紙のない数日 -誠-
席替えが決まったあの朝から、紙の往復が少しずつ減った。
まったく来なくなったわけではない。
『数学、どこが出そう?』
『私に聞かれても困るよ』
『蓮見さん、いつもほぼ満点って聞いたから』
『ちゃんと、自分で勉強しなきゃだめだよ』
会話は、そこで止まった。
いつもなら、もう何往復か続く。
昨日は何時に寝たとか。
テストが終わったら何をするとか。
声に出して話すほどでもないことが、紙の余白を少しずつ埋めていく。
けれど、その日は余白が残ったままだった。
次の日は、一度だけ。
その次の日には、とうとう一枚も来なかった。
テスト前なのだから、当たり前だと思う。
蓮見さんは授業を真面目に受けるし、俺と違って直前まで寝ていられる人間ではない。
そう納得したのに、ときどき左から視線を感じた。
ページをめくるとき。
教師が黒板へ向き直ったとき。
俺が欠伸を噛み殺したとき。
顔を向けると、蓮見さんはもう前を見ている。
しばらくすると、また視線が来る。
紙は来ない。
声もかけられない。
ただ、見られている。
席替えを知らされた日の朝、なんだか元気がなさそうに見えて、何かあったのかと聞いた。
蓮見さんは、何もないと言った。
笑い方も、声の高さも、いつも通りだった。
いつも通りすぎた、とも思う。
あれは、教室の入口で大勢に向けているものと同じ笑い方だった。
だから、それ以上は聞かなかった。
踏み込み過ぎるのも違うと、その時は思った。
「誠、お前テスト勉強してるのか」
昼休み、隆が数学のプリントを丸めて俺の頭を叩いた。
「授業中に寝てる分、家でやってる」
「嘘つけ。目の隈が徹夜ゲーの色だぞ」
「健介はどうなんだ」
「あいつは昨日から死んでる」
見れば、健介は机に突っ伏して動かない。
いつもなら、ここで一緒に笑って終わる話だった。
(……あの笑い方、前もどこかで見たな)
考えても、答えが出るわけでもない。
以前なら、わからないことは脇へ置いて眠れた。
今回は、目を閉じても残った。
◆◆◆◆◆
中間テスト前、最後の通常授業は現代文だった。
「それじゃあ、教科書の八十二ページを開けて」
教室のあちこちで、紙をめくる音が重なる。
俺も机の中へ手を入れたところで、隣から少し大きめの声がした。
「あ。……ごめん。私、教科書忘れちゃったみたい」
周りの何人かがこちらを見る。
蓮見さんは困ったように眉を下げ、鞄の中を探すふりをしていた。
――嘘だ。
開いた鞄の口から、同じ表紙の角が見えている。
「氷室君。……見せてもらってもいい?」
声が、わずかに上ずっていた。
机の下では、指がスカートの布を握っている。
隠すことが下手な人ではない。
蓮見さんは教室で、いつも綺麗に何かを隠している。
なのに今日は、ずいぶん下手だった。
指摘すれば、たぶんやめてしまう。
「ああ」
理由は聞かなかった。
蓮見さんが机をこちらへ寄せる。
脚が床を擦り、二つの机の間にあった隙間が消えた。
肩が触れそうな距離。
それまで何度もこちらを見ていたのに、近づいてからは一度も顔を上げなかった。
髪の間から見える耳が、少しだけ赤い。
横に並ぶと、顔が見えない。
いつもなら視線を流すだけで、表情の端くらいは拾えた。
今は、髪と肩と、シャーペンを持つ手しか見えない。
近づいたのに、見えるものは減っている。
妙な話だと思った。
やがて、教科書の端から小さな紙が滑ってきた。
『先生、今日のネクタイおしゃれだよね』
声を出せば済む距離だった。
それでも、蓮見さんは紙に書いた。
だから、俺も書いた。
『色が多すぎて目に刺さる』
蓮見さんが口元へ手を当てた。
笑ったらしい。
毎日笑顔を見ているはずなのに、ずいぶん久しぶりに見た気がした。
『今日は寝ないんだ』
『教科書によだれ垂らすと悪いからな』
『私が一人で使ってもいいよ』
『どこのジャイアンだよ』
また、肩が揺れる。
以前なら、そのまま余白がなくなるまで続いた。
けれど、蓮見さんのペン先は途中で止まった。
しばらく同じ場所に置かれたあと、ゆっくりと文字が増えていく。
『テストが終わったら、席替えだね』
『そうだな』
それ以外に、何を書けばいいのかわからなかった。
紙を戻す。
蓮見さんは返事を見つめたまま、何も書かなかった。
指先が、紙の端を一度だけなぞる。
「……嫌だね」
今度は、声だった。
教科書の上へ落ちて、そのまま消えてしまいそうなほど小さな声。
