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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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6/14

紙のない数日 -誠-

 席替えが決まったあの朝から、紙の往復が少しずつ減った。


 まったく来なくなったわけではない。


『数学、どこが出そう?』

『私に聞かれても困るよ』

『蓮見さん、いつもほぼ満点って聞いたから』

『ちゃんと、自分で勉強しなきゃだめだよ』


 会話は、そこで止まった。


 いつもなら、もう何往復か続く。


 昨日は何時に寝たとか。

 テストが終わったら何をするとか。


 声に出して話すほどでもないことが、紙の余白を少しずつ埋めていく。


 けれど、その日は余白が残ったままだった。


 次の日は、一度だけ。

 その次の日には、とうとう一枚も来なかった。


 テスト前なのだから、当たり前だと思う。


 蓮見さんは授業を真面目に受けるし、俺と違って直前まで寝ていられる人間ではない。


 そう納得したのに、ときどき左から視線を感じた。


 ページをめくるとき。

 教師が黒板へ向き直ったとき。

 俺が欠伸を噛み殺したとき。


 顔を向けると、蓮見さんはもう前を見ている。

 しばらくすると、また視線が来る。


 紙は来ない。

 声もかけられない。

 ただ、見られている。


 席替えを知らされた日の朝、なんだか元気がなさそうに見えて、何かあったのかと聞いた。


 蓮見さんは、何もないと言った。


 笑い方も、声の高さも、いつも通りだった。


 いつも通りすぎた、とも思う。


 あれは、教室の入口で大勢に向けているものと同じ笑い方だった。


 だから、それ以上は聞かなかった。

 踏み込み過ぎるのも違うと、その時は思った。


「誠、お前テスト勉強してるのか」


 昼休み、隆が数学のプリントを丸めて俺の頭を叩いた。


「授業中に寝てる分、家でやってる」

「嘘つけ。目の隈が徹夜ゲーの色だぞ」

「健介はどうなんだ」

「あいつは昨日から死んでる」


 見れば、健介は机に突っ伏して動かない。


 いつもなら、ここで一緒に笑って終わる話だった。


(……あの笑い方、前もどこかで見たな)


