静かな隣 -透-
氷室君の静けさは、三日たっても消えなかった。
朝、教室の扉を開けると、たいていもう机へ突っ伏している。
声をかければ、眠そうな返事が短く戻ってくる。
授業が始まれば、先生から見えにくい角度を探して、また伏せる。
名前を呼ばれて一拍遅れて顔を上げるとき。
ノートの端に意味のない線を引くとき。
欠伸を噛み殺して、窓の外へ目を逃がすとき。
眠そうなのは、見ていればわかった。
それでいて、小テストの点は悪くないらしい。
答案を覗き込んだ前の席の子が、信じられないという顔をしていたのを一度だけ見た。
けれど、心の声は一度も届かなかった。
教室には、朝の眠気も、宿題への焦りも、友達を見つけた喜びも、いつもどおり流れ込んでいる。
そのなかで、右隣だけが音の抜けた場所になっていた。
(……今日も、聞こえない)
確かめた瞬間、怖さより先に、胸のあたりの力が抜けていく。
それが、いちばん不思議だった。
もっとも、二人の会話は、「おはよう」と「また明日」を繰り返すだけだった。
帰りの「また明日」は、たいてい氷室君の方が先に言う。
鞄を肩に掛けながら、こちらを見もせずに言って、そのまま教室を出ていく。
挨拶というより、区切りをつけるための言葉みたいだった。
隣だからといって、あれこれ尋ねられることもない。
こちらから話しかける理由も、まだ見つからなかった。
◆◆◆◆◆
梅雨入り前の、空気の重い金曜日。
帰りのホームルームが終わったあと、職員室で担任の先生に呼び止められた。
「蓮見、これ会議室まで頼めるか。四階の」
机の脇に、進路資料の箱が二つ重なっていた。
先生の机は、いつ見ても紙で埋まっている。
積まれたプリントの角が揃っていないのを、私は毎回、目で直したくなる。
「蓮見なら安心して任せられるからな」
先生はそう言って笑った。
声に出したのは、それだけだった。
≪断らないだろうし、助かるな≫
その声に、棘はなかった。
先生はもう次の書類へ目を落としていて、私の返事を待つ姿勢だけが残っている。
一度だけ口を閉じてから、いつもの高さに声を戻した。
「はい、大丈夫です」
言い終えるころには、口元だけが先に笑っていた。
それに合わせるように、先生も軽く頷いた。
廊下へ出ると、箱の角が腕の内側に沈んだ。
制服の布ごしでも、段ボールの縁は硬い。
紙というものは、束になるとどうしてこうも重くなるのだろう。
上の箱が視界を塞いで、階段では足元が半分しか見えない。
部活の声が、開いた窓の下から途切れずに響いてくる。
一段上がるたび、箱が腕の中でわずかに浮いて、落ちる。
そのたびに、角の当たる場所が少しずつずれた。
二階、三階、四階。
踊り場を含めれば、あと何回折り返すのだろう。
数えてしまってから、数えなければよかったと思う。
残りを知ってしまうと、腕の方が先に諦める。
二階の踊り場で息を整えていると、後ろから足音が近づいてきた。
「蓮見さんじゃん。なにその荷物? 手伝おっか?」
振り返る。
同じ学年の男の子だった。
名前は知っている。話したことは、ほとんどない。
≪ラッキー! 仲良くなるチャンスじゃん≫
箱を持ち直そうとして、袖口が角に引っかかった。
布が引かれ、肘のあたりに重さが集まる。
私は袖を戻さず、そのまま笑った。
「もうすぐだから大丈夫。ありがとう」
声の終わりを、少しだけ明るくする。
断ったことより、感謝したことの方が残るように。
男の子は、伸ばしかけた手を途中で下ろした。
「あ、そっか。じゃあ、頑張って」
そう言って、廊下の角へ向かう。
その背中が見えなくなるまで、私は口元の形をそのままにしていた。
頬の内側が、少しだけ強張っている。
≪……氷室、毎日隣でいいよな≫
細い声が、角を曲がる前に届いた。
