隣になった彼女 -誠-
「お前、ほんと最高の席だよな。運のステータス極振りかよ」
「まぁ、寝やすい席ではあるな」
「違うわっ! 蓮見さんの隣がってことだ」
月曜の朝。
席に着くなり、隆と健介が絡んできた。
席替え直後にも聞いたようなからかいは、週末をゲームで綺麗に溶かした身にいささか重い。
重力に負けるように机へ突っ伏す。
「くー、俺ならこの機会、絶対無駄にしないのに」
「何を無駄にしないんだよ」
「そりゃお前、青春をだな」
「今で十分楽しいだろ」
健介が本気で悔しそうに机を叩き、隆はその横で肩を揺らした。
「で、蓮見さんには興味ないのか?」
「興味以前に、よく知らない」
「その割には、金曜日に一緒に歩いてたらしいじゃないか」
隆が言った途端、健介の顔が跳ね上がった。
「は? なにそれ?」
騒ぎ出そうとしたその口を、隆が無理やりふさぐ。
意味ありげな表情が、どうしてかこちらに向けられていた。
「そういえば、そうだったな」
「なんだ、隠し事か?」
「いや、今思い出した。荷物運ぶの手伝っただけだし」
「……お前なぁ」
隆が大げさにため息をつく。
健介は「この裏切り者」と言って、睨んでくる。
別に、大したことではない。
金曜、重そうな箱を抱えてふらつく子がいたから声をかけ、半分持った。
それだけだ。
ただ、一つだけ引っかかったことがある。
押しつけられたらしい荷物を、蓮見さんは自分のことのように謝っていた。
だから帰り際、無理なら断ってもいい、と言った。
どう受け取ったのかは、よくわからなかった。
「で? なんか話したのか?」
「……別に」
「別にって……少しくらいはあるだろ」
「荷物の置き場所は聞いた」
「そういうことじゃない」
二人はまだ何か言っていた。
俺は適当に相槌を打ちながら、机に頬杖をつく。
そのうち、廊下のざわめきが教室の入口に近づいてきた。
蓮見さんが来たのだと、すぐにわかった。
待ち構える女子。偶然を装う男子。なぜか混じっている他クラスの連中。
その中心を、蓮見さんが歩いてくる。
女子に話しかけられれば足を少し緩める。
男子には歩幅を変えずに返す。
近づきすぎた相手の前では、鞄を持つ手が体の前へ戻る。
それでも、笑顔の形は崩れないし、歩く速度もほとんど変わらない。
まるで、誰がどう動くのかわかっているみたいに。
器用だな、と思う。
たぶん、器用にならないと通れない場所なのだろうとも思う。
(毎朝あれなら、俺は教室に入る前に帰りたくなるな)
蓮見さんは最後に小さく会釈して人だかりを抜けると、いつもの席へ鞄を置いた。
隆と健介は、いつの間にかいなくなっていた。
「おはよう、蓮見さん」
今日のノルマもこれで終了。
そう思い、もう一度机に伏せようとする。
けれど、返事はすぐに返ってこなかった。
「…………」
真正面から視線が刺さる。
どこか真剣な雰囲気に、目を逸らすことができなかった。
「……どうかした?」
蓮見さんは俺の顔を見ていた。
いや、顔というより、もう少し違うところを見ている気がした。
一呼吸置いて、蓮見さんがまぶたを伏せる。
それから、息を逃がすみたいに口元をゆるめた。
「おはよう、氷室君。あの、金曜日はありがとう」
金曜の荷物運び。
隆たちに言われるまで忘れかけていたことを、律儀に持ってきたらしい。
「気にしないでくれ。別に大したことじゃない」
蓮見さんは自分の席に鞄を置いた。
けれど、すぐには教科書を出さなかった。
机の横に立ったまま、鞄の持ち手からゆっくり指を離す。
「……それでもだよ。私が、ちゃんとお礼を言いたかっただけだから」
そう言ってから、蓮見さんはようやく椅子に座った。
両手を膝の上に戻し、指を重ね直す。
「それなら、どういたしまして。また手伝えることがあったら言ってくれ」
「……いいの?」
重なっていた指が、わずかに動いた。
「まぁ、暇な時なら」
「……暇なら、なんだ」
「そりゃ、当然だろ。俺たち、そこまで仲良くないし」
なんでもない言葉だった。
俺だって、いつでも何でも手伝うわけじゃない。
家族や友達との時間は大事だし、新作ゲームの発売日だったら少し悩む。
寝たい日なら、たぶん寝る。
そのくらいの、普通の返事だった。
「っ──あははっ。うんっ! 普通はそうだよね」
蓮見さんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、膝の上に置いていた手を口元へ持っていく。
指の隙間から、こらえ損ねた声が漏れた。
周りの何人かが、驚いたようにこちらを見る。
蓮見さんはその視線に気づくと、すぐに背筋を伸ばした。
口元を押さえたまま、何度か小さく瞬きをする。
さっきまで緩んでいた頬が、いつもの位置へ戻ろうとしていた。
戻ろうとして、少しだけ失敗している。
「蓮見さんって、変わってるよな」
「ふふっ、氷室君もね」
そう返されて、俺は咄嗟に反論できなかった。
◆◆◆◆◆
チャイムが鳴り、一時間目が始まった。
蓮見さんはもう、いつもの涼しい横顔に戻っている。
