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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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5/14

終わる日ができた -透-

 昼休み、頼まれて集めたノートを職員室へ運んだ。


 クラス全員分の束は、前運んだ箱ほど重くはない。

 角を揃えて胸で支えれば、一人でも運べる程度の重さだった。


「蓮見か。いつも悪いな」

「……いえ」


 いつの間にか、私の役目になっていた。


 頻繁ではないから。

 これくらいなら、誰も困らないから。


 そうやって、これまで一度も断らずに引き受けてきた。


≪蓮見なら忘れないから助かる≫


 悪意はない。

 先生は本当に助かると思っている。


 職員室は、教室より声が近い。


≪あのクラス、また揉めたのか≫

≪三限までに印刷、間に合うかな≫

≪早く帰りたい≫


 大人の声は、生徒のものより少しだけ低い位置から流れ込んでくる。


 紙とインクの匂い。

 プリンターの回る音。


 長くいると、こめかみの奥が鈍く痛み出す場所だった。


 いつものように、口元が弧を描きかける。


『無理なら、断ってもいいんじゃないか』


 あの日の声が浮かんで、その動きが止まった。


「どうかしたか?」

「……」


 唾を飲み込む。

 視線が、つま先へ落ちる。


 断るための言葉を、この一週間で何度も並べた。


 次からは他の人に。

 ちょうど用事があって。

 少しだけ、難しくて。


 どれも、口の中では形になっていた。


 声にすれば、たった十秒の話だ。


 それでも、言い終えたあとの空気を想像すると、喉が閉じた。


「あの、次からは――」


≪中間テストが終わった日の帰りに、席替えするか≫


 不意に聞こえた声が、その続きを遮った。


「……蓮見?」


 顔を上げる。


 先生は、私の返事を待っていた。

 声に出していないことまで聞こえたとは、もちろん知らない。


「ほんとにどうした?」

「……なんでも、ないです」


 結局、それだけを言うのが精いっぱいだった。


 職員室を出る。


 教室までの廊下は、いつもと同じ長さだった。

 それなのに、戻るのが少しだけ怖かった。


 扉を開ける。


 氷室君は、右隣の机に突っ伏していた。

 腕に埋めた背中が、寝息に合わせてゆっくり上下している。


 何も変わっていない。


 さっきまでと同じように、騒がしい教室の中で、右隣だけが静かだった。


 ただ、その静けさに、終わる日ができた。





◆◆◆◆◆





 放課後、駅へ向かう大通りを途中で外れた。


 住宅の間の細い道を何度か曲がると、古い石の鳥居が見えてくる。


 額に刻まれた文字は薄れ、石段の端から雑草が伸びていた。

 その向こうに、小さな社と、屋根のついた休憩所がある。


 社務所らしい建物の雨戸は、いつ来ても閉じている。


 長椅子の端に座って、鞄を膝へ置く。


 人がいない。

 だから、声もない。


 聞こえるのは、葉の擦れる音と、遠くの車の音だけだった。


 地元を離れてこの町に住み始めてから、逃げ場所を探して見つけた。

 頭が重くなった日はいつもここへ寄るようになった。


 一人で座って、一人で帰る。

 そのための場所だった。


 目を閉じる。


 席が離れたら、紙は書かない。

 自分から話しかけることもしない。


 ここで考えれば、それがいちばん正しい答えのように思えた。


 誰の声も混ざらない場所で出した結論は、いつも静かで、いつも少し冷たい。





◆◆◆◆◆





 シャワーを浴びる。

 簡単なものを作る。

 一人で食べる。


 いつもと同じ順番をなぞり終えると、部屋には冷蔵庫の低い音だけが残った。


 明日の教科書を鞄へ入れようとして、手が止まる。


 机の隅に、紙の山が積まれていた。


 授業中、氷室君とやり取りした紙。


『明日は槍が降るな』

『とりあえず、今はこれで』

『それとこれとは関係ないからな』


 なんとなく捨てられずに、ずっと取っておいたものだった。


 どれも、読み返すほどの内容ではない。


 それなのに、一枚めくるたびに、その時の教室の温度まで戻ってくる。


 席が離れれば、紙は届かなくなる。


