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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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2/14

静かな隣 -透-


 氷室君の静けさは、三日たっても消えなかった。


 朝、教室の扉を開けると、たいていもう机へ突っ伏している。


 声をかければ、眠そうな返事が短く戻ってくる。

 授業が始まれば、先生から見えにくい角度を探して、また伏せる。


 名前を呼ばれて一拍遅れて顔を上げるとき。

 ノートの端に意味のない線を引くとき。

 欠伸を噛み殺して、窓の外へ目を逃がすとき。


 眠そうなのは、見ていればわかった。


 それでいて、小テストの点は悪くないらしい。

 答案を覗き込んだ前の席の子が、信じられないという顔をしていたのを一度だけ見た。


 けれど、心の声は一度も届かなかった。


 教室には、朝の眠気も、宿題への焦りも、友達を見つけた喜びも、いつもどおり流れ込んでいる。


 そのなかで、右隣だけが音の抜けた場所になっていた。


(……今日も、聞こえない)


 確かめた瞬間、怖さより先に、胸のあたりの力が抜けていく。

 それが、いちばん不思議だった。


 もっとも、二人の会話は、「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけだった。


 帰りの「また明日」は、たいてい氷室君の方が先に言う。


 鞄を肩に掛けながら、こちらを見もせずに言って、そのまま教室を出ていく。

 挨拶というより、区切りをつけるための言葉みたいだった。


 隣だからといって、あれこれ尋ねられることもない。

 こちらから話しかける理由も、まだ見つからなかった。





◆◆◆◆◆





 梅雨入り前の、空気の重い金曜日。


 帰りのホームルームが終わったあと、職員室で担任の先生に呼び止められた。


「蓮見、これ会議室まで頼めるか。四階の」


 机の脇に、進路資料の箱が二つ重なっていた。


 先生の机は、いつ見ても紙で埋まっている。


 積まれたプリントの角が揃っていないのを、私は毎回、目で直したくなる。


「蓮見なら安心して任せられるからな」


 先生はそう言って笑った。

 声に出したのは、それだけだった。


≪断らないだろうし、助かるな≫


 その声に、棘はなかった。


 先生はもう次の書類へ目を落としていて、私の返事を待つ姿勢だけが残っている。


 一度だけ口を閉じてから、いつもの高さに声を戻した。


「はい、大丈夫です」


 言い終えるころには、口元だけが先に笑っていた。

 それに合わせるように、先生も軽く頷いた。


 廊下へ出ると、箱の角が腕の内側に沈んだ。


 制服の布ごしでも、段ボールの縁は硬い。


 紙というものは、束になるとどうしてこうも重くなるのだろう。


 上の箱が視界を塞いで、階段では足元が半分しか見えない。

 部活の声が、開いた窓の下から途切れずに響いてくる。


 一段上がるたび、箱が腕の中でわずかに浮いて、落ちる。

 そのたびに、角の当たる場所が少しずつずれた。


 二階、三階、四階。

 踊り場を含めれば、あと何回折り返すのだろう。


 数えてしまってから、数えなければよかったと思う。


 残りを知ってしまうと、腕の方が先に諦める。


 二階の踊り場で息を整えていると、後ろから足音が近づいてきた。


「蓮見さんじゃん。なにその荷物? 手伝おっか?」


 振り返る。


 同じ学年の男の子だった。

 名前は知っている。話したことは、ほとんどない。


≪ラッキー! 仲良くなるチャンスじゃん≫


 箱を持ち直そうとして、袖口が角に引っかかった。

 布が引かれ、肘のあたりに重さが集まる。


 私は袖を戻さず、そのまま笑った。


「もうすぐだから大丈夫。ありがとう」


 声の終わりを、少しだけ明るくする。

 断ったことより、感謝したことの方が残るように。


 男の子は、伸ばしかけた手を途中で下ろした。


「あ、そっか。じゃあ、頑張って」


 そう言って、廊下の角へ向かう。


 その背中が見えなくなるまで、私は口元の形をそのままにしていた。


