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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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4/14

広く、浅く -透-


(…………あ)


 離れていく背中を見て、胸の内側がわずかに空いた。

 呼び止めようとして開いた口は、名前を持たないまま閉じた。


 氷室君は振り返らなかった。


 力の抜けた背中が廊下へ消えた途端、さっきまで静かだった場所に、教室の音が戻ってくる。


≪今の、何?≫

≪蓮見さん、氷室とあんな感じで話すんだ≫

≪声出して笑ってたよな。珍し≫


 声が、細い糸のようにあちこちから伸びてくる。


 悪意と呼ぶほどのものではない。

 ただの好奇心。ただの驚き。


 それでも、私には全部届いてしまう。


「透ちゃん。さっきの見たよ。氷室君と仲いいんだね」


 いつの間にか寄ってきていた千佳ちゃんの声に、机の上の手を膝へ戻す。


 背筋を伸ばし、口元をいつもの高さまで持ち上げた。


「……そういうわけでもないよ。隣の席だから、ちょっと話しただけ」

「そうなの? でも、普通に話せるのすごいよ。ほんと誰とでも仲いいよね」


 悪気のない声だった。

 だからこそ、胸の奥が薄く痛んだ。


 誰とでも仲がいいわけじゃない。

 誰とも深くならないようにしているだけだ。


 一年以上同じ教室にいる千佳ちゃんにも、本当のことは何ひとつ話していない。


「そんなことないよ。私、広く浅く、ってだけだから」

「えー、それができるのがすごいんだって。私なんか、すぐ顔に出ちゃうもん」


 千佳ちゃんは明るく笑った。


 広く、浅く。


 口にした自分の言葉だけが、遅れて胸の奥へ落ちてくる。


「それよりさ、昨日の九時のドラマ見た? 見たよね!?」

「……うん。面白かったよね」

「だよねだよねっ! どこらへんがエモかった?」


 千佳ちゃんは、私の言葉の重さには気づかないまま、次の話題へ飛び移った。


 頭の中から、言葉の欠片を拾う。


 暗い部屋。

 窓の外の雨。

 振り向く主人公。

 画面の青い光。


 差し出された気持ちに、ちょうどいい形の返事を作る。


「……最後の、雨のシーンとかすごくよかったよね」

「わかるー。さすが、透ちゃんっ!」


 本当は、見ていない。


 見ていないのに、正解だけはわかる。


 相手の心から借りた答えに、私の言葉のような顔をさせる。

 それだけは、ずいぶん上手くなってしまった。


「へえ、蓮見さんってそういうの見るんだ。なんか意外かも」


 千佳ちゃんの隣にいた狩谷君が、会話へ入ってくる。


 私は笑顔の温度を一段下げた。


 冷たくしすぎない。

 でも、近づかせすぎない。


「狩谷君はわかってないなー。透ちゃん、実はめちゃくちゃテレビっ子だから」

「そうなんだ。他にはどんなの見るの?」

「……どうだろう。その時によるかな」


≪話してくれんじゃん。もう少し粘れば連絡先いけるかも≫


 狩谷君の声は軽い。

 軽いまま、少しずつ距離を詰めてくる。


「今度、みんなでカラオケとか行こうよ」

「いいねっ! 楽しそう!」

「……うん。予定が合えばね」


 断らず、約束もしない。

 相手の気分を損ねないための、便利な言葉だった。


 狩谷君が私を見るたび、千佳ちゃんの爪が机の端を叩いた。


 こつ、こつ、と。


 明るい声と、その小さな音だけが噛み合っていない。


 誰も悪くない。

 悪くないまま、空気だけが少しずつ絡まっていく。


 机の中へ下ろした指先が、溶けかけたチロルチョコの包みに触れた。


 捨てずにしまった、小さな包み。


 視線が、隣の空いた席へ流れる。


 机の端に転がったシャーペン。

 少しずれた椅子。

 さっきまでそこにいた人の、力の抜けた背中。


「蓮見さん、聞いてる?」

「……ごめん。うん、聞いてる」


 黒板の上の時計を見る。

 長く感じたわりに、針はほんのわずかしか進んでいなかった。





◆◆◆◆◆





 チャイムが鳴る直前、氷室君が席へ戻ってきた。


 右隣の椅子が引かれた瞬間、絡まっていた声が、少しだけ遠のいた。


「どうかした?」


 氷室君が、机から教科書を出しながらこちらを見る。


「…………別に」


 思ったより尖った声が出て、自分で驚いた。


 氷室君はわずかに眉を動かした。

 でも、理由を聞いてこなかった。


 不機嫌になるわけでも、妙に気を遣うわけでもない。

 机の端に転がっていたシャーペンを、指で元の位置へ戻しただけだった。


「ふぁあ……」


 小さく欠伸をして、氷室君が机に突っ伏す。


 黒板へ戻すはずの視線が、また隣へ流れた。

 腕に顔を埋めた背中が、ゆっくり上下している。


 ノートの端を指でつまむ。

 離して、またつまむ。


 少しだけ迷ってから、そこを小さく破った。

 シャーペンの先を置く。


『気持ちよく眠れた?』


 折った紙を、眠る彼の机にそっと滑らせる。


 返事があるかは、わからない。

 取り戻そうと思えば、まだ間に合った。


 それでも、私はその紙から手を離した。


 私から始めた会話が、机の上に残った。





◆◆◆◆◆





 あの一枚から、紙は机の端を行き来するようになった。


 毎時間ではない。

 それでも、ほとんど毎日。


 声に出すほどではないこと。

 聞かれて困るほどではないけれど、誰にでも渡したいわけでもないこと。


 そういう曖昧なものを、紙はちょうどよく運んでくれた。


『今日、起きてるね』

『明日は槍が降るな』

『それ、自分で言うことじゃないよね』

『言論の自由』


