知らないから、知りたい -誠-
蓮見さんが、ゆっくり振り返った。
「……なに、氷室君」
きちんと笑っている。
けれど、教室を出る直前、こめかみを押さえていたのを見た。
今も、鞄の持ち手を強く握っている。
「少し、話せる?」
笑顔が、わずかに固まった。
「明日じゃ、だめかな」
断られたわけではない。
だからといって、受け入れられたわけでもなさそうだった。
ここで引けば、今日は終わる。
明日になって話せる保証はない。
この三日間で、それだけは学んだ。
「たぶん、今がいい」
蓮見さんは答えなかった。
「でも、嫌なら帰る。追いかけてきたのは俺だけど、話すかどうかを決めるのは蓮見さんでいい」
蓮見さんが視線を落とす。
廊下の向こうから、部活へ急ぐ生徒たちの足音が近づいてきた。
数人の集団が俺たちの横を通り過ぎ、階段を駆け下りていく。
その姿が見えなくなっても、蓮見さんは黙っていた。
鞄の持ち手を握る指に、力が入っている。
「……ここは、嫌」
「うん」
「人がいるところも、嫌」
「わかった」
また少し、間が空いた。
やがて蓮見さんは、何かを決めるようにゆっくり息を吐いた。
「……少し歩くけど、いい?」
「いいよ」
どこへ行くのかは聞かなかった。
今は、少し前を行くその背中についていくことにした。
校門を出ると、空が低かった。
アスファルトの匂いが、雨の前の匂いに変わっている。
蓮見さんは一度も振り返らず、けれど角を曲がるたびに、少しだけ歩く速度を落とした。
俺がついてきているか、足音で確かめているのだとわかった。
◆◆◆◆◆
蓮見さんは駅へ向かう大通りを途中で外れ、住宅の間に延びる細い道へ入った。
何度か角を曲がった先に、古びた石の鳥居が見えてくる。
額に刻まれた文字は薄れ、石段の端から雑草が伸びていた。
その向こうに、小さな社と、屋根のついた休憩所がある。
社務所らしい建物の雨戸は閉じられ、境内には俺たち以外、誰もいなかった。
「こんな場所、あったんだな」
「みんな知らないと思う。誰も、見たことないから」
蓮見さんは慣れた足取りで休憩所へ向かい、古い長椅子の端に座った。
俺も、一人分の間を空けて腰を下ろす。
木の座面は、思ったよりひやりとしていた。
腰を下ろした蓮見さんが、肩を一度だけ上下させる。
教室にいた時よりも、明らかに背中の力が抜けていた。
「よく来るのか?」
「ときどき」
「家、こっちの方なのか?」
「……ううん、違う。ただ、ここは、静かだから」
蓮見さんは境内を見渡した。
確かに、静かだった。
車の音は遠い。
誰かの声も聞こえない。
「それで、話って?」
先に切り出したのは蓮見さんだった。
「席替えしてから、俺のこと避けてた?」
肩が強張る。
「避けてないよ」
「俺が立つと、教室を出てたけど」
「偶然じゃないかな」
「三日続いた」
「……よく見てるんだね」
「気になったから」
蓮見さんの視線が、膝の上の鞄へ落ちる。
「俺、何かしたか?」
「何もされてないよ」
「じゃあ、どうして?」
「……元に戻っただけだよ」
用意していた答えのように、迷いのない声だった。
「隣になる前に。席が離れたら、話す理由もなくなるでしょう?」
「誰が決めたんだ、それ」
「決めなくても、普通はそうなるよ」
「俺は嫌だけど」
蓮見さんが顔を上げた。
自分でも、口にしてからわかった。
席が離れたことより、隣で過ごした時間まで、なかったものにされる方が嫌だった。
「どうして?」
「せっかく知ったのに、知らないふりをするのは変だろ」
「知ったって、何を」
「蓮見さんのこと」
「私のことなんて、ほとんど知らないよ」
「うん。知らない」
はっきり答えると、蓮見さんの表情が固まった。
「だから、知りたい。知らないから、知りたい」
「……どうして?」
答えようとして、やめた。
友達だから。
気になるから。
そういう言葉を使えば、形は整う。
でも、自分の中でまだ名前がついていないものを、わかったふりはしたくなかった。