 目を覚ます前に動く指先も、離れた席からは見えない。

 「ゲ」の濁点が離れることも、もう確かめられない。


 隣だから始まったものなら、隣でなくなれば終わる。


 私は、それを繋ぎ留めない。

 氷室君だって、きっと同じだ。


 それがいちばん自然だった。


「……元に戻るだけ」


 声にすると、簡単なことのように聞こえた。


 席が離れたら、紙は書かない。

 自分から話しかけることもしない。

 見かけたら挨拶を交わすだけの、ただのクラスメイトに戻ればいい。


 これまでだって、そうしてきた。


 誰かを嫌いになる前に。

 誰かに嫌われていたと知る前に。


 自分から距離を取れば、聞かなくていいものを聞かずに済む。

 その方が、誰も傷つかない。


 机の引き出しから袋を出し、紙を一枚ずつ中へ入れていく。


 明日の朝、ゴミに出してしまおう。

 そう決めて、玄関まで持っていった。


 あとは、手を離すだけだった。


「…………」


 袋を持つ指に、力が入る。


 捨てる理由なら、いくらでもあった。

 残しておく理由は、一つも思いつかなかった。


 それでも、手を離すことはできなかった。


 来た道を引き返し、棚の奥から空き缶を取り出す。


 昔、クッキーが入っていた缶だ。

 蓋を開けると、乾いた金属の匂いがした。


 袋から紙を戻して、缶の中へ一枚ずつ重ねる。


 最後に蓋を閉め、明日のゴミから遠ざけるように、棚の奥へ押し込んだ。


 元に戻ると決めたはずなのに。


 元に戻る前のものを、私は捨てられなかった。


 机へ戻り、新しい紙を一枚破る。


 シャーペンを置いて、書いた。


『氷室君は、私といて――』


 そこで、手が止まる。


 楽しい?

 迷惑ではない?

 席が離れても、話したいと思う?


 どれも違う気がして、どれも同じことを聞いているような気もした。


 それに、どの続きを選んでも、欲しい答えを相手に強いる形になる。


 答えを知ったところで、どうするのだろう。


 紙を二つに折り、もう一度折って、鞄の奥、いちばん底へ押し込んだ。


 これでいい。

 まだ、今なら戻れる。





◆◆◆◆◆





 翌朝。


 教室へ入ると、氷室君はすでに席に着いていた。


 珍しく眠ってはいない。

 机に頬杖をつきながら、スマートフォンの画面を眺めている。


「おはよう」

「……おはよう」


 返事をするまで、ほんの少し間が空いた。


 氷室君はスマートフォンをしまうと、こちらを見る。


「何かあった?」

「……え?」

「なんか、そんな気がして」


 気づかれるとは思わなかった。


 心が読めなくても、見ていればわかることがある。


 昨日までなら、少し嬉しかったはずなのに。


「……ううん。何も」

「そっか」


 それきり、氷室君は何も聞いてこなかった。

 こちらの言葉を疑わず、視線を元に戻す。


 ほっとした。


 そのはずなのに、胸の奥には、別の何かが小さく残った。


 やがてチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。


 出席簿を教卓へ置き、騒がしい教室を見渡す。


「そうだ。中間テストが終わった日の帰り、席替えするぞ」


 一瞬遅れて、教室がわっと沸いた。


≪今度こそ窓際がいい≫

≪また前だったら最悪≫

≪誰の隣になるんだろ≫


 期待や不安が、一斉に流れ込んでくる。


 知っていた。

 昨日、先生の心から聞いてしまったから。


 一日早く知っていたところで、何も変わらなかった。

 準備する時間が一日分あっただけだ。


「透ちゃん、次はどこかなー。今度は近くだといいね」


 前の方から、千佳ちゃんが振り返って手を振る。


「……そうだね」


 声の高さだけは、間違えずに返せた。


 それでも、右隣を見る。


 氷室君は頬杖をついたまま、騒ぐ教室を眺めていた。


 いつもと変わらない横顔だった。

 やがて、その視線がゆっくりこちらへ向く。


 目が合う。


 私は、何でもないように笑った。


 氷室君が席替えをどう思ったのか。

 今の笑顔を見て、何を感じたのか。


 その心は、今日も聞こえない。


 鞄の底には、書きかけの問いが残っている。


『氷室君は、私といて――』


 続きを書けないまま、隣でいられる最後の日だけが決まった。


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