 頬の内側が、少しだけ強張っている。


≪……氷室、毎日隣でいいよな≫


 細い声が、角を曲がる前に届いた。


 箱が、ずしりと下がる。


 顎で位置を押し上げて、私は階段の方へ足を向けた。





◆◆◆◆◆





 あと少し。もう少し。


 グラウンドの声が、一階分ずつ遠ざかっていく。

 代わりに、上履きが段を擦る音だけが、だんだん大きくなった。


 三階へ上がりきる手前で、腕の内側が痺れた。


 指先の感覚が薄くなって、箱の重さだけが肘へ集まってくる。


 持ち直そうとした拍子に、上の一箱が横へずれる。


「危な」


 横から伸びた手が、落ちかけた箱を下から押し戻した。


 無造作な黒髪。気だるそうな目。


「……氷室君」

「上、持とうか」


 もしかしたらと、反射的に意識を向ける。


 けれど、そこにあるのは、いつもの静けさだけだった。

 水面に耳を当てても、水の音しか返ってこないみたいに。


 さっきの男の子との違いを、先に確かめることはできない。


 わかるのは、彼の目がちらりと箱に落ちたことくらい。

 それだけで、用件は察したらしい。


 だから、私は少し遅れて頷いた。


「……お願いしてもいい?」

「もちろん」


 箱を一つ渡す。


 腕から急に重さが消えて、赤くなった皮膚に廊下の空気が触れた。


 一拍遅れて、血の戻るような痺れが走る。

 肘から手首まで、自分の腕の形をひさしぶりに思い出した。


「どこまで?」

「四階の会議室」

「……誰かに頼まれたのか?」

「まぁ、そんなところ」

「そっか」

 

 それだけ言って、氷室君はもう階段を上り始めている。

 私も一段遅れて、その横へ並んだ。


 廊下では、まだ残っていた生徒の声がすれ違う。


≪あれ、蓮見さん?≫

≪あの二人、仲良かったっけ?≫


 箱の縁にかけた指が、固くなる。

 紙の束が中でかすかに擦れて、ざらりと音を立てた。


 隣を見る。


 氷室君は、誰かの視線を追うこともなく、前を向いて歩いていた。

 

 周りの声に気づいていないのか。

 気づいていて、気にしていないのか。


 聞こえないから、どちらかはわからない。


「重い?」


 だから、思わず聞いていた。


「まあ、軽くはない」

「ごめんね」

「なんで蓮見さんが謝るんだ」


 返事がすぐに来たせいで、用意していた笑い方が一拍遅れた。


 一度、唇を閉じる。

 それから、箱の向こう側で小さく息を吐いた。


「……そうだね」


 それきり、会話はなかった。

 いつの間にか、遅くなっていた歩幅に、氷室君の足音が重なっていた。




◆◆◆◆◆





 会議室の長机に箱を並べると、紙の束が中で低い音を立てた。


 誰もいない部屋は、音がよく響く。

 窓から差す西日が、長机の端を斜めに切っていた。


「じゃあ、これで」


 目的地に荷物を置くと、彼は当然のように帰り支度を始めた。

 余韻なんて、少しも残さないくらいに。


「あ、待って」

「ん?」


 呼び止めてから、気づく。

 言葉が、喉の手前でさまよっていた。


 私は空になった両腕を、意味もなく体の前で組み直す。

 箱を持っていた場所だけが、まだ少し熱い。


「……今日は、ありがとう」


 何かをひねり出そうとして、結局出た言葉はそれだけ。

 氷室君の返事を、先に拾うことはできなかった。

 だから私は、ただ待った。


 長机の上で、箱の中の紙束がかすかに擦れた。


「ん」


 氷室君は短く頷いた。

 そのまま、出口へ歩き出す。


「蓮見さん」


 扉のところで、氷室君が一瞬立ち止まった。

 振り返った彼と視線がぶつかる。


「無理なら、断ってもいいんじゃないか」


 それだけ言って、今度こそ会議室を出ていった。

 扉が閉まりきるまで、私はその場から動けなかった。


 赤くなった腕に、そっと指を当てる。


「大丈夫です」


 いつもの高さで、簡単に出た。

 次に、同じ相手がそこにいるつもりで、口を開く。


「無理、です」


 二文字目で声が止まった。


 窓の外では、まだ部活の声が響いている。


 誰も聞いていない部屋でさえ、私はそれを言えなかった。


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