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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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8/14

知らないから、知りたい -誠-

 蓮見さんが、ゆっくり振り返った。


「……なに、氷室君」


 きちんと笑っている。


 けれど、教室を出る直前、こめかみを押さえていたのを見た。

 今も、鞄の持ち手を強く握っている。


「少し、話せる?」


 笑顔が、わずかに固まった。


「明日じゃ、だめかな」


 断られたわけではない。

 だからといって、受け入れられたわけでもなさそうだった。


 ここで引けば、今日は終わる。

 明日になって話せる保証はない。


 この三日間で、それだけは学んだ。


「たぶん、今がいい」


 蓮見さんは答えなかった。


「でも、嫌なら帰る。追いかけてきたのは俺だけど、話すかどうかを決めるのは蓮見さんでいい」


 蓮見さんが視線を落とす。


 廊下の向こうから、部活へ急ぐ生徒たちの足音が近づいてきた。

 数人の集団が俺たちの横を通り過ぎ、階段を駆け下りていく。


 その姿が見えなくなっても、蓮見さんは黙っていた。


 鞄の持ち手を握る指に、力が入っている。


「……ここは、嫌」

「うん」

「人がいるところも、嫌」

「わかった」


 また少し、間が空いた。


 やがて蓮見さんは、何かを決めるようにゆっくり息を吐いた。


「……少し歩くけど、いい?」

「いいよ」


 どこへ行くのかは聞かなかった。


 今は、少し前を行くその背中についていくことにした。


 校門を出ると、空が低かった。


 アスファルトの匂いが、雨の前の匂いに変わっている。


 蓮見さんは一度も振り返らず、けれど角を曲がるたびに、少しだけ歩く速度を落とした。


 俺がついてきているか、足音で確かめているのだとわかった。





◆◆◆◆◆





 蓮見さんは駅へ向かう大通りを途中で外れ、住宅の間に延びる細い道へ入った。


 何度か角を曲がった先に、古びた石の鳥居が見えてくる。


 額に刻まれた文字は薄れ、石段の端から雑草が伸びていた。

 その向こうに、小さな社と、屋根のついた休憩所がある。


 社務所らしい建物の雨戸は閉じられ、境内には俺たち以外、誰もいなかった。


「こんな場所、あったんだな」

「みんな知らないと思う。誰も、見たことないから」


 蓮見さんは慣れた足取りで休憩所へ向かい、古い長椅子の端に座った。


 俺も、一人分の間を空けて腰を下ろす。


 木の座面は、思ったよりひやりとしていた。


 腰を下ろした蓮見さんが、肩を一度だけ上下させる。


 教室にいた時よりも、明らかに背中の力が抜けていた。


「よく来るのか?」

「ときどき」

「家、こっちの方なのか?」

「……ううん、違う。ただ、ここは、静かだから」


 蓮見さんは境内を見渡した。


 確かに、静かだった。


 車の音は遠い。

 誰かの声も聞こえない。


「それで、話って?」


 先に切り出したのは蓮見さんだった。


「席替えしてから、俺のこと避けてた?」


 肩が強張る。


「避けてないよ」

「俺が立つと、教室を出てたけど」

「偶然じゃないかな」

「三日続いた」

「……よく見てるんだね」

「気になったから」


 蓮見さんの視線が、膝の上の鞄へ落ちる。


「俺、何かしたか?」

「何もされてないよ」

「じゃあ、どうして?」

「……元に戻っただけだよ」


 用意していた答えのように、迷いのない声だった。


「隣になる前に。席が離れたら、話す理由もなくなるでしょう?」

「誰が決めたんだ、それ」

「決めなくても、普通はそうなるよ」

「俺は嫌だけど」


 蓮見さんが顔を上げた。


 自分でも、口にしてからわかった。


 席が離れたことより、隣で過ごした時間まで、なかったものにされる方が嫌だった。


「どうして?」

「せっかく知ったのに、知らないふりをするのは変だろ」

「知ったって、何を」

「蓮見さんのこと」

「私のことなんて、ほとんど知らないよ」

「うん。知らない」


 はっきり答えると、蓮見さんの表情が固まった。


「だから、知りたい。知らないから、知りたい」

「……どうして?」


 答えようとして、やめた。