俺は俺で、眠るための準備を淡々と整えた。
昨日の夜に削った睡眠時間は、どこかで回収しなければならない。
テストで点を取ってさえいれば、母さんも何も言ってこない。
(要は自己責任ってことだな)
そういうことにして、ゆっくり眠りに沈んでいく。
次に目を開けた時には、授業終了まで十分を切っていた。
ある意味、理想的なタイミングだ。
自分の体内時計の正確さに、思わず小さくガッツポーズを取る。
その瞬間、隣から笑いを堪えるような気配がした。
振り向く。
蓮見さんは黒板を見ているふりをしていた。
けれど、ペン先はノートの同じ場所に止まったままだ。
肩だけが、ほんの少し上下している。
「……見た?」
小声で聞くと、蓮見さんは一度だけ周囲を見渡した。
それから、返事の代わりにノートの切れ端を差し出してきた。
『気持ちよさそうに寝てたね』
几帳面な字だった。
隣の席では、さすがに誤魔化しきれないらしい。
教室で見かける蓮見さんは、授業中に紙を回すような人には見えなかった。
何と答えるか。
少し考えて、やめた。
こういうのは、勢いで返した方がいい。
『次からは料金を取ることにするよ』
紙を返す。
蓮見さんはそれを読んで、口元に手を添えた。
すぐに返事が戻ってくる。
『じゃあ、見るのをやめて先生に言うことにするね』
冗談だとは思う。
思うが、それをされると非常に困る。
蓮見さんが言えば、男性教師は余計に張り切るだろう。
説教のサンドバッグ状態になっても不思議じゃない。
『嘘です。むしろ、ずっと拝んでいてください』
腹を見せた犬と、全力で土下座する棒人間を添える。
線は少ないのに、妙に情けない顔になった。
蓮見さんの肩が、また小刻みに揺れる。
声は出していない。
けれど、口元を隠す指の隙間から、整え損ねた笑みが見えた。
入口で大勢に向けていた笑い方は、口元から始まっていた。
今のは、目尻の方が先に笑っている。
『氷室君って、面白いんだね。失礼かもしれないけど、ちょっと意外だった』
本人が使い分けているのかは、知らない。
聞いたら困らせそうなので、今のところ聞くつもりもなかった。
『気にしなくていい。俺も、蓮見さんはもっと取っ付き難い人だと思ってた』
紙を戻す前に、ちらりと隣を見る。
蓮見さんは、返事を待つ時だけ黒板から視線を外していた。
ペンを持つ手は、ノートの上で静かに止まっている。
やがて、小さくペンが走る音がした。
『それでも、手伝ってくれたんだ』
短い文字だった。
けれど、そこだけ少し丁寧に書かれているように見えた。
何を思って書いたのかは、わからない。
わからないけれど、返事だけは決まっていた。
『それとこれとは、関係ないからな』
困っているように見えたから手伝った。
それ以上でも、それ以下でもない。
誰かに手を貸す理由まで、いちいち気持ちと結びつける必要はないと思う。
紙を戻すと、しばらく戻ってこなかった。
横目で様子を窺う。
蓮見さんは、俺が書いた紙を握ったまま下を向いていた。
紙の端が、彼女の指の中で小さく折れる。
(……そんなに変なこと、書いたか?)
そこでチャイムが鳴った。
蓮見さんは一度だけチャイムの方へ目を向け、それから、まだ白いままの紙を見た。
添えられた指が、その余白を何度もなぞる。
(……告げ口しないでもらえるよう、もう少し仲良くしておいてもいいよな)
自分に言い聞かせるように理由をつけて、俺は伸びをしながら隣へ顔を向けた。
「今後も黙認してもらえると助かる。その謝礼として、このチロルチョコを進呈しよう」
話しかけた瞬間、蓮見さんの肩が小さく跳ねた。
ゆっくりとこちらを向いた顔は、少しだけ険しい。
けれど、口元を結び直すのが一拍遅れていた。
「……これって、ただ自分が開けるのが億劫になっただけじゃないの?」
半ば溶けかけたチョコの感触に気づいたのだろう。
蓮見さんは形の崩れた包みを指先でつまんだ。
それでも、机の上へ置く動作は丁寧だった。
「バレたか。でも、蕩けるチョコってなんか美味しそうに聞こえないか?」
「協力する気、なくなっちゃうなあ」
「わかったわかった。何味のチロルがいいんだ? 今度買ってくるよ」
「じゃあ、きなこ味」
「秋まで探し回らせる気か」
「別に、チロル以外でもいいんだよ?」
「他のは高いから無理」
「あははっ。わかった、それで手を打とうか」
蓮見さんが楽しそうに笑う。
その声に、教室の空気がふっと変わった。
離れた席で、隆が露骨に眉を上げている。
斜め前の男子も、まだこちらを見ていた。
「ありがたき幸せ。じゃあ、俺はトイレにでも行ってくるよ」
このまま座っていると、隆が面倒な顔で寄ってくる。
席を立ち、振り向かないまま廊下へ出た。
背中に、視線を感じた気がした。
けれど、振り返るほどの理由は見つからなかった。
いつもの視線と同じだと思うことにして、俺はそのまま歩き出す。
ただ、教室の音が遠ざかっても、さっきの笑い声だけは、少しの間、耳の奥に残っていた。




