うが書いた相手は目の前にいない。あの日の咳のせいだろうとすぐに思い至る。


 片耳が聞こえないことも決め手となったのだろう。結核菌は聴力や視力さえも侵す。


 田舎の検査場にはレントゲンなんて代物存在しないからわからないが、熱もなければ、あの日以来咳などといっった結核の特徴的な症状は出ていない。


「戊ですらない。神国日本に生まれながらお上に尽くせぬなど……」


 紙を握りしめながら父親が嘆く。こんなに悲壮感を漂わせる姿を、この時まで見たことがなかった。


「警察にもなれぬ。軍人にもなれぬ。お前はこの国に用無しと判断された……お前は」


 父親は俺の顔を見ない。坊主に近い髪は白髪まじりで、いつの間にか背丈はほぼ並ぶ。


「お前は一体、何のために生まれてきたのだ」


 やや俺のほうが背丈が大きいかもしれない。──そんなの俺が聞きたい。


 生まれてきたことに意味を求めるなら、誰か教えて欲しい。


「療養の金など出せるものか! 出て行け。いなくなればもし、空襲で死んだと九条家の……せめてもの面目が立つというものだ!」


 国に尽くせず家の役にも立たず。ならば消えろと言うのなら、わかりやすくてありがたかった。


 さようなら、と言おうとしてやめる。荷造りをしようかとも考えて、それもやめる。さようならは本来別れの言葉でもないし、この家のものは父の金で得たものだ。


 父に何も言わずに背を向けて、そのまま玄関に向かう。玄関の框を越えてやっと国民服に着替えた方がよかったかと思いつくけれど、もうこの框を越える気にはなかった。


 和服のまま軍靴を履き紐をきつく絞めて──俺は何も持たずに、生まれた家を後にした。




 それからの日々は意外と食い扶持に困らなかった。丁種の烙印があるとはいえ憲兵の目は怖い。道で困ってる婦人を見付けたらそれをさりげなく手伝う。町を歩く女たちの影には配給の列で疲れた顔があった。藁束を抱えて運んでいる姿を見つければ藁を持つ。赤子を抱き、おぶり、手を引いている子が転べば手を差し出す。


「あんた、うちで寝てく?」


 男主人のいなくなった家屋に誘われるままなだれこんだ。


「玄関の立て付け直してくれる?」


 男手は案外貴重らしい。ちょっと手先が器用だったこともあり、泊まった家では長く滞在を求められた。


 自分から誘いはしなかったが、求められれば布団の中でのあそびに応じた。


 結核の疑いアリ。徴兵検査の結果用紙を思い出す。


 昼間母乳を与えていた女の乳房の硬さを知り、告白したい気持ちになって、それでも拒絶が怖くてやめた。咳さえしなければ、誰も疑ってきやしなかった。


 配給の二食の米を三食に分け、女と子と寝食を共にした。


「お兄さん、もっと居てよお」


 舌ったらずな幼い声の主は、昨夜抱いた女には似ていない。


 そっくりの目元をした男はきっと今頃銃を抱いているだろう。俺は子どもの頭を撫でて答えた。そろそろ行こうかな。そう言えば、女は寂しさと安堵の混じった顔をして、それでも引き留められやしなかった。


 そんなことを言って、いったいどこに行くと言うのだろう。わからないまま、女たちの家から家へと渡り歩いた。



 そうしてある日の冬。その日は誰にも手を差し出さなかった。誰にも会わなかったわけではない。町に人はいて女も子どもも歩いていた。それはたまたまその日、困ったような顔をしている人がいなかったのだ。