 紙の上の文字は、声より少し遅れて届く。


 氷室君が考えて、言葉を選び、書き終えるまで、私は何も知ることができない。

 わからないまま、待つしかない。


 それがもどかしくて、けれど同時に、楽だった。


 きなこ味がいい、なんて、あの時は冗談のつもりだった。


 でも何日か後、朝の教室へ入ると、机の端に小袋が置かれていた。


 きなこをまぶしたチョコ。

 コンビニの値札の跡が、袋の裏に薄く残っている。


 右隣の席は、空いていた。

 包みの下には、小さな紙が挟まっている。


『とりあえず、今はこれで』


 たぶん、チロルチョコより高い。

 他のは無理と、そう言っていたのに。


「……別に、よかったのに」


 指で触ると、ビニール袋がくしゃりと微かに音を立てた。


 覚えていてくれたことが、嬉しかった。


 その分だけ距離が近づいた気がして、ほんの少し怖くもなった。


 迷った末に、短い返事だけ書いて机へ置いた。


『合格。今のところは』


 しばらくして戻ってきた氷室君は、紙を読んで、それから私を見た。


「おはよう」


 ほんの少しだけ、口元が上がっていた。


「……おはよう」


 あの時、何を考えていたのかは、やっぱりわからない。


 でも、私の返事を嫌がってはいない。

 今は、それくらいならわかるようになった。





◆◆◆◆◆





 ある日の三時間目。


 授業が始まってしばらくすると、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 やがて、その寝息が少しだけ浅くなる。


 机の上に投げ出された指先が、かすかに動いた。

 まぶたを開く前に、一度だけ眉間へ力が入る。


 もうすぐ、目を覚ます。


 心を読んだわけではない。

 何度も見て、それを覚えたからわかるだけだ。


 心を読めれば、もっと早くわかることはたくさんある。


 何を嫌がっているのか。

 何を望んでいるのか。

 私が、どうすることが正解なのか。


 でも、氷室君の心だけは読めない。

 だから、見るしかない。


 表情を。

 声の温度を。

 言葉のあとに残る、短い沈黙を。


 そうして知ったことは、盗んだ答えではない。

 ちゃんと見て、ときどき間違えて、それでも少しずつ覚えてきたものだ。


 面倒なはずのそれは、不思議と嫌ではなかった。


 やがて、氷室君の頭がのっそりと持ち上がった。


 口元を手の甲で拭い、ぼんやりと前を見る。

 それから、ようやく私に気づいた。


 私は、今日も小さく折った紙を机の端へ置く。


『昨日、帰った後は何してたの?』


 何ということもない質問だった。


『ゲーム。そっちは?』


 彼の字には癖がある。


 「ゲ」の濁点が妙に離れていて、急いで書いた時ほど、それが目立つ。

 見慣れたせいで、紙を開く前から、何が書かれているか想像できそうだった。


『読書』


 代わり映えのしない毎日を過ごして、何ということもない答えを交換する。


 飽きてしまいそうな日常が、むしろ心地よかった。


 返ってきた紙を開く。

 書き足された一文を見て、指先が止まった。


『どんなの読んでるの?』


 眠い。

 ゲーム。

 腹が減った。


 だいたい、氷室君の返事はそのあたりで収まってしまう。


 だから、続いたその一文は、本当に小さなものなのに、思っていたより深く落ちた。


『最近はミステリが多いかな』

『面白い?』

『面白いよ。おすすめ、貸そうか?』


 一歩、踏み込んだ返答。


 シャーペンの尻を文字の上まで持っていく。

 それでも消さず、そのまま渡した。


 紙が戻ってくるまでの時間が、いつもより長く感じられた。


『やめておく。たぶん読まないから』


 息が、一度止まった。


 読みもしない本を、読んでみるとは言わない。

 興味があるふりもしない。

 私に合わせて、無理に近づこうともしない。


 距離は変わらない。

 踏み込まれない。

 だから、傷つくこともない。


 そのはずなのに、紙を持つ指の先が冷たくなっていた。


 返す言葉を探して、見つからないまま、紙の余白を見る。


 ちょうどそこに、まだ何か書かれていることに気づいた。


 一度折り目をつけた下の、少し詰まった位置。


『でも、どこがそんなに好きなのかは知りたい』


 その一行を、二度読んだ。


 貸してほしいとは書かれていない。

 読むとも、書かれていない。


 断ったまま、それでも残されていたのは、私への質問だけだった。


 シャーペンを持ち直す。


 犯人が誰かより、仕掛けの鮮やかさより、最後まで誰かを信じようとする人が出てくるところが好きなこと。

 雪で閉ざされた屋敷に集められた人たちが、一人ずつ減っていくのに、それでも朝が来ると誰かが誰かに紅茶を淹れること。


 書き始めると、止まらなかった。


 行が下がる。

 字が小さくなる。

 いつもより右上がりになっていく。


 気づいた時には、余白がなくなっていた。


(……こんなに書いて、どうするんだろう)


 それでも消さずに、紙を折って渡す。


 氷室君は紙を開き、目だけを動かしてしばらく読んでいた。


 それから、何も書かずに顔を上げた。


「へえ」


 それだけだった。


 感想でも、同意でもない。

 読んだ、という報告だけ。


 なのに、胸の奥が温かくなる。


 借りた答えではない言葉で、私は私の好きなものを話した。


 こんなにたくさん話したのは、いつ以来だろう。

 思い出せないほど、ずっと昔だった。


 黒板へ視線を戻す。

 ノートには、授業の板書が半分しか写っていない。


 ……今度は、私から聞いてみよう。


 氷室君が、何を好きなのか。


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