心が読める少女
九十点を取るのは、満点を取るよりも難しい。
「蓮見さんって、ほんとすごいよね」
返された小テストを胸元に寄せて、前の席の女の子が笑う。
≪ずるいなぁ。勉強もできて、顔もよくて≫
笑顔の下に、薄い棘が混じっていた。
口にされた言葉より、口にされなかったものの方が、少し早く届く。
私の答案は、九十点。
満点なら、妬まれる。
低すぎれば、今までの私らしくないと怪しまれる。
九十点なら、褒められる。
それでも「教えて」と頼られる場所には、まだいられる。
何度も失敗して覚えた、いちばん安全な点数だった。
「そんなことないよ。選択問題が運よく当たっただけ。最後の記述、全然書けてないもん」
少し困った顔を作る。
同時に、相手の目元がゆるんだ。
≪そっか。蓮見さんでも、そういうことあるんだ≫
棘が引っ込む。
欲しい言葉を拾って、形を整えて、私の言葉みたいな顔をさせてから渡す。
それだけで、たいていのことは収まる。
そうやって今日も、相手が望む「蓮見透」を間違えずにやる。
女の子が前を向いたのと同時に、担任の先生が教室へ入ってきた。
「席つけー。席替えするぞー」
その言葉に、教室の空気がいっせいに跳ねた。
≪前の方だけは嫌だな≫
≪窓際がいい。寝られるし≫
≪蓮見さんの近く、誰になるんだろ≫
期待。面倒くささ。小さな打算。
椅子を引く音の下で、いくつもの声が重なっていく。
二年生になって最初の席替え。
みんなにとっては、少し騒がしいだけの行事だ。
前から二列目の男の子は、声が大きい。
その斜め後ろの子は、人の顔を点数で数える癖がある。
窓際の女の子たちは仲がいいけれど、三人のうち一人だけが、いつも少し無理をしている。
三列目の子は、誰かを褒めるとき、必ず心の中で自分と比べている。
誰が悪いわけでもない。
ただ、近くにいれば、その全部が一日中聞こえてしまう。
私にとっては、これから何か月、どの声をいちばん近くで聞き続けるのかを決める時間だった。
自分の番が来るまで、机の中の文庫本に触れる。
表紙とページの間に挟んだ栞を、指先で確かめた。
紙の縁は、湿った教室の空気を吸って少し柔らかい。
文字は、何も望んでこない。
本を開いている間だけ、誰にも返事を選ばなくていい。
「次、蓮見」
「……はい」
栞を挟み損ねた本みたいに、思考がそこで閉じた。
立ち上がる。
教卓までの短い距離。その間にも、視線が集まる。
熱と、棘。どちらも、こちらへ向いていた。
頭の奥が、じわりと重くなる。
くじを一枚引いて、開く。
薄い紙が、指先で小さな音を立てた。
「……窓際、最後尾」
悪くない。
左側には窓がある。少なくとも、片側から声が来ることはない。
問題は、右隣だった。
◆◆◆◆◆
机を運ぶ音が、教室のあちこちで鳴っている。
新しい席へ向かうと、隣になる男の子は、その騒ぎの中でも頬杖をついたまま、眠そうに欠伸を噛み殺していた。
無造作に伸びた黒髪。
話したことはない。名前も、まだ知らなかった。
椅子を引き、いつもの角度で笑う。
「蓮見透。よろしくね」
「氷室誠。よろしく」
短い返事だった。
私は、いつものように意識を向けた。
次に何を言えばいいのか、先に拾うために。
けれど、何も来なかった。
一拍、待つ。
もう一度、意識を向ける。
聞こえない。
欲しい言葉も、隠した棘も、期待も、打算も。
何ひとつ。
物心ついてから、聞こえない人に会ったことは一度もなかった。
教室のざわめきは、変わらず頭の中へ流れ込み続けている。
≪蓮見さんの隣、氷室か。いいな≫
≪一番前とか、最悪≫
≪やば。今日の宿題、持ってくるの忘れた≫
右隣だけが、そこに人がいないみたいに静かだった。
「……なにかあった?」