 空襲警報はいつも遠く聞こえる。だんだんと肌寒くなり薄暗に染まり始めた町で、少し大きな一軒家を見つけた。


 塀には剥がれたプレートの跡。その上に『修道会』と書かれた紙が貼ってあった。


 教会か。見上げてすぐにわかった。屋根の上に白い十字架がある。


 プレートは金属献上でなくなったのか。基督キリスト教と書かないのはご時世柄か。その家には玄関扉がなく開いていた。中へ繋がる暗闇の隣に貼られた紙は白く光って見えた。


「この場所はどなたでも受け入れます。ご自由にどうぞお過ごしください」


 入った途端に自警団に捕まったり非国民だとリンチが始まったりするのではなあるまいか。そんな疑いで耳を澄ますが中から音は聞こえない。


 塀の外から様子を伺っていると、吹いた風に鳥肌が立つ。寒いな。


 坊主に近い短髪には、寒さが頭皮から染み渡る。だからきっと、徴兵検査前の長い髪のままであれば入っていなかった。


 ごめんください、と暗闇に呼びかけるが応答はなかった。靴を脱いで框を越える。古い木が軋んだ音がした。


 思考の中で、大丈夫だろうかと大丈夫そうだを何回も往復する。室内は木造の洋室で、長椅子がいくつも並んで置かれていた。


 部屋の中心には教壇だろう場所があり小さな十字架などが雑多に置かれている。壁には『必勝』『帝国日本の神民として集会前に国民儀礼を行います』と張り紙がしてあった。


 これだけ愛国を掲げる場所でなら、寝ていても非国民だ秘密結社だの言われることもないだろう。よかったと胸を撫で下ろす。それから、今更なにを気にしてるんだと自嘲した。結局保身だ。


 今まで教会に入ったことなどなかった。磨りガラスだが窓のおかげで照明のない部屋の中を見ることができる。薄暗いそのまま部屋の中を見渡してそれから教壇を覗く。


 教壇の上には十字架の他に蝋燭や紙やペンがやや雑多に置かれていて、ここに立つ身も人間なのだと苦笑する。


 何も書かれていない白い紙を久しぶりに見た。薄紙も戦争の資材で、教科書でさえ不足する世の中だ。何枚も置かれているのは贅沢品だ。


 その置かれ方に、一枚くらいならと手が伸びた。そのまま鉛筆を手に取る。


 何も考えなしに鉛筆の先を紙の上に乗せた。そのまま曲線。なだらかな線。


 ──柔らかいものを描きたい。


 それから磨りガラスの向こうはすっかり暗くなり、部屋の中が暗くなっても、発光のような紙の白さに甘えて手を動かし続けた。


「もし、起きてください」


 体を揺らされて目が開いた。


「あ、はい」


 女性の声に慌てて上半身を起こす。久しぶりの独寝と屋根付きの環境にどうやら熟睡してしまったらしい。


 頭を白い布に覆った女性が膝をついてすぐ目の前にいた。初老といって差し支えのない皺のある顔は、俺が姿勢を正すと微笑んだ。


「すみません、勝手に一泊させていただきました」


 この教会の修道女なのだろう。頭を包む白い布が垂れる服は国民服で、なんだかチグハグだ。


「構いませんよ。ここは誰のことも受け入れる場所でございますから」


 そう言って「それより」と床に視線を落とした。


「その絵は、あなたが?」


 はい、と答えると口の中に苦味が広がった気がした。つい、出来心で。とみなまでは言わなかった。噛んだ苦虫は相当固かったようだ。


 気まずさに昨夜書き殴った紙を手で隠そうとすると、見せてくださいとばかりに手を出された。いたたまれなさを感じながらも紙を手渡す。


 昨夜、気絶するように眠るまで一心不乱に描いたもの。それは、半月ほど前に俺を泊めた女の姿だった。髪をまとめ、朝日の中で赤子に乳を与えている女の姿。


 夜中に俺に咥えさせた乳を、太陽が昇ればまったく別の顔をして赤子に与えていた姿。寝ぼけ眼で見た、泣き声に応じる姿の美しさを一度思い出してしまえば、俺に鉛筆を握らせて離してくれやしなかった。


 数時間熱中して描いた手が、朝が来たいま黒くなっていることに気が付いて、ズボンに擦り付ける。


 変態的とも思える俺の絵を、初老の修道女は笑うことなく見つめていた。


 磨りガラスの窓の向こうは、白と青の混ざり合った色が滲んでいる。明るくなった室内は、夜とはまったく雰囲気が違なっていた。


 一枚の紙には重すぎる沈黙の後、修道女が口を開いた。

「あなた、お勤めは?」


 不合格でした、と答える。それに加えて耳が悪いことも結核の疑いがあると言われたことも、聞かれてもないのに喋ってしまう。


 どこかで療養の予定があるのかと聞かれて、また首を左右に振る。当たり前だろう。そんな金も優雅な時間もあるわけない。


 家はと聞かれて、また首を左右に振ると、やや間があって、ちょうどいいです、と修道女は言った。ちょうどいい?