「それは、まだよくわからない」
「何もわからないんだね」
「わからないことを、わかったことにしたくないだけだ」
蓮見さんは何も言わなかった。
遠くで、車が水たまりを踏んだような音がする。
境内を抜けた風が、足元の枯れ葉を一枚だけ転がした。
やがて、蓮見さんが小さく息を吸った。
「……ねぇ、氷室君」
「なんだ?」
「氷室君の目には、私はどう映ってるの?」
刺すような視線の中で、声だけが微かに震えていた。
たぶん、ここで適当なことを言ってはいけない。
いや、言いたくなかった。
最初に浮かんだのは、綺麗とか、優しいとか、誰にでも言えそうな言葉だった。
健介なら、たぶんそう言う。
隆なら、立ち回りが上手いとか、他校に知れ渡るほどの美人とか、一歩離れたような感想を言うだろう。
けれど、今聞かれているのは、そんなことではない気がした。
自分が見てきたものだけを、順番に並べる。
「真面目で、几帳面で。それから、意外とお茶目で、少し子どもっぽい」
「……子どもっぽい?」
蓮見さんの眉が、わずかに寄った。
「本の話を書いてる時、文字が多くなる」
「それは……説明に必要だったからで」
「教科書を持ってるのに、忘れたって言う」
目が、少しだけ大きくなる。
「……気づいてたの?」
「鞄から見えてた」
「だったら、どうして――」
「断る理由がなかった」
蓮見さんは反論しかけ、諦めたように口を閉じた。
「……そういうところだよ、氷室君は」
「どういうところだ」
「自分で考えて」
「難しいな」
そう答えると、蓮見さんが少しだけ笑った。
「……ほかには?」
「苦いチョコを渡すと、すごく嫌そうな顔をする」
「嫌いとは言ってないよ」
「顔には出てた」
蓮見さんが、少しだけ頬を膨らませる。
それから、また黙った。
「あとは……無理な時ほど、綺麗に笑う」
蓮見さんの肩が跳ねる。
言わない方がよかったのかもしれない。
それでも今は、思ったことを言うべきだと思った。
「でも、紙で話す時は、よく笑ってた」
「それは……氷室君が、変なことを書くから」
「そうかもな。でも、そっちの顔の方が蓮見さんらしいと思った」
蓮見さんが俯く。
膝の上で強く握られていた指が、少しずつほどけていく。
「……私らしい?」
「ああ」
「私って、なに?」
不思議な質問に、少しだけ面を食らう。
ただ、あまりにも真剣な顔に、並べたものを、一つの言葉につなぎ合わせた。
「隣の席だった、読書好きの、普通の女の子」
蓮見さんは黙っていた。
何も言わない。
けれど、その沈黙はさっきまでとは違っていた。
「普通、だと思うの?」
「思う」
迷うようなことではなかった。
少なくとも、俺にはそう見えている。
「少し変わってるけどな」
「……そこ、付け足す必要あった?」
「嘘は得意じゃないから」
「ふふっ。そうだね」
蓮見さんの口元が、ほんの少し緩んだ。
教室で大勢に向ける笑い方ではなかった。
それを見て、胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく少し下りた。
「氷室君は、そういう人だよね」
「どういう人だ」
「変な人」
「それ、さっき俺が言ったやつだろ」
「私は『少し』とは言ってないよ」
顔を上げた蓮見さんは、もう笑っていた。
その時、休憩所の屋根を小さな音が叩いた。
空を見上げる。
雲の底が、来た時よりずっと暗い。
一つ。二つ。
三つ目からは、数えられなくなる。
雨だった。
吹き込んできた雨粒を避けて、蓮見さんが座る位置を少しだけ中央へ寄せる。
俺も同じだけ寄った。
「ねえ、氷室君」
「なに?」
「私といて……楽しかった?」
声は小さかった。
けれど、答えに迷うことはなかった。
「楽しかったよ」
蓮見さんが、ゆっくりまばたきをする。
雨音が屋根の上で重なっていく。
「蓮見さんは?」
今度は俺が、彼女の言葉を待った。




