上手な終わらせ方 -透-
新しい席は、悪くなかった。
廊下側の、右から二列目。前から三番目。
窓からは遠いけれど、先生の声はよく聞こえるし、黒板も見やすい。
ただ、教室の中央に近いぶん、流れ込んでくる声は前より増えた。
≪腹減った≫
≪狩谷君、こっち見ないかな≫
≪蓮見さんの髪、何使ったらあんなにまとまるんだろ≫
どれも小さな声だった。
小さいから消えるわけではない。
前後と、左右。
四方から、細い雨のように降り続いている。
窓際の席には、片側に逃げ場があった。
逃げ込める静けさは、もう隣にはない。
「やったね、透ちゃん。席、近くなれた」
「うん。よかった」
前の席には千佳ちゃんが座っている。
席が決まった時からずっと機嫌がよかったけれど、その理由が私だけではないことを知っていた。
千佳ちゃんの視線が、ときどき斜め後ろへ流れる。
私の隣には、狩谷君が座っていた。
「よろしくね、蓮見さん」
「うん。よろしく、狩谷君」
≪狩谷君も近いし、今回かなり当たりかも≫
≪蓮見さんの隣とか、運いいな≫
同じ場所から、別々の方向を向いた声が聞こえる。
どちらも悪意ではない。
ただ、二人の間で絡まりかけた感情が、少しだけ重かった。
「蓮見さん、次の授業、移動だよね。一緒に行く?」
狩谷君が、ノートを閉じながらこちらを見る。
≪今度こそ距離縮めたいな≫
「ありがとう。千佳ちゃんも一緒でいい?」
二人きりにならず、断ったようにも聞こえない答えを選ぶ。
「もちろん」
「やった、じゃあ行こー」
≪まぁ、話も広がりやすいしいいか≫
≪狩谷君、なんで私から誘ってくれないんだろ≫
同じ笑顔の下で、二つの声が別々の方を向いていた。
誰も嘘はついていない。
誰も悪くない。
ただ、全部が聞こえる場所に戻ってきただけだった。
三人で廊下を歩く。
狩谷君は歩きながらよく喋る人で、千佳ちゃんはそれに明るく合わせる。
私は、二人の会話が途切れそうになる場所だけ、言葉を足した。
「蓮見さんって、休みの日何してるの?」
「本を読んでるかな」
「へえ、意外。もっと出かける人だと思ってた」
≪また本の話か。俺、読まないんだよな≫
≪透ちゃん、そういえば図書室にいるの見たことある≫
声に出された言葉と、出されなかった言葉が、半歩ずれて届く。
どちらにも合わせられる返事を選んで、私は笑った。
特別教室へ着くまでの、たった二分。
それだけで、こめかみの奥が重くなった。
◆◆◆◆◆
一時間目が終わると、窓際へ目を向けた。
氷室君は眠っていた。
二時間目のあとも見る。
今度は起きていて、机の中から筆箱を探していた。
三時間目のあとは、もう見ないと決めた。
決めてから二分も経たないうちに、また窓際を探していた。
目が合うわけでもない。
話しかけるつもりもない。
それなのに、離れたぶんだけ、以前より何度も見てしまう。
(……近くにいた時は、こんなに見ていなかったのに)
四時間目が終わったあと、教科書を机へしまうふりをして、もう一度だけ窓際を見た。
指が止まる。
隣の女の子が、氷室君の方へ身体を傾けていた。
氷室君は少しだけ顔を上げ、短く何かを返す。
その子が笑った。
肩を揺らし、口元を手で押さえても収まらないというように。
教室のざわめきに混じって、その笑い声だけが、やけにはっきり届いた。
何を言ったのだろう。
私にはわからない。
≪氷室君、ちょっと面白いかも≫
届いたのは、その子の声だけだった。
氷室君が困っている人へ手を貸すことも、相手によって言葉を変えないことも知っている。
それが私だけに向けられたものではないことくらい、最初からわかっていた。
それでも、胸の内側に細い傷がついたような気がした。
氷室君の言葉で、あんなふうに笑うのは私だけではない。
