一人分の傘 -透-
「蓮見さんは?」
雨音の向こうで、氷室君が待っている。
何と答えれば氷室君が喜ぶのかは、聞こえない。
それなのに、逃げ道になる言葉だけは、いくつも思いついた。
私も同じ。
嫌ではなかった。
今よりもよかった。
どれも嘘ではない。
でも、どれも言いたいこととは違った。
屋根を叩く雨の音に、境内の外から届く人の声が滲んでいる。
雨は嫌いではない。
こんな日は、人の心まで少し遠くなる。
だから今は、誰かの中から答えを探すのではなく、自分の中だけを見ればよかった。
「楽しかった」
言葉にしてから、もう一度、自分の中を確かめる。
「すごく、楽しかったよ」
氷室君が息を吐いた。
顔を見ると、笑っていた。
「そっか」
それだけだった。
それだけなのに、胸の奥にあった固いものが、ほどけていく。
(……そっか、じゃないよ)
綺麗。
優しい。
大人っぽい。
これまで、いろいろな言葉を向けられてきた。
けれど、口にされた言葉と、その奥から聞こえる声が一致しないこともあった。
だからいつからか、言葉だけを信じるのが苦手になった。
でも、さっき氷室君が話したのは、誰にでも当てはまるようなことではなかった。
苦いチョコが嫌いなこと。
無理をしている時ほど笑うこと。
読書が好きなこと。
どれも、隣で過ごした時間の中で、氷室君が自分で見つけた私だった。
『普通の女の子』
氷室君は、私の秘密を知らない。
知らないから、そう言えるだけなのかもしれない。
それでも。
今だけは、その言葉を信じてみたかった。
◆◆◆◆◆
雨脚は、弱くなるどころか強くなった。
屋根を叩く音が重なり、乾いていた境内の土に、黒い染みが広がっていく。
土と、濡れた石の匂いが立ちのぼる。
境内の砂利が、少しずつ色を変えていった。
風に押された雨粒が吹き込んで、長椅子の端を濡らした。
私たちは濡れた場所を避けるように、それぞれ少しずつ中央へ寄る。
間に空けていた一人分の隙間が、半分ほどになった。
誰かと並んで、この長椅子に座るのは初めてだった。
ここは、誰の声も聞きたくない日に来る場所だ。
一人で座って、一人で帰る。
そのための場所に、今日は氷室君がいる。
それなのに、立ち去りたいとは思わなかった。
「……氷室君は、どうしてここに来たのか聞かないんだね」
「聞いた方がいいのか?」
「ううん。聞かれたら、困るだけ」
「じゃあ、聞かない」
あっさり引いた横顔を見て、喉の奥まで言葉が上がってきた。
私、人の心の声が聞こえるの。
たった一行分の言葉だった。
それを口にした後の顔を、私は一つも想像できない。
心が読めないから、試すこともできない。
結局、私は雨の方へ顔を向けた。
「しばらくやみそうにないな」
氷室君が空を見上げる。
「朝の予報では、降らないって言ってたのに」
「傘は?」
「……持ってない」
いつもなら、念のために折り畳み傘を鞄へ入れている。
今日は、それを確かめる余裕もなかった。
「珍しいな」
「そうかな」
「蓮見さん、そういうの忘れなさそうだから」
「私だって忘れるよ。普通の女の子だから」
わざとそう返すと、氷室君が眉を上げた。
「それ、しばらく使う気か」
「便利だから」
氷室君が鞄を開け、底から折り畳み傘を取り出した。
「氷室君は持ってるんだ。意外」
「前に入れて、そのまま忘れてた」
「氷室君らしいね」
自然に出た言葉に、自分で少し驚いた。
氷室君らしい。
噂から作った人物像でもない。
心から盗んだ答えでもない。
私が見て、話して、少しずつ知った氷室君だった。
黒い布が、小さな音を立てて開く。
一人で入るには十分でも、二人で入るには少し狭そうだった。
「駅まで、半分貸す」
「氷室君が濡れるよ」
「半分だからな。平等に濡れよう」
「……それ、貸す意味ある?」
「放って帰ったら目覚めが悪いだろ」
「ふふっ。氷室君らしい」
