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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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7/14

上手な終わらせ方 -透-

 新しい席は、悪くなかった。


 廊下側の、右から二列目。前から三番目。


 窓からは遠いけれど、先生の声はよく聞こえるし、黒板も見やすい。


 ただ、教室の中央に近いぶん、流れ込んでくる声は前より増えた。


≪腹減った≫

≪狩谷君、こっち見ないかな≫

≪蓮見さんの髪、何使ったらあんなにまとまるんだろ≫


 どれも小さな声だった。

 小さいから消えるわけではない。


 前後と、左右。

 四方から、細い雨のように降り続いている。


 窓際の席には、片側に逃げ場があった。


 逃げ込める静けさは、もう隣にはない。


「やったね、透ちゃん。席、近くなれた」

「うん。よかった」


 前の席には千佳ちゃんが座っている。


 席が決まった時からずっと機嫌がよかったけれど、その理由が私だけではないことを知っていた。


 千佳ちゃんの視線が、ときどき斜め後ろへ流れる。


 私の隣には、狩谷君が座っていた。


「よろしくね、蓮見さん」

「うん。よろしく、狩谷君」


≪狩谷君も近いし、今回かなり当たりかも≫

≪蓮見さんの隣とか、運いいな≫


 同じ場所から、別々の方向を向いた声が聞こえる。


 どちらも悪意ではない。

 ただ、二人の間で絡まりかけた感情が、少しだけ重かった。


「蓮見さん、次の授業、移動だよね。一緒に行く?」


 狩谷君が、ノートを閉じながらこちらを見る。


≪今度こそ距離縮めたいな≫


「ありがとう。千佳ちゃんも一緒でいい?」


 二人きりにならず、断ったようにも聞こえない答えを選ぶ。


「もちろん」

「やった、じゃあ行こー」


≪まぁ、話も広がりやすいしいいか≫

≪狩谷君、なんで私から誘ってくれないんだろ≫


 同じ笑顔の下で、二つの声が別々の方を向いていた。


 誰も嘘はついていない。

 誰も悪くない。


 ただ、全部が聞こえる場所に戻ってきただけだった。


 三人で廊下を歩く。


 狩谷君は歩きながらよく喋る人で、千佳ちゃんはそれに明るく合わせる。

 私は、二人の会話が途切れそうになる場所だけ、言葉を足した。


「蓮見さんって、休みの日何してるの?」

「本を読んでるかな」

「へえ、意外。もっと出かける人だと思ってた」


≪また本の話か。俺、読まないんだよな≫

≪透ちゃん、そういえば図書室にいるの見たことある≫


 声に出された言葉と、出されなかった言葉が、半歩ずれて届く。


 どちらにも合わせられる返事を選んで、私は笑った。


 特別教室へ着くまでの、たった二分。

 それだけで、こめかみの奥が重くなった。





◆◆◆◆◆





 一時間目が終わると、窓際へ目を向けた。


 氷室君は眠っていた。


 二時間目のあとも見る。

 今度は起きていて、机の中から筆箱を探していた。


 三時間目のあとは、もう見ないと決めた。


 決めてから二分も経たないうちに、また窓際を探していた。


 目が合うわけでもない。

 話しかけるつもりもない。


 それなのに、離れたぶんだけ、以前より何度も見てしまう。


(……近くにいた時は、こんなに見ていなかったのに)