「ついて来てください」


 そんな言葉でついていくことを決めたのは、眠気で判断力が鈍っていたこともあった。


 もしかしたら人買いで用があるのは俺の内臓とかかもしれない。それでもどうでもよかった。


 駅の乗り場で、修道女は黒い汽車を示した。停車する汽車の前に立つ軍人が、俺と修道女を一瞥だけした。乗りますよ、と言われて素直に従った。


 出征もないただの冬の日の車内は空いている。向かい合うように座席に座った。


「どちらへ行くのかと聞きませんね」


 曖昧に返事をすると、汽車が動いた。どこにいたって安息も安寧もないのだから、どこに行ったって同じだった。自分で行き先を決めようとは思わない。


 生きていたいと思える居場所なんて、この世界のどこにもない。


 離れて行く街に名残はなかった。それからは飛び去っていく景色を眺めているだけで、会話はなかった。


 汽車を降りて着いた駅に来ていた迎えは、また修道女のようだった。


「シスター・マリア・マグダレナ。そちらの男性は?」


 俺に訝しがるような視線を俺に投げて来たその女は、俺と歳が近そうな若い女だった。彼女は俺との隣の修道女と違って黒のワンピースに白いエプロンという、一見してシスターらしい様相の出立。


 その若い女に、一緒に汽車に乗った老婆の修道女が「外ではチヨさんと呼ぶようにと言っているでしょう」と嗜めるように言った。それから「ご苦労様」と彼女を労っただけで、質問には答えなかった。


「さあ、この車に乗ってください」


 修道女はそう言って、俺の背中を押した。若い女のシスターから変わらず怪訝な視線を投げられながら黒い外装の自動車の後部座席に乗り込むと、二人の女は前の席に乗り込んだ。運転するのは若い女の方だった。


 車は自家用だろうか。珍しいな、と思っっていると運転席の隣に座る修道女が言った。


「これだけは軍の方にもご容赦いただいております。色々と必要ですからね」


 服さえも切符の点数での引き換えになったこのご時世にあまりに珍しい。さぞや献金をしているのだろうと邪推をしてしまうのは、俺の父親が警察官で、媚びるような目で風呂敷を持ってきた人たちが度々家に来たことがあったからだろう。


 嫌なことを思い出したな。ガソリンだって統制下にある中で、車はずいぶん走った。山道に入り、耳に違和感を覚えて唾を飲むことを数回繰り返した後、やっと車は止まった。


「着きましたよ」


 雑木林を抜けて枝葉を背負った車を降りる。大きな教会の前だった。その後ろには青い壁と黄色の屋根の建物がある。二階建ての大きな建物に、学校かと思って目を凝らすと、玄関に木の板が貼ってあった。書かれている文字を読む。


──ベタニアの家。


 運転席から降りた若いシスターが俺に言った。


「ようこそ。ここは結核の方に療養していただく場所。──サナトリウムです」


 サナトリウム。結核患者の療養のための施設。


 病院と違って、入るには多額の資金が必要と聞いたことがある施設だった。戦火とは隔絶されたような小綺麗な建物のある空間に、聞いた話は事実だろうと推測する。


 なんでここに。こんなところに入る金なんてないぞ、と今更になって怯む俺の耳に、老婆の修道女の声が届く。


「さあ、さあ、砂畑先生はどちら? レントゲンを撮ってもらいましょ」


 聞こえてすぐ背中を押された。あ、とか、え、とか戸惑っているうちに、並ぶ扉の一つの押し込まれて、そこにいた白衣を着た小さな老人が俺の着物を脱がせるや否や、四角い箱に胸を当てさせた。これがレントゲンか。着物を直して椅子を出されても落ち着かない俺に、白衣を着た小さな老人──医者が言った。


「結核ではないね。ほら、肺に影がない」


 窓の陽光に翳されたセロファンのような紙に、人体模型の一部分のようなものが写っている。


 可視化された自分の骨に、驚きと関心が混じった息を吐いた。それから、数ヶ月前だが徴兵検査の日は咳がひどかったと話す。その日きりなんだろう、と言われて首を縦に振った。頷くと「じゃあ」と皺だらけの顔は難しそうな顔をした。


