広く、浅く -透-
(…………あ)
離れていく背中を見て、胸の内側がわずかに空いた。
呼び止めようとして開いた口は、名前を持たないまま閉じた。
氷室君は振り返らなかった。
力の抜けた背中が廊下へ消えた途端、さっきまで静かだった場所に、教室の音が戻ってくる。
≪今の、何?≫
≪蓮見さん、氷室とあんな感じで話すんだ≫
≪声出して笑ってたよな。珍し≫
声が、細い糸のようにあちこちから伸びてくる。
悪意と呼ぶほどのものではない。
ただの好奇心。ただの驚き。
それでも、私には全部届いてしまう。
「透ちゃん。さっきの見たよ。氷室君と仲いいんだね」
いつの間にか寄ってきていた千佳ちゃんの声に、机の上の手を膝へ戻す。
背筋を伸ばし、口元をいつもの高さまで持ち上げた。
「……そういうわけでもないよ。隣の席だから、ちょっと話しただけ」
「そうなの? でも、普通に話せるのすごいよ。ほんと誰とでも仲いいよね」
悪気のない声だった。
だからこそ、胸の奥が薄く痛んだ。
誰とでも仲がいいわけじゃない。
誰とも深くならないようにしているだけだ。
一年以上同じ教室にいる千佳ちゃんにも、本当のことは何ひとつ話していない。
「そんなことないよ。私、広く浅く、ってだけだから」
「えー、それができるのがすごいんだって。私なんか、すぐ顔に出ちゃうもん」
千佳ちゃんは明るく笑った。
広く、浅く。
口にした自分の言葉だけが、遅れて胸の奥へ落ちてくる。
「それよりさ、昨日の九時のドラマ見た? 見たよね!?」
「……うん。面白かったよね」
「だよねだよねっ! どこらへんがエモかった?」
千佳ちゃんは、私の言葉の重さには気づかないまま、次の話題へ飛び移った。
頭の中から、言葉の欠片を拾う。
暗い部屋。
窓の外の雨。
振り向く主人公。
画面の青い光。
差し出された気持ちに、ちょうどいい形の返事を作る。
「……最後の、雨のシーンとかすごくよかったよね」
「わかるー。さすが、透ちゃんっ!」
本当は、見ていない。
見ていないのに、正解だけはわかる。
相手の心から借りた答えに、私の言葉のような顔をさせる。
それだけは、ずいぶん上手くなってしまった。
「へえ、蓮見さんってそういうの見るんだ。なんか意外かも」
千佳ちゃんの隣にいた狩谷君が、会話へ入ってくる。
私は笑顔の温度を一段下げた。
冷たくしすぎない。
でも、近づかせすぎない。
「狩谷君はわかってないなー。透ちゃん、実はめちゃくちゃテレビっ子だから」
「そうなんだ。他にはどんなの見るの?」
「……どうだろう。その時によるかな」
≪話してくれんじゃん。もう少し粘れば連絡先いけるかも≫
狩谷君の声は軽い。
軽いまま、少しずつ距離を詰めてくる。
「今度、みんなでカラオケとか行こうよ」
「いいねっ! 楽しそう!」
「……うん。予定が合えばね」
断らず、約束もしない。
相手の気分を損ねないための、便利な言葉だった。
狩谷君が私を見るたび、千佳ちゃんの爪が机の端を叩いた。
こつ、こつ、と。
明るい声と、その小さな音だけが噛み合っていない。
誰も悪くない。
悪くないまま、空気だけが少しずつ絡まっていく。
机の中へ下ろした指先が、溶けかけたチロルチョコの包みに触れた。
捨てずにしまった、小さな包み。
視線が、隣の空いた席へ流れる。
机の端に転がったシャーペン。
少しずれた椅子。
さっきまでそこにいた人の、力の抜けた背中。
「蓮見さん、聞いてる?」
「……ごめん。うん、聞いてる」
黒板の上の時計を見る。
長く感じたわりに、針はほんのわずかしか進んでいなかった。
◆◆◆◆◆
チャイムが鳴る直前、氷室君が席へ戻ってきた。
右隣の椅子が引かれた瞬間、絡まっていた声が、少しだけ遠のいた。
「どうかした?」
氷室君が、机から教科書を出しながらこちらを見る。
「…………別に」
思ったより尖った声が出て、自分で驚いた。
氷室君はわずかに眉を動かした。
でも、理由を聞いてこなかった。
不機嫌になるわけでも、妙に気を遣うわけでもない。
机の端に転がっていたシャーペンを、指で元の位置へ戻しただけだった。
「ふぁあ……」
小さく欠伸をして、氷室君が机に突っ伏す。
黒板へ戻すはずの視線が、また隣へ流れた。
腕に顔を埋めた背中が、ゆっくり上下している。
ノートの端を指でつまむ。
離して、またつまむ。
少しだけ迷ってから、そこを小さく破った。
シャーペンの先を置く。
『気持ちよく眠れた?』
折った紙を、眠る彼の机にそっと滑らせる。
返事があるかは、わからない。
取り戻そうと思えば、まだ間に合った。
それでも、私はその紙から手を離した。
私から始めた会話が、机の上に残った。
◆◆◆◆◆
あの一枚から、紙は机の端を行き来するようになった。
毎時間ではない。
それでも、ほとんど毎日。
声に出すほどではないこと。
聞かれて困るほどではないけれど、誰にでも渡したいわけでもないこと。
そういう曖昧なものを、紙はちょうどよく運んでくれた。
『今日、起きてるね』
『明日は槍が降るな』
『それ、自分で言うことじゃないよね』
『言論の自由』
紙の上の文字は、声より少し遅れて届く。
氷室君が考えて、言葉を選び、書き終えるまで、私は何も知ることができない。