何を嫌だと言ったのか、全部はわからない。
席替えが、なのか。
この時間が終わることが、なのか。
ただ、俺も、今の席が終わることを嬉しいとは思わなかった。
「……そうだな」
同じくらい小さな声で返す。
ペンを持っていた蓮見さんの指から、少しだけ力が抜けた。
それきり、紙は動かなかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
蓮見さんは、すぐには机を離さなかった。
俺も、動かさなかった。
教師が教室を出ていくまで、二つの机は隙間なく並んだままだった。
◆◆◆◆◆
翌朝。
テストのため、机はいつもより広い間隔で並べられていた。
昨日は触れ合っていた左隣の机が、紙を滑らせるには遠いところにある。
もっとも、テスト中に紙を回せば、別の意味で大問題になる。
「始め」
教師の声と同時に、教室が静まり返る。
聞こえるのは、問題用紙をめくる音と、シャーペンが紙を擦る音だけ。
隣に誰がいても、テスト中は静かなはずだった。
それなのに、その静けさは、いつものものとは少し違っていた。
中間テストは、始まってしまえば早かった。
問題を解く。
答え合わせをする。
健介が悲鳴をあげて、隆が茶々を入れる。
蓮見さんとは、毎朝挨拶をした。
でも、それ以上の会話は特になかった。
休みのたびに他の誰かが周りにいたからというのもある。
けれど、それだけで片付けるには、なんだか違和感が残った。
◆◆◆◆◆
最後の試験が終わった。
終了の合図と同時に、教室のあちこちから息が漏れる。
「終わった……いろんな意味で終わった」
健介が机へ倒れ込み、隆がその背中を叩いた。
「誠、ゲーム解禁だぞ」
「まぁ、してたけど」
「お前、授業中寝てるくせになんで余裕なんだよ」
「その分、暇なときは先行投資してるからな」
二人の声を聞きながら、左を見る。
蓮見さんは、城ケ崎さん達と話しながら筆箱を鞄へしまっていた。
目は合わなかった。
「じゃあ、予告通り席替えするぞ。くじ引け、くじ」
担任が箱を教卓へ置くと、教室がもう一度沸いた。
一人が引くたびに、黒板へ名前と席が書き込まれていく。
「うわ、最前列。終わった」
「窓際きた!」
「代わって。頼むから代わって」
黒板が埋まるほど、残りの席が絞られていく。
やがて、蓮見さんの番が来た。
席を立ち、教卓へ向かう。
箱へ手を入れるまでが、ほんの少しだけ長かった。
引いたのは、廊下側の前から三番目。
チョークが置かれた瞬間、教室のあちこちから声が上がる。
「蓮見さんの隣、まだ空いてるじゃん」
「マジか。頼む、来い」
その席は、狩谷という男子で埋まった。
次に、俺の名前が呼ばれる。
立ち上がると、蓮見さんがこちらを見上げていた。
視線がぶつかる。
何かを言うより先に、蓮見さんは目を伏せた。
教卓へ向かい、箱に手を入れる。
紙は、どれも同じ手触りをしていた。
どれを引いても同じはずだった。
それなのに、一枚を選ぶまで、いつもより少し時間がかかった。
ようやく一枚引いて、開く。
窓際、最後尾。
春に、蓮見さんが引いた席だった。
◆◆◆◆◆
放課後、机を運ぶ。
新しい席に鞄を置き、椅子を引いた。
右隣の女子が、こちらへ軽く会釈する。
俺も頭を下げた。
それだけのことだった。
左を見る。
そこには、窓がある。
ガラスの向こうで、グラウンドの白線が夕日に光っていた。
これまで、左には蓮見さんがいた。
今は、ガラスと、その向こうのグラウンドしかない。
悪い席ではない。
窓際の最後尾。
むしろ、当たりの部類だと思う。
文句を言う理由は、どこにもなかった。
教室の反対側では、蓮見さんが新しい机の中を整理している。
隣になった狩谷が、何かを話しかけた。
蓮見さんは顔を上げ、綺麗に整った笑顔を返す。
紙を読んで笑っていたときとは、少し違う笑顔だった。
そのあと、こちらを見る。
もう一度、目が合った。
いつもの小さな声では届かない。
紙も、机の端を滑らせるだけでは届かない。
蓮見さんは、そのままゆっくりと顔を逸らした。
遠い。
でも、同じ教室なら、声をかけにいけないわけではない。
休み時間は毎日ある。
廊下ですれ違うこともある。
何も、なくなってはいない。
――なのに。
左側が、やけに広く感じた。
三十センチか、四十センチか。
たったそれだけの幅が、今日までは埋まっていた。
埋まっていたものの名前を、俺はまだ知らなかった。