 四時間目が終わったあと、教科書を机へしまうふりをして、もう一度だけ窓際を見た。


 指が止まる。


 隣の女の子が、氷室君の方へ身体を傾けていた。

 氷室君は少しだけ顔を上げ、短く何かを返す。


 その子が笑った。


 肩を揺らし、口元を手で押さえても収まらないというように。


 教室のざわめきに混じって、その笑い声だけが、やけにはっきり届いた。


 何を言ったのだろう。

 私にはわからない。


≪氷室君、ちょっと面白いかも≫


 届いたのは、その子の声だけだった。


 氷室君が困っている人へ手を貸すことも、相手によって言葉を変えないことも知っている。


 それが私だけに向けられたものではないことくらい、最初からわかっていた。


 それでも、胸の内側に細い傷がついたような気がした。


 氷室君の言葉で、あんなふうに笑うのは私だけではない。


 ただ、それだけのことなのに。


 シャーペンが指から滑り、机の上を転がって床へ落ちた。


「透ちゃん?」


 千佳ちゃんに呼ばれるまで、拾うことができなかった。


「……ごめん。なんでもないよ」


 屈んでシャーペンを拾う。


 指先が冷たくなっていた。


 顔を上げた時には、もう窓際を見なかった。


 余白がなくなるまで書いた、あの日の紙を思い出す。


 あれは氷室君にとっては、なんでもない紙一枚の質問だったのかもしれない。


 紙が来たから返した。

 隣だったから話した。


 聞こえない静けさに、勝手な意味をつけていただけかもしれない。


 心の読めない人を相手にしてまで、私はまた、先に答えを決めようとしている。


 なら、確かめる前に終わらせればいい。


 嫌われたと知る前に。

 迷惑だと口にされる前に。


 距離を取るのは、昔から得意だった。





◆◆◆◆◆





 午後からは、席替え前のやり方に戻した。


 授業を真面目に聞き、休み時間になれば、聞こえてくる声に合わせてちょうどいい返事を選ぶ。


 狩谷君から届く、もっと話したいという気持ちには、会話が広がりすぎない程度の笑顔を返した。


 氷室君がこちらを見た気がした時は、千佳ちゃんへ話しかける。

 席を立つのが見えた時は、先に教室を出る。


 冷たい言葉を使わなくても、話しかける隙を作らなければいい。


 嫌いになったわけではない。

 ただ、知りたくないだけだ。


 その二つは似ていないのに、外から見れば、たぶん同じ形をしている。


 翌日も、同じように過ごした。


 二日目の朝、階段の下で鉢合わせた。


 上から降りてくる足音に気づいた時には、もう避けられない距離だった。


「おはよう」


 自分から言った。


 いつもの高さ、いつもの角度。

 立ち止まらずに、そのまま横を通り過ぎる。


「……蓮見さん」


 背中に声がかかる。


 振り返らなかった。

 聞こえなかったことにできる程度の声量だと、勝手に判断した。


 教室へ入って席に着くまで、心臓が速いままだった。


 三日目には、それが新しい習慣のようになった。


 うまくいっている。


 氷室君は隆君たちと話すか、机に突っ伏して眠っている。

 私は千佳ちゃんたちに囲まれ、聞こえてくる声に合わせて笑う。


 紙のやり取りはない。


 何を書くか迷うことも、相手の返事を待つこともない。


 そう思うたび、鞄の底へ押し込んだ書きかけの紙が、少しだけ重くなった。


『氷室君は、私といて――』


 続きを書くことは、もうない。


 夜、棚の奥の空き缶だけは、まだ開けられなかった。





◆◆◆◆◆





 席替えから三日目の放課後。


 帰りのホームルームが終わる頃には、頭の奥が脈を打っていた。


 部活。寄り道。テストの点。週末の予定。


 教室中の声が、帰宅前の高揚と一緒に膨らんでいる。


≪早く出ないと部室埋まる≫

≪駅前のケーキまだ残ってるかな≫

≪蓮見さん、いつも帰るの早いな≫


 どれも短い声だった。

 短い声がいくつも重なると、輪郭のない塊になる。


 教科書を鞄へ入れる。

 角を揃え、筆箱を重ね、その上へノートを載せる。


 普段なら二度確かめるファスナーも、今日は一度で閉めた。


 声をかけられる前に教室を出る。

 それで今日も、何事もなく終わらせられるはずだった。


 立ち上がった時、窓際で椅子が床をこする音がした。


 大きな音だった。


 見ないまま、教室を出る。


(……お願い。これ以上、期待させないで)


 廊下を曲がる直前、背後から名前を呼ばれた。


「蓮見さん」


 足を速める。


 聞こえなかったふりをした。


 振り返れば、終わらせられなくなる。

 それだけは、はっきりわかっていた。


「蓮見さん」


 二度目は、さっきより近かった。


 足が止まる。


 上履きの底が、廊下の床を小さく擦った。


 それは、勝手に入り込んでくる心の声ではない。


 追いかけて、私へ届くように発せられた、氷室君自身の声だった。


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