氷室君が、こちらを見ていた。
答えを探す。
いつもなら見つかるものが、今はない。
「…………ううん。何も」
表情を取り繕う余裕はなかった。
届くか不安なほど、小さな声が出ただけだった。
「そっか」
氷室君は、それ以上聞かなかった。
教科書を机の端へ寄せてから、ゆっくりと机に突っ伏す。
疑う声も、面倒がる声も聞こえない。
本当に納得したのかさえ、わからなかった。
ノートを開く。
日付を書こうとして、ペン先が止まる。
相手が何を望んでいるのかわからない。
何を言えば嫌われるのかも、先には知れない。
それなのに、四月の日付を書き終えるころには、知らずに詰めていた息が、ゆっくりほどけていた。
◆◆◆◆◆
二時間目の途中で、日が陰った。
開け放した窓から冷たい風が入り、前の席の女の子が腕をさする。
寒いのだろうか。
確かめるために意識を向けかけた、その時だった。
「窓、閉めてもらってもいいか」
一瞬、自分に言われたとわからなかった。
氷室君は頬杖をついたまま、窓ではなく前の席を見ている。
私も視線をたどり、ようやく頷いた。
「……あ、うん」
左手を伸ばして窓を閉める。風の音が細くなり、最後にふっと消えた。
女の子の肩から力が抜ける。
閉じたガラスの向こうで、グラウンドの声が一段遠くなった。
「ありがとう」
小さな声が、前から届いた。
その頃には、氷室君はもう机へ伏せていた。
お礼を受け取るつもりも、最初からないようだった。
心を覗かなくても、わかることがある。
当たり前のはずなのに、そのことを私はずいぶん長く忘れていた。
◆◆◆◆◆
休み時間になると、去年から同じクラスの城ケ崎千佳ちゃんが、近寄ってきた。
「透ちゃん、一番後ろとか大当たりだね。私、一番前だよ」
「がっかりだね」
「ほんと。透ちゃん含めて、仲いい子周りにいないし」
机の角に腰を当てて、千佳ちゃんが唇を尖らせる。
でも、その表情はすぐに、からかうような笑顔へ切り替わった。
「そういえばさ。透ちゃんの隣が誰かって、もう二組まで話いってるの知ってる?」
「……まだお昼前だよ」
「男子も懲りないよねぇ」
「あは、は」
≪でも、氷室君が隣だとあんま意味ないか≫
笑顔の裏から届いた声に、眠っている横顔をもう一度見た。
「……氷室君って、どんな人なのかな」
「え? 珍しいね、透ちゃんがそういうこと聞くの」
千佳ちゃんの目が楽しそうに細くなる。
広がりかけた想像を、私は先回りして畳んだ。
「二年生になって最初の席替えだしね。隣の人のことくらい、知っておこうと思って」
「ふーん。そういわれるとそっか」
千佳ちゃんは案外あっさり頷いて、声を少し落とした。
「去年同じクラスだった子は、悪い人じゃないけど反応が薄いって言ってたよ。いつも眠そうで、何考えてるかわかんないって」
「……そうなんだ」
知りたかった答えではなかった。
もっとも、何を知りたいのか、自分でもまだ言葉にできない。
「……あのね、千佳ちゃん」
「ん?」
言いかけて、口を閉じた。
「ううん。なんでもない」
「なにそれ。気になるじゃん」
千佳ちゃんは頬を膨らませたが、すぐに次の話題へ飛び移り、予鈴と一緒に自分の席へ戻っていった。
二時間目に窓を閉めたのは、私だ。
けれど、寒そうだと気づいたのは、私ではない。
それを言えば、何考えてるかわからない人の話は、少しだけ形を変えたはずだった。
どうして、言わなかったのだろう。
理由を探して眠る横顔を見ても、答えはどこからも聞こえてこない。
「何考えてるかわからない、か」
ピンと跳ねた寝癖だけが、何も知らずに揺れている。
騒がしい教室の中で、そこだけに生まれた静けさへ、私は初めて肩の力を預けた。