 友達だから。

 気になるから。


 そういう言葉を使えば、形は整う。


 でも、自分の中でまだ名前がついていないものを、わかったふりはしたくなかった。


「それは、まだよくわからない」

「何もわからないんだね」

「わからないことを、わかったことにしたくないだけだ」


 蓮見さんは何も言わなかった。


 遠くで、車が水たまりを踏んだような音がする。

 境内を抜けた風が、足元の枯れ葉を一枚だけ転がした。


 やがて、蓮見さんが小さく息を吸った。


「……ねぇ、氷室君」

「なんだ?」

「氷室君の目には、私はどう映ってるの?」


 刺すような視線の中で、声だけが微かに震えていた。

 たぶん、ここで適当なことを言ってはいけない。

 いや、言いたくなかった。


 最初に浮かんだのは、綺麗とか、優しいとか、誰にでも言えそうな言葉だった。


 健介なら、たぶんそう言う。

 隆なら、立ち回りが上手いとか、他校に知れ渡るほどの美人とか、一歩離れたような感想を言うだろう。


 けれど、今聞かれているのは、そんなことではない気がした。


 自分が見てきたものだけを、順番に並べる。


「真面目で、几帳面で。それから、意外とお茶目で、少し子どもっぽい」

「……子どもっぽい?」


 蓮見さんの眉が、わずかに寄った。


「本の話を書いてる時、文字が多くなる」

「それは……説明に必要だったからで」

「教科書を持ってるのに、忘れたって言う」


 目が、少しだけ大きくなる。


「……気づいてたの?」

「鞄から見えてた」

「だったら、どうして――」

「断る理由がなかった」


 蓮見さんは反論しかけ、諦めたように口を閉じた。


「……そういうところだよ、氷室君は」

「どういうところだ」

「自分で考えて」

「難しいな」


 そう答えると、蓮見さんが少しだけ笑った。


「……ほかには?」

「苦いチョコを渡すと、すごく嫌そうな顔をする」

「嫌いとは言ってないよ」

「顔には出てた」


 蓮見さんが、少しだけ頬を膨らませる。

 それから、また黙った。


「あとは……無理な時ほど、綺麗に笑う」


 蓮見さんの肩が跳ねる。


 言わない方がよかったのかもしれない。

 それでも今は、思ったことを言うべきだと思った。


「でも、紙で話す時は、よく笑ってた」

「それは……氷室君が、変なことを書くから」

「そうかもな。でも、そっちの顔の方が蓮見さんらしいと思った」


 蓮見さんが俯く。

 膝の上で強く握られていた指が、少しずつほどけていく。


「……私らしい?」

「ああ」

「私って、なに?」


 不思議な質問に、少しだけ面を食らう。

 ただ、あまりにも真剣な顔に、並べたものを、一つの言葉につなぎ合わせた。


「隣の席だった、読書好きの、普通の女の子」


 蓮見さんは黙っていた。


 何も言わない。

 けれど、その沈黙はさっきまでとは違っていた。


「普通、だと思うの?」

「思う」


 迷うようなことではなかった。

 少なくとも、俺にはそう見えている。


「少し変わってるけどな」

「……そこ、付け足す必要あった?」

「嘘は得意じゃないから」

「ふふっ。そうだね」


 蓮見さんの口元が、ほんの少し緩んだ。


 教室で大勢に向ける笑い方ではなかった。


 それを見て、胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく少し下りた。


「氷室君は、そういう人だよね」

「どういう人だ」

「変な人」

「それ、さっき俺が言ったやつだろ」

「私は『少し』とは言ってないよ」


 顔を上げた蓮見さんは、もう笑っていた。


 その時、休憩所の屋根を小さな音が叩いた。


 空を見上げる。

 雲の底が、来た時よりずっと暗い。


 一つ。二つ。


 三つ目からは、数えられなくなる。


 雨だった。


 吹き込んできた雨粒を避けて、蓮見さんが座る位置を少しだけ中央へ寄せる。


 俺も同じだけ寄った。


「ねえ、氷室君」

「なに?」

「私といて……楽しかった?」


 声は小さかった。


 けれど、答えに迷うことはなかった。


「楽しかったよ」


 蓮見さんが、ゆっくりまばたきをする。


 雨音が屋根の上で重なっていく。


「蓮見さんは?」


 今度は俺が、彼女の言葉を待った。


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