終わる日ができた -透-
昼休み、頼まれて集めたノートを職員室へ運んだ。
クラス全員分の束は、前運んだ箱ほど重くはない。
角を揃えて胸で支えれば、一人でも運べる程度の重さだった。
「蓮見か。いつも悪いな」
「……いえ」
いつの間にか、私の役目になっていた。
頻繁ではないから。
これくらいなら、誰も困らないから。
そうやって、これまで一度も断らずに引き受けてきた。
≪蓮見なら忘れないから助かる≫
悪意はない。
先生は本当に助かると思っている。
職員室は、教室より声が近い。
≪あのクラス、また揉めたのか≫
≪三限までに印刷、間に合うかな≫
≪早く帰りたい≫
大人の声は、生徒のものより少しだけ低い位置から流れ込んでくる。
紙とインクの匂い。
プリンターの回る音。
長くいると、こめかみの奥が鈍く痛み出す場所だった。
いつものように、口元が弧を描きかける。
『無理なら、断ってもいいんじゃないか』
あの日の声が浮かんで、その動きが止まった。
「どうかしたか?」
「……」
唾を飲み込む。
視線が、つま先へ落ちる。
断るための言葉を、この一週間で何度も並べた。
次からは他の人に。
ちょうど用事があって。
少しだけ、難しくて。
どれも、口の中では形になっていた。
声にすれば、たった十秒の話だ。
それでも、言い終えたあとの空気を想像すると、喉が閉じた。
「あの、次からは――」
≪中間テストが終わった日の帰りに、席替えするか≫
不意に聞こえた声が、その続きを遮った。
「……蓮見?」
顔を上げる。
先生は、私の返事を待っていた。
声に出していないことまで聞こえたとは、もちろん知らない。
「ほんとにどうした?」
「……なんでも、ないです」
結局、それだけを言うのが精いっぱいだった。
職員室を出る。
教室までの廊下は、いつもと同じ長さだった。
それなのに、戻るのが少しだけ怖かった。
扉を開ける。
氷室君は、右隣の机に突っ伏していた。
腕に埋めた背中が、寝息に合わせてゆっくり上下している。
何も変わっていない。
さっきまでと同じように、騒がしい教室の中で、右隣だけが静かだった。
ただ、その静けさに、終わる日ができた。
◆◆◆◆◆
放課後、駅へ向かう大通りを途中で外れた。
住宅の間の細い道を何度か曲がると、古い石の鳥居が見えてくる。
額に刻まれた文字は薄れ、石段の端から雑草が伸びていた。
その向こうに、小さな社と、屋根のついた休憩所がある。
社務所らしい建物の雨戸は、いつ来ても閉じている。
長椅子の端に座って、鞄を膝へ置く。
人がいない。
だから、声もない。
聞こえるのは、葉の擦れる音と、遠くの車の音だけだった。
地元を離れてこの町に住み始めてから、逃げ場所を探して見つけた。
頭が重くなった日はいつもここへ寄るようになった。
一人で座って、一人で帰る。
そのための場所だった。
目を閉じる。
席が離れたら、紙は書かない。
自分から話しかけることもしない。
ここで考えれば、それがいちばん正しい答えのように思えた。
誰の声も混ざらない場所で出した結論は、いつも静かで、いつも少し冷たい。
◆◆◆◆◆
シャワーを浴びる。
簡単なものを作る。
一人で食べる。
いつもと同じ順番をなぞり終えると、部屋には冷蔵庫の低い音だけが残った。
明日の教科書を鞄へ入れようとして、手が止まる。
机の隅に、紙の山が積まれていた。
授業中、氷室君とやり取りした紙。
『明日は槍が降るな』
『とりあえず、今はこれで』
『それとこれとは関係ないからな』
なんとなく捨てられずに、ずっと取っておいたものだった。
どれも、読み返すほどの内容ではない。
それなのに、一枚めくるたびに、その時の教室の温度まで戻ってくる。
席が離れれば、紙は届かなくなる。
目を覚ます前に動く指先も、離れた席からは見えない。
「ゲ」の濁点が離れることも、もう確かめられない。