ただ、それだけのことなのに。
シャーペンが指から滑り、机の上を転がって床へ落ちた。
「透ちゃん?」
千佳ちゃんに呼ばれるまで、拾うことができなかった。
「……ごめん。なんでもないよ」
屈んでシャーペンを拾う。
指先が冷たくなっていた。
顔を上げた時には、もう窓際を見なかった。
余白がなくなるまで書いた、あの日の紙を思い出す。
あれは氷室君にとっては、なんでもない紙一枚の質問だったのかもしれない。
紙が来たから返した。
隣だったから話した。
聞こえない静けさに、勝手な意味をつけていただけかもしれない。
心の読めない人を相手にしてまで、私はまた、先に答えを決めようとしている。
なら、確かめる前に終わらせればいい。
嫌われたと知る前に。
迷惑だと口にされる前に。
距離を取るのは、昔から得意だった。
◆◆◆◆◆
午後からは、席替え前のやり方に戻した。
授業を真面目に聞き、休み時間になれば、聞こえてくる声に合わせてちょうどいい返事を選ぶ。
狩谷君から届く、もっと話したいという気持ちには、会話が広がりすぎない程度の笑顔を返した。
氷室君がこちらを見た気がした時は、千佳ちゃんへ話しかける。
席を立つのが見えた時は、先に教室を出る。
冷たい言葉を使わなくても、話しかける隙を作らなければいい。
嫌いになったわけではない。
ただ、知りたくないだけだ。
その二つは似ていないのに、外から見れば、たぶん同じ形をしている。
翌日も、同じように過ごした。
二日目の朝、階段の下で鉢合わせた。
上から降りてくる足音に気づいた時には、もう避けられない距離だった。
「おはよう」
自分から言った。
いつもの高さ、いつもの角度。
立ち止まらずに、そのまま横を通り過ぎる。
「……蓮見さん」
背中に声がかかる。
振り返らなかった。
聞こえなかったことにできる程度の声量だと、勝手に判断した。
教室へ入って席に着くまで、心臓が速いままだった。
三日目には、それが新しい習慣のようになった。
うまくいっている。
氷室君は隆君たちと話すか、机に突っ伏して眠っている。
私は千佳ちゃんたちに囲まれ、聞こえてくる声に合わせて笑う。
紙のやり取りはない。
何を書くか迷うことも、相手の返事を待つこともない。
そう思うたび、鞄の底へ押し込んだ書きかけの紙が、少しだけ重くなった。
『氷室君は、私といて――』
続きを書くことは、もうない。
夜、棚の奥の空き缶だけは、まだ開けられなかった。
◆◆◆◆◆
席替えから三日目の放課後。
帰りのホームルームが終わる頃には、頭の奥が脈を打っていた。
部活。寄り道。テストの点。週末の予定。
教室中の声が、帰宅前の高揚と一緒に膨らんでいる。
≪早く出ないと部室埋まる≫
≪駅前のケーキまだ残ってるかな≫
≪蓮見さん、いつも帰るの早いな≫
どれも短い声だった。
短い声がいくつも重なると、輪郭のない塊になる。
教科書を鞄へ入れる。
角を揃え、筆箱を重ね、その上へノートを載せる。
普段なら二度確かめるファスナーも、今日は一度で閉めた。
声をかけられる前に教室を出る。
それで今日も、何事もなく終わらせられるはずだった。
立ち上がった時、窓際で椅子が床をこする音がした。
大きな音だった。
見ないまま、教室を出る。
(……お願い。これ以上、期待させないで)
廊下を曲がる直前、背後から名前を呼ばれた。
「蓮見さん」
足を速める。
聞こえなかったふりをした。
振り返れば、終わらせられなくなる。
それだけは、はっきりわかっていた。
「蓮見さん」
二度目は、さっきより近かった。
足が止まる。
上履きの底が、廊下の床を小さく擦った。
それは、勝手に入り込んでくる心の声ではない。
追いかけて、私へ届くように発せられた、氷室君自身の声だった。