正解かどうかは、わからない。
でも、笑ってしまったから、たぶん悪くない答えだった。
◆◆◆◆◆
傘の下へ入る。
少し離れれば、どちらかの肩が外へ出る。
氷室君は、傘を私の方へ傾けていた。
「そっち、半分以上濡れてるよ」
「そういうこともある」
「貸して。私が持つから」
柄へ伸ばした指が、氷室君の手に触れた。
「あ……」
反射的に引く。
氷室君も一度こちらを見たが、何も言わず、傘を少しだけ中央へ戻した。
歩き出す。
制服の袖が、ときどき触れる。
離れようと思えば、すぐに離れられる。
けれど、離れれば雨に濡れる。
そう言い訳をして、歩幅だけを合わせた。
大通りへ出ると、傘の列が視界に入る。
無意識に手を握ると、私の目元を隠すように、ほんの少しだけ傘がずれた。
≪靴の中まで入った。最悪≫
≪夕飯、何にしよう≫
≪相合傘、いいな≫
知らない人たちの声が、雨に滲んで通り過ぎていく。
ホームルームの終わりに脈を打っていたこめかみは、いつのまにか静かになっていた。
雨のせいだと思う。
でも、たぶん、それだけではない。
すぐ横を見る。
これだけ近くても、氷室君からは何も聞こえない。
最初は、それが嬉しかった。
静かだったから。
何も聞かなくて済んだから。
でも今は、少し違う。
聞こえないのに、前よりずっと氷室君のことを知っている。
眠そうな顔。
妙に離れた「ゲ」の濁点。
どうでもいいところで意地を張ること。
興味がないことには、興味があるふりをしないこと。
そして。
わからない時に、わかったふりをしないこと。
静かだから隣にいたいんじゃない。
この人の隣だから、いたい。
そう気づくと、胸の奥がむず痒くなった。
「氷室君」
「ん?」
「ありがとう」
「なにが?」
「……いろいろと」
氷室君の右肩には、雨の跡が広がっている。
傘は相変わらず、こちら側へわずかに寄っていた。
でも、もう指摘しなかった。
顔を上げる。
氷室君も、ちょうどこちらを見た。
目が合う。
何を考えているのかは、やっぱりわからない。
それでも今は、すぐに目を逸らさなかった。
歩き出した拍子に、肩が触れる。
今度は、どちらも離れなかった。
一人になるための場所から、一人分の傘に二人で入って帰っている。
聞こえない人の隣で、これから何が起きるのか。
正解は、まだわからない。
それでも今は、先に答えを知りたいとは思わなかった。
◆◆◆◆◆
駅へ着く頃には、雨が少し弱くなっていた。
屋根の下へ入ると、氷室君が傘を閉じる。
隣にあった体温が離れ、濡れた制服の袖だけが、少し冷たくなった。
氷室君の右肩は、はっきり色が変わっていた。
「風邪、ひかないでね」
「そしたら休んでゲームする」
「……」
「冗談だ」
濡れた傘の先から、水が一滴ずつ落ちている。
その小さな音を、私はしばらく聞いていた。
改札の前で、帰る方向が分かれる。
氷室君が軽く手を上げ、歩き出した。
これまでなら、その背中を見送るだけだった。
「氷室君」
呼ぶと、足が止まる。
振り返った顔を、まっすぐ見る。
「また明日」
決められた挨拶ではなく、自分の気持ちを乗せて言葉を渡した。
氷室君は一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。
「ああ。また明日」
人の流れの中へ、その背中が混ざっていく。
改札を抜けるまで、私は動かなかった。
ホームへ降りる階段で、鞄を持ち直す。
中で、文庫本の角が指に当たった。
何度も読み返して、角が丸くなった一冊。
今日も鞄に入れていたのに、一度も開かなかった。
『知らないから、知りたい』
そう言われた相手に、私が渡せるものを探す。
今は、これくらいしか思いつかない。
席が離れたら、終わるはずだった。
それなのに今は、明日を待っている自分の声だけが、はっきり聞こえていた。