隣だから始まったものなら、隣でなくなれば終わる。
私は、それを繋ぎ留めない。
氷室君だって、きっと同じだ。
それがいちばん自然だった。
「……元に戻るだけ」
声にすると、簡単なことのように聞こえた。
席が離れたら、紙は書かない。
自分から話しかけることもしない。
見かけたら挨拶を交わすだけの、ただのクラスメイトに戻ればいい。
これまでだって、そうしてきた。
誰かを嫌いになる前に。
誰かに嫌われていたと知る前に。
自分から距離を取れば、聞かなくていいものを聞かずに済む。
その方が、誰も傷つかない。
机の引き出しから袋を出し、紙を一枚ずつ中へ入れていく。
明日の朝、ゴミに出してしまおう。
そう決めて、玄関まで持っていった。
あとは、手を離すだけだった。
「…………」
袋を持つ指に、力が入る。
捨てる理由なら、いくらでもあった。
残しておく理由は、一つも思いつかなかった。
それでも、手を離すことはできなかった。
来た道を引き返し、棚の奥から空き缶を取り出す。
昔、クッキーが入っていた缶だ。
蓋を開けると、乾いた金属の匂いがした。
袋から紙を戻して、缶の中へ一枚ずつ重ねる。
最後に蓋を閉め、明日のゴミから遠ざけるように、棚の奥へ押し込んだ。
元に戻ると決めたはずなのに。
元に戻る前のものを、私は捨てられなかった。
机へ戻り、新しい紙を一枚破る。
シャーペンを置いて、書いた。
『氷室君は、私といて――』
そこで、手が止まる。
楽しい?
迷惑ではない?
席が離れても、話したいと思う?
どれも違う気がして、どれも同じことを聞いているような気もした。
それに、どの続きを選んでも、欲しい答えを相手に強いる形になる。
答えを知ったところで、どうするのだろう。
紙を二つに折り、もう一度折って、鞄の奥、いちばん底へ押し込んだ。
これでいい。
まだ、今なら戻れる。
◆◆◆◆◆
翌朝。
教室へ入ると、氷室君はすでに席に着いていた。
珍しく眠ってはいない。
机に頬杖をつきながら、スマートフォンの画面を眺めている。
「おはよう」
「……おはよう」
返事をするまで、ほんの少し間が空いた。
氷室君はスマートフォンをしまうと、こちらを見る。
「何かあった?」
「……え?」
「なんか、そんな気がして」
気づかれるとは思わなかった。
心が読めなくても、見ていればわかることがある。
昨日までなら、少し嬉しかったはずなのに。
「……ううん。何も」
「そっか」
それきり、氷室君は何も聞いてこなかった。
こちらの言葉を疑わず、視線を元に戻す。
ほっとした。
そのはずなのに、胸の奥には、別の何かが小さく残った。
やがてチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
出席簿を教卓へ置き、騒がしい教室を見渡す。
「そうだ。中間テストが終わった日の帰り、席替えするぞ」
一瞬遅れて、教室がわっと沸いた。
≪今度こそ窓際がいい≫
≪また前だったら最悪≫
≪誰の隣になるんだろ≫
期待や不安が、一斉に流れ込んでくる。
知っていた。
昨日、先生の心から聞いてしまったから。
一日早く知っていたところで、何も変わらなかった。
準備する時間が一日分あっただけだ。
「透ちゃん、次はどこかなー。今度は近くだといいね」
前の方から、千佳ちゃんが振り返って手を振る。
「……そうだね」
声の高さだけは、間違えずに返せた。
それでも、右隣を見る。
氷室君は頬杖をついたまま、騒ぐ教室を眺めていた。
いつもと変わらない横顔だった。
やがて、その視線がゆっくりこちらへ向く。
目が合う。
私は、何でもないように笑った。
氷室君が席替えをどう思ったのか。
今の笑顔を見て、何を感じたのか。
その心は、今日も聞こえない。
鞄の底には、書きかけの問いが残っている。
『氷室君は、私といて――』
続きを書けないまま、隣でいられる最後の日だけが決まった。




