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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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9/14

一人分の傘 -透-

「蓮見さんは?」


 雨音の向こうで、氷室君が待っている。


 何と答えれば氷室君が喜ぶのかは、聞こえない。


 それなのに、逃げ道になる言葉だけは、いくつも思いついた。


 私も同じ。

 嫌ではなかった。

 今よりもよかった。

 

 どれも嘘ではない。

 でも、どれも言いたいこととは違った。


 屋根を叩く雨の音に、境内の外から届く人の声が滲んでいる。


 雨は嫌いではない。


 こんな日は、人の心まで少し遠くなる。


 だから今は、誰かの中から答えを探すのではなく、自分の中だけを見ればよかった。


「楽しかった」


 言葉にしてから、もう一度、自分の中を確かめる。


「すごく、楽しかったよ」


 氷室君が息を吐いた。


 顔を見ると、笑っていた。


「そっか」


 それだけだった。


 それだけなのに、胸の奥にあった固いものが、ほどけていく。


(……そっか、じゃないよ)


 綺麗。

 優しい。

 大人っぽい。


 これまで、いろいろな言葉を向けられてきた。

 

 けれど、口にされた言葉と、その奥から聞こえる声が一致しないこともあった。


 だからいつからか、言葉だけを信じるのが苦手になった。


 でも、さっき氷室君が話したのは、誰にでも当てはまるようなことではなかった。


 苦いチョコが嫌いなこと。

 無理をしている時ほど笑うこと。

 読書が好きなこと。


 どれも、隣で過ごした時間の中で、氷室君が自分で見つけた私だった。


『普通の女の子』

 