 考えても、答えが出るわけでもない。


 以前なら、わからないことは脇へ置いて眠れた。

 今回は、目を閉じても残った。





◆◆◆◆◆





 中間テスト前、最後の通常授業は現代文だった。


「それじゃあ、教科書の八十二ページを開けて」


 教室のあちこちで、紙をめくる音が重なる。


 俺も机の中へ手を入れたところで、隣から少し大きめの声がした。


「あ。……ごめん。私、教科書忘れちゃったみたい」


 周りの何人かがこちらを見る。


 蓮見さんは困ったように眉を下げ、鞄の中を探すふりをしていた。


 ――嘘だ。


 開いた鞄の口から、同じ表紙の角が見えている。


「氷室君。……見せてもらってもいい?」


 声が、わずかに上ずっていた。

 机の下では、指がスカートの布を握っている。


 隠すことが下手な人ではない。


 蓮見さんは教室で、いつも綺麗に何かを隠している。

 なのに今日は、ずいぶん下手だった。


 指摘すれば、たぶんやめてしまう。


「ああ」


 理由は聞かなかった。


 蓮見さんが机をこちらへ寄せる。

 脚が床を擦り、二つの机の間にあった隙間が消えた。


 肩が触れそうな距離。


 それまで何度もこちらを見ていたのに、近づいてからは一度も顔を上げなかった。

 髪の間から見える耳が、少しだけ赤い。


 横に並ぶと、顔が見えない。


 いつもなら視線を流すだけで、表情の端くらいは拾えた。

 今は、髪と肩と、シャーペンを持つ手しか見えない。


 近づいたのに、見えるものは減っている。


 妙な話だと思った。


 やがて、教科書の端から小さな紙が滑ってきた。


『先生、今日のネクタイおしゃれだよね』


 声を出せば済む距離だった。

 それでも、蓮見さんは紙に書いた。


 だから、俺も書いた。


『色が多すぎて目に刺さる』


 蓮見さんが口元へ手を当てた。

 笑ったらしい。


 毎日笑顔を見ているはずなのに、ずいぶん久しぶりに見た気がした。


『今日は寝ないんだ』

『教科書によだれ垂らすと悪いからな』

『私が一人で使ってもいいよ』

『どこのジャイアンだよ』


 また、肩が揺れる。


 以前なら、そのまま余白がなくなるまで続いた。


 けれど、蓮見さんのペン先は途中で止まった。


 しばらく同じ場所に置かれたあと、ゆっくりと文字が増えていく。


『テストが終わったら、席替えだね』


『そうだな』


 それ以外に、何を書けばいいのかわからなかった。


 紙を戻す。


 蓮見さんは返事を見つめたまま、何も書かなかった。


 指先が、紙の端を一度だけなぞる。


「……嫌だね」


 今度は、声だった。


 教科書の上へ落ちて、そのまま消えてしまいそうなほど小さな声。


 何を嫌だと言ったのか、全部はわからない。


 席替えが、なのか。

 この時間が終わることが、なのか。


 ただ、俺も、今の席が終わることを嬉しいとは思わなかった。


「……そうだな」


 同じくらい小さな声で返す。


 ペンを持っていた蓮見さんの指から、少しだけ力が抜けた。


 それきり、紙は動かなかった。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。


 蓮見さんは、すぐには机を離さなかった。

 俺も、動かさなかった。


 教師が教室を出ていくまで、二つの机は隙間なく並んだままだった。





◆◆◆◆◆





 翌朝。


 テストのため、机はいつもより広い間隔で並べられていた。


 昨日は触れ合っていた左隣の机が、紙を滑らせるには遠いところにある。


 もっとも、テスト中に紙を回せば、別の意味で大問題になる。


「始め」


 教師の声と同時に、教室が静まり返る。


 聞こえるのは、問題用紙をめくる音と、シャーペンが紙を擦る音だけ。


 隣に誰がいても、テスト中は静かなはずだった。


 それなのに、その静けさは、いつものものとは少し違っていた。


 中間テストは、始まってしまえば早かった。


 問題を解く。

 答え合わせをする。

 健介が悲鳴をあげて、隆が茶々を入れる。


 蓮見さんとは、毎朝挨拶をした。

 でも、それ以上の会話は特になかった。


 休みのたびに他の誰かが周りにいたからというのもある。


 けれど、それだけで片付けるには、なんだか違和感が残った。





◆◆◆◆◆





 最後の試験が終わった。


 終了の合図と同時に、教室のあちこちから息が漏れる。


「終わった……いろんな意味で終わった」


 健介が机へ倒れ込み、隆がその背中を叩いた。


「誠、ゲーム解禁だぞ」

「まぁ、してたけど」

「お前、授業中寝てるくせになんで余裕なんだよ」

「その分、暇なときは先行投資してるからな」


 二人の声を聞きながら、左を見る。


 蓮見さんは、城ケ崎さん達と話しながら筆箱を鞄へしまっていた。


 目は合わなかった。


「じゃあ、予告通り席替えするぞ。くじ引け、くじ」


 担任が箱を教卓へ置くと、教室がもう一度沸いた。


 一人が引くたびに、黒板へ名前と席が書き込まれていく。


「うわ、最前列。終わった」

「窓際きた!」

「代わって。頼むから代わって」


 黒板が埋まるほど、残りの席が絞られていく。


 やがて、蓮見さんの番が来た。


 席を立ち、教卓へ向かう。

 箱へ手を入れるまでが、ほんの少しだけ長かった。


 引いたのは、廊下側の前から三番目。


 チョークが置かれた瞬間、教室のあちこちから声が上がる。


「蓮見さんの隣、まだ空いてるじゃん」

「マジか。頼む、来い」


 その席は、狩谷という男子で埋まった。


 次に、俺の名前が呼ばれる。


 立ち上がると、蓮見さんがこちらを見上げていた。


 視線がぶつかる。

 何かを言うより先に、蓮見さんは目を伏せた。


 教卓へ向かい、箱に手を入れる。


 紙は、どれも同じ手触りをしていた。


 どれを引いても同じはずだった。

 それなのに、一枚を選ぶまで、いつもより少し時間がかかった。


 ようやく一枚引いて、開く。


 窓際、最後尾。


 春に、蓮見さんが引いた席だった。





◆◆◆◆◆





 放課後、机を運ぶ。


 新しい席に鞄を置き、椅子を引いた。


 右隣の女子が、こちらへ軽く会釈する。

 俺も頭を下げた。


 それだけのことだった。


 左を見る。


 そこには、窓がある。


 ガラスの向こうで、グラウンドの白線が夕日に光っていた。


 これまで、左には蓮見さんがいた。

 今は、ガラスと、その向こうのグラウンドしかない。


 悪い席ではない。


 窓際の最後尾。

 むしろ、当たりの部類だと思う。


 文句を言う理由は、どこにもなかった。


 教室の反対側では、蓮見さんが新しい机の中を整理している。

 隣になった狩谷が、何かを話しかけた。


 蓮見さんは顔を上げ、綺麗に整った笑顔を返す。


 紙を読んで笑っていたときとは、少し違う笑顔だった。


 そのあと、こちらを見る。


 もう一度、目が合った。


 いつもの小さな声では届かない。

 紙も、机の端を滑らせるだけでは届かない。


 蓮見さんは、そのままゆっくりと顔を逸らした。


 遠い。


 でも、同じ教室なら、声をかけにいけないわけではない。


 休み時間は毎日ある。

 廊下ですれ違うこともある。


 何も、なくなってはいない。


 ――なのに。


 左側が、やけに広く感じた。


 三十センチか、四十センチか。

 たったそれだけの幅が、今日までは埋まっていた。


 埋まっていたものの名前を、俺はまだ知らなかった。


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