「何か吸い込んだんじゃないかい、煙とか」


 言われて思い付くものはあった。あの日の朝燃やされたもの。絵の具だ。


 医者は俺の言葉に「絵の具?」と首を傾げて、それから納得したような口ぶりになった。


「鉛が多く含まれる色もあるからね、吸い込めば咳は出るよ」


 誤診なのか。口を開けたままの俺の前で、医者は用が済んだとばかりにレントゲン写真を片付けた。


「軍隊は集団生活だから、結核患者が中にいたら、あっという間に広まって、結果戦力が低下するからね。だから疑いでも帰されたんだろうね」


 結核じゃあ、ないのか。


 綺麗だと言われた肺がスッとする。それと同時に、脳の奥が濁る。沈んでいた澱が揺れる。


 結核かもしれないと大義を背負わず追い出された。それならそれでいいと、と死に場所を探す野良のように歩いた。じゃあ、これからは?


 どこに行けばいいのだろう。アメ靴の足元を確認した俺の頭に、老いた修道女の声がかけられた。


「あなたにはこちらで、皆さんの絵を描いていただきたいの」


 いつのまにか中に入って着替えて来た初老の修道女が俺に言った。国民服を脱いだその姿は、先ほどの若いシスターと同様の、服黒いワンピースに白いエプロン姿だった。


「ここでの生活を、こちらで過ごす皆様を、絵に描いてもらえますか」


 どういう意味かわからなかった。え、と漏れた言葉は漢字か平仮名かわからない。


 目的が時間を切り取り残すことであれば、絵よりも写真の方が適切だろう、と思ってカメラは、と聞く。


「買おうと思えば買えます。それでも金属回収のさなか所持は……このような場所は、いっそう供出しなければならないですから」


 穏やかな口調で紡がれた説明に、なるほどと腑に落ちる。寺でさえ鐘を供出し小さな仏具まで出したほどだ。異国の宗教施設などいっそう取り立ては厳しいだろう。軍人が検閲する様が安易に想像できた。


「車だけは皆さんの移動で必要になるのでなんとか認めてもらっています。そのための献金もしていますので」


 それに、と足された言葉を聞き続ける。


「それに、この場所では……写真は都合が悪い、という人もいるのです」


 落とされた視線に、何となく察する。私立サナトリウム。分限者がくるような場所だ。証拠を残されたくない、という人もいておかしくない。


「自由に過ごしていただいて構わないわ。食事も個室もご用意します」


 あなたが気にならなければ、と足された言葉の意味は結核のことだろう。空気感染する死の病。死の病など怖くなかった。もとより生まれてきた喜びも知らない。それなのに求めに口をついて戸惑いしか出ない俺に、修道女は続けた。


「下働きをしながら、時々で構いません。頼まれたらで……ここにいる人に頼まれたら、話しながら」


 聞いた言葉に、欲しいのは絵描きというより、下働きと患者の話し相手だと理解した。ここに入居できるような金持ちの暇つぶし。絵はサービス。有閑階級の話し相手に、画家という名称はふさわしいだろう。


 食費やと部屋一つ。下働きもできる患者への福利厚生。筋が通った説明に納得がいく。


「……どうして、《《俺》》を」

 口をついて出た疑問は、今思えば自意識過剰だった。誰だっていいはずだ。この場所なら金を払って画家を呼ぼうと思えば呼べるだろう。


 なのになぜ俺を。


 まるでなにかを期待するような質問に、修道女は聖母のように微笑んで答えた。


「主を通しての出会いは必然です。あの場でのあなたは、さながら……シモンのように思えました」


 まったく意味がわからなくて、どこか期待外れの答えだった。それでも、どうするかはもう決まっていた。


 信仰は何もない。跪く必要があるのかとという問いに、なくていいと彼女は続けた。


「信仰はすべての人が持っているわけではありません。聞くことから生じる、努力なしには得られないものなのです。だから、それがあなたを拒否することではありません」


 その言葉に、礼を言うべきなのかわからず、窓から見える海に顔を向けた。



 こうして俺は、サナトリウム、ベタニアの家に招かれた。


 発病後一、二年で命を落とす結核。


 どんなカウントダウンにも一がある。きっとここは一と零の間なのだと、誰も呼ばない数字を居場所に決めた。




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