 氷室君は、私の秘密を知らない。


 知らないから、そう言えるだけなのかもしれない。


 それでも。


 今だけは、その言葉を信じてみたかった。





◆◆◆◆◆





 雨脚は、弱くなるどころか強くなった。


 屋根を叩く音が重なり、乾いていた境内の土に、黒い染みが広がっていく。


 土と、濡れた石の匂いが立ちのぼる。


 境内の砂利が、少しずつ色を変えていった。


 風に押された雨粒が吹き込んで、長椅子の端を濡らした。


 私たちは濡れた場所を避けるように、それぞれ少しずつ中央へ寄る。


 間に空けていた一人分の隙間が、半分ほどになった。


 誰かと並んで、この長椅子に座るのは初めてだった。


 ここは、誰の声も聞きたくない日に来る場所だ。


 一人で座って、一人で帰る。

 そのための場所に、今日は氷室君がいる。


 それなのに、立ち去りたいとは思わなかった。


「……氷室君は、どうしてここに来たのか聞かないんだね」

「聞いた方がいいのか?」

「ううん。聞かれたら、困るだけ」

「じゃあ、聞かない」


 あっさり引いた横顔を見て、喉の奥まで言葉が上がってきた。


 私、人の心の声が聞こえるの。


 たった一行分の言葉だった。


 それを口にした後の顔を、私は一つも想像できない。

 心が読めないから、試すこともできない。


 結局、私は雨の方へ顔を向けた。


「しばらくやみそうにないな」


 氷室君が空を見上げる。


「朝の予報では、降らないって言ってたのに」

「傘は?」

「……持ってない」


 いつもなら、念のために折り畳み傘を鞄へ入れている。


 今日は、それを確かめる余裕もなかった。


「珍しいな」

「そうかな」

「蓮見さん、そういうの忘れなさそうだから」

「私だって忘れるよ。普通の女の子だから」


 わざとそう返すと、氷室君が眉を上げた。


「それ、しばらく使う気か」

「便利だから」


 氷室君が鞄を開け、底から折り畳み傘を取り出した。


「氷室君は持ってるんだ。意外」

「前に入れて、そのまま忘れてた」

「氷室君らしいね」


 自然に出た言葉に、自分で少し驚いた。


 氷室君らしい。


 噂から作った人物像でもない。

 心から盗んだ答えでもない。


 私が見て、話して、少しずつ知った氷室君だった。


 黒い布が、小さな音を立てて開く。


 一人で入るには十分でも、二人で入るには少し狭そうだった。


「駅まで、半分貸す」

「氷室君が濡れるよ」

「半分だからな。平等に濡れよう」

「……それ、貸す意味ある?」

「放って帰ったら目覚めが悪いだろ」

「ふふっ。氷室君らしい」


 正解かどうかは、わからない。


 でも、笑ってしまったから、たぶん悪くない答えだった。





◆◆◆◆◆





 傘の下へ入る。


 少し離れれば、どちらかの肩が外へ出る。


 氷室君は、傘を私の方へ傾けていた。


「そっち、半分以上濡れてるよ」

「そういうこともある」

「貸して。私が持つから」


 柄へ伸ばした指が、氷室君の手に触れた。


「あ……」


 反射的に引く。


 氷室君も一度こちらを見たが、何も言わず、傘を少しだけ中央へ戻した。


 歩き出す。


 制服の袖が、ときどき触れる。


 離れようと思えば、すぐに離れられる。

 けれど、離れれば雨に濡れる。


 そう言い訳をして、歩幅だけを合わせた。


 大通りへ出ると、傘の列が視界に入る。

 無意識に手を握ると、私の目元を隠すように、ほんの少しだけ傘がずれた。


≪靴の中まで入った。最悪≫

≪夕飯、何にしよう≫

≪相合傘、いいな≫


 知らない人たちの声が、雨に滲んで通り過ぎていく。


 ホームルームの終わりに脈を打っていたこめかみは、いつのまにか静かになっていた。


 雨のせいだと思う。

 でも、たぶん、それだけではない。


 すぐ横を見る。


 これだけ近くても、氷室君からは何も聞こえない。


 最初は、それが嬉しかった。


 静かだったから。

 何も聞かなくて済んだから。


 でも今は、少し違う。


 聞こえないのに、前よりずっと氷室君のことを知っている。


 眠そうな顔。

 妙に離れた「ゲ」の濁点。

 どうでもいいところで意地を張ること。

 興味がないことには、興味があるふりをしないこと。


 そして。

 わからない時に、わかったふりをしないこと。


 静かだから隣にいたいんじゃない。


 この人の隣だから、いたい。

 そう気づくと、胸の奥がむず痒くなった。


「氷室君」

「ん?」

「ありがとう」

「なにが?」

「……いろいろと」


 氷室君の右肩には、雨の跡が広がっている。


 傘は相変わらず、こちら側へわずかに寄っていた。


 でも、もう指摘しなかった。


 顔を上げる。

 氷室君も、ちょうどこちらを見た。


 目が合う。


 何を考えているのかは、やっぱりわからない。


 それでも今は、すぐに目を逸らさなかった。


 歩き出した拍子に、肩が触れる。


 今度は、どちらも離れなかった。


 一人になるための場所から、一人分の傘に二人で入って帰っている。


 聞こえない人の隣で、これから何が起きるのか。


 正解は、まだわからない。


 それでも今は、先に答えを知りたいとは思わなかった。





◆◆◆◆◆





 駅へ着く頃には、雨が少し弱くなっていた。


 屋根の下へ入ると、氷室君が傘を閉じる。


 隣にあった体温が離れ、濡れた制服の袖だけが、少し冷たくなった。


 氷室君の右肩は、はっきり色が変わっていた。


「風邪、ひかないでね」

「そしたら休んでゲームする」

「……」

「冗談だ」


 濡れた傘の先から、水が一滴ずつ落ちている。


 その小さな音を、私はしばらく聞いていた。


 改札の前で、帰る方向が分かれる。


 氷室君が軽く手を上げ、歩き出した。


 これまでなら、その背中を見送るだけだった。


「氷室君」


 呼ぶと、足が止まる。


 振り返った顔を、まっすぐ見る。


「また明日」


 決められた挨拶ではなく、自分の気持ちを乗せて言葉を渡した。


 氷室君は一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。


「ああ。また明日」


 人の流れの中へ、その背中が混ざっていく。


 改札を抜けるまで、私は動かなかった。


 ホームへ降りる階段で、鞄を持ち直す。


 中で、文庫本の角が指に当たった。


 何度も読み返して、角が丸くなった一冊。

 今日も鞄に入れていたのに、一度も開かなかった。


『知らないから、知りたい』


 そう言われた相手に、私が渡せるものを探す。

 今は、これくらいしか思いつかない。


 席が離れたら、終わるはずだった。


 それなのに今は、明日を待っている自分の声だけが、はっきり聞こえていた。


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