わからないまま、待つしかない。
それがもどかしくて、けれど同時に、楽だった。
きなこ味がいい、なんて、あの時は冗談のつもりだった。
でも何日か後、朝の教室へ入ると、机の端に小袋が置かれていた。
きなこをまぶしたチョコ。
コンビニの値札の跡が、袋の裏に薄く残っている。
右隣の席は、空いていた。
包みの下には、小さな紙が挟まっている。
『とりあえず、今はこれで』
たぶん、チロルチョコより高い。
他のは無理と、そう言っていたのに。
「……別に、よかったのに」
指で触ると、ビニール袋がくしゃりと微かに音を立てた。
覚えていてくれたことが、嬉しかった。
その分だけ距離が近づいた気がして、ほんの少し怖くもなった。
迷った末に、短い返事だけ書いて机へ置いた。
『合格。今のところは』
しばらくして戻ってきた氷室君は、紙を読んで、それから私を見た。
「おはよう」
ほんの少しだけ、口元が上がっていた。
「……おはよう」
あの時、何を考えていたのかは、やっぱりわからない。
でも、私の返事を嫌がってはいない。
今は、それくらいならわかるようになった。
◆◆◆◆◆
ある日の三時間目。
授業が始まってしばらくすると、隣から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
やがて、その寝息が少しだけ浅くなる。
机の上に投げ出された指先が、かすかに動いた。
まぶたを開く前に、一度だけ眉間へ力が入る。
もうすぐ、目を覚ます。
心を読んだわけではない。
何度も見て、それを覚えたからわかるだけだ。
心を読めれば、もっと早くわかることはたくさんある。
何を嫌がっているのか。
何を望んでいるのか。
私が、どうすることが正解なのか。
でも、氷室君の心だけは読めない。
だから、見るしかない。
表情を。
声の温度を。
言葉のあとに残る、短い沈黙を。
そうして知ったことは、盗んだ答えではない。
ちゃんと見て、ときどき間違えて、それでも少しずつ覚えてきたものだ。
面倒なはずのそれは、不思議と嫌ではなかった。
やがて、氷室君の頭がのっそりと持ち上がった。
口元を手の甲で拭い、ぼんやりと前を見る。
それから、ようやく私に気づいた。
私は、今日も小さく折った紙を机の端へ置く。
『昨日、帰った後は何してたの?』
何ということもない質問だった。
『ゲーム。そっちは?』
彼の字には癖がある。
「ゲ」の濁点が妙に離れていて、急いで書いた時ほど、それが目立つ。
見慣れたせいで、紙を開く前から、何が書かれているか想像できそうだった。
『読書』
代わり映えのしない毎日を過ごして、何ということもない答えを交換する。
飽きてしまいそうな日常が、むしろ心地よかった。
返ってきた紙を開く。
書き足された一文を見て、指先が止まった。
『どんなの読んでるの?』
眠い。
ゲーム。
腹が減った。
だいたい、氷室君の返事はそのあたりで収まってしまう。
だから、続いたその一文は、本当に小さなものなのに、思っていたより深く落ちた。
『最近はミステリが多いかな』
『面白い?』
『面白いよ。おすすめ、貸そうか?』
一歩、踏み込んだ返答。
シャーペンの尻を文字の上まで持っていく。
それでも消さず、そのまま渡した。
紙が戻ってくるまでの時間が、いつもより長く感じられた。
『やめておく。たぶん読まないから』
息が、一度止まった。
読みもしない本を、読んでみるとは言わない。
興味があるふりもしない。
私に合わせて、無理に近づこうともしない。
距離は変わらない。
踏み込まれない。
だから、傷つくこともない。
そのはずなのに、紙を持つ指の先が冷たくなっていた。
返す言葉を探して、見つからないまま、紙の余白を見る。
ちょうどそこに、まだ何か書かれていることに気づいた。
一度折り目をつけた下の、少し詰まった位置。
『でも、どこがそんなに好きなのかは知りたい』
その一行を、二度読んだ。
貸してほしいとは書かれていない。
読むとも、書かれていない。
断ったまま、それでも残されていたのは、私への質問だけだった。
シャーペンを持ち直す。
犯人が誰かより、仕掛けの鮮やかさより、最後まで誰かを信じようとする人が出てくるところが好きなこと。
雪で閉ざされた屋敷に集められた人たちが、一人ずつ減っていくのに、それでも朝が来ると誰かが誰かに紅茶を淹れること。
書き始めると、止まらなかった。
行が下がる。
字が小さくなる。
いつもより右上がりになっていく。
気づいた時には、余白がなくなっていた。
(……こんなに書いて、どうするんだろう)
それでも消さずに、紙を折って渡す。
氷室君は紙を開き、目だけを動かしてしばらく読んでいた。
それから、何も書かずに顔を上げた。
「へえ」
それだけだった。
感想でも、同意でもない。
読んだ、という報告だけ。
なのに、胸の奥が温かくなる。
借りた答えではない言葉で、私は私の好きなものを話した。
こんなにたくさん話したのは、いつ以来だろう。
思い出せないほど、ずっと昔だった。
黒板へ視線を戻す。
ノートには、授業の板書が半分しか写っていない。
……今度は、私から聞いてみよう。
氷室君が、何を好きなのか。