箱が、ずしりと下がる。
顎で位置を押し上げて、私は階段の方へ足を向けた。
◆◆◆◆◆
あと少し。もう少し。
グラウンドの声が、一階分ずつ遠ざかっていく。
代わりに、上履きが段を擦る音だけが、だんだん大きくなった。
三階へ上がりきる手前で、腕の内側が痺れた。
指先の感覚が薄くなって、箱の重さだけが肘へ集まってくる。
持ち直そうとした拍子に、上の一箱が横へずれる。
「危な」
横から伸びた手が、落ちかけた箱を下から押し戻した。
無造作な黒髪。気だるそうな目。
「……氷室君」
「上、持とうか」
もしかしたらと、反射的に意識を向ける。
けれど、そこにあるのは、いつもの静けさだけだった。
水面に耳を当てても、水の音しか返ってこないみたいに。
さっきの男の子との違いを、先に確かめることはできない。
わかるのは、彼の目がちらりと箱に落ちたことくらい。
それだけで、用件は察したらしい。
だから、私は少し遅れて頷いた。
「……お願いしてもいい?」
「もちろん」
箱を一つ渡す。
腕から急に重さが消えて、赤くなった皮膚に廊下の空気が触れた。
一拍遅れて、血の戻るような痺れが走る。
肘から手首まで、自分の腕の形をひさしぶりに思い出した。
「どこまで?」
「四階の会議室」
「……誰かに頼まれたのか?」
「まぁ、そんなところ」
「そっか」
それだけ言って、氷室君はもう階段を上り始めている。
私も一段遅れて、その横へ並んだ。
廊下では、まだ残っていた生徒の声がすれ違う。
≪あれ、蓮見さん?≫
≪あの二人、仲良かったっけ?≫
箱の縁にかけた指が、固くなる。
紙の束が中でかすかに擦れて、ざらりと音を立てた。
隣を見る。
氷室君は、誰かの視線を追うこともなく、前を向いて歩いていた。
周りの声に気づいていないのか。
気づいていて、気にしていないのか。
聞こえないから、どちらかはわからない。
「重い?」
だから、思わず聞いていた。
「まあ、軽くはない」
「ごめんね」
「なんで蓮見さんが謝るんだ」
返事がすぐに来たせいで、用意していた笑い方が一拍遅れた。
一度、唇を閉じる。
それから、箱の向こう側で小さく息を吐いた。
「……そうだね」
それきり、会話はなかった。
いつの間にか、遅くなっていた歩幅に、氷室君の足音が重なっていた。
◆◆◆◆◆
会議室の長机に箱を並べると、紙の束が中で低い音を立てた。
誰もいない部屋は、音がよく響く。
窓から差す西日が、長机の端を斜めに切っていた。
「じゃあ、これで」
目的地に荷物を置くと、彼は当然のように帰り支度を始めた。
余韻なんて、少しも残さないくらいに。
「あ、待って」
「ん?」
呼び止めてから、気づく。
言葉が、喉の手前でさまよっていた。
私は空になった両腕を、意味もなく体の前で組み直す。
箱を持っていた場所だけが、まだ少し熱い。
「……今日は、ありがとう」
何かをひねり出そうとして、結局出た言葉はそれだけ。
氷室君の返事を、先に拾うことはできなかった。
だから私は、ただ待った。
長机の上で、箱の中の紙束がかすかに擦れた。
「ん」
氷室君は短く頷いた。
そのまま、出口へ歩き出す。
「蓮見さん」
扉のところで、氷室君が一瞬立ち止まった。
振り返った彼と視線がぶつかる。
「無理なら、断ってもいいんじゃないか」
それだけ言って、今度こそ会議室を出ていった。
扉が閉まりきるまで、私はその場から動けなかった。
赤くなった腕に、そっと指を当てる。
「大丈夫です」
いつもの高さで、簡単に出た。
次に、同じ相手がそこにいるつもりで、口を開く。
「無理、です」
二文字目で声が止まった。
窓の外では、まだ部活の声が響いている。
誰も聞いていない部屋でさえ、私はそれを言えなかった。




