またあの場所で -透-
翌朝、いつもより一時間早く家を出た。
昇降口の上履きは、まだほとんど埋まっていない。
誰もいない教室の扉を開けると、朝の冷たい空気と、チョークの匂いが残っていた。
声がしない。
この教室が静かなところを、私は初めて見た。
鞄を自分の席へ置いて、窓際の最後尾まで歩く。
春に私が座っていた席。
今は、氷室君の席だ。
机の中へ、小さく折った紙を一枚だけ入れた。
『放課後、あの場所で』
紙から手を離した途端、胸が速くなった。
席が隣だった頃は、机の端へ滑らせればよかった。
今は教室を横切って、相手が来る前に机へ入れなければならない。
同じ一枚の紙なのに、渡すために自分で決めることが増えている。
(……でも、借り物の答えじゃない)
自分の席へ戻り、本を出して、開いた。
文字は一つも頭に入らなかった。
やがて、廊下が騒がしくなる。
教室に人が増えて、声が増えて、いつもの重さが戻ってくる。
≪今日の体育、外かな≫
≪蓮見さん、今日は早いんだ≫
≪髪切ったの気づいてくれないかな≫
扉が開くたびにそちらを見た。
氷室君が教室へ入ってきたのは、チャイムの少し前だった。
鞄を置き、教科書をしまおうとして、手が止まる。
紙を開く。
顔を上げた氷室君と、教室の端から目が合った。
私は声を出さず、「待ってる」と唇だけを動かした。
伝わったのかは、わからない。
氷室君は紙を折り直して胸ポケットへ入れ、小さく頷いた。
それだけのことで、一時間目の授業が半分も耳に入らなかった。
◆◆◆◆◆
「透ちゃん、今日どうしたの? ずっとそわそわしてる」
昼休み、千佳ちゃんが顔を覗き込んでくる。
「……そう見える?」
「うん。時計、五回くらい見てたよ」
数えられていた。
「何かあるの?」
「……ちょっと、ね」
「え、なになに?」
「内緒」
上手な嘘がつけずに、千佳ちゃんが楽しそうに体を乗り出す。
曖昧な笑みで誤魔化し続けると、やがて千佳ちゃんはすねたように、他の子たちの方へ去っていった。
窓際を見る。
氷室君は、いつもの通り眠っている。
逆恨みだとはわかっていても、その寝癖を軽く小突きたくなった。
◆◆◆◆◆
放課後、神社の長椅子で本を開いて待った。
同じ行を三度読んでも、内容が頭に入らない。
紙には、時間を書かなかった。
ホームルームが終わってすぐなのか、隆君たちと話してからなのか、それとも来ないのか。
待つしかない。
これまで、誰かの返事を待つ必要はなかった。
来るかどうか。
来た時に何を考えているか。
声を拾えば、先に知ることができた。
氷室君にだけは、それができない。
できないから、音がするたびに顔を上げた。
一度目は、風の音だった。
二度目は、社の裏から出てきた猫だった。
三度目で、鳥居の向こうに黒い髪が見えた。
「待たせた?」
「……だいぶ」
言わなくてもいいことが、口から勝手に出ていく。
氷室君は、少しだけバツが悪そうに、頭を搔くように手を動かした。
「ごめん。健介に捕まってた」
「……もしかして、用事があった?」
「いや、ゲーセンに誘われただけ」
「行かなくてよかったの?」
「今日は、こっちへ来るって決めてたから」
心の中で何と比べたのかは、聞こえない。
口にされた言葉だけが、そのまま胸へ落ちた。
「それで、どうした?」
一人分の間を空けて、氷室君が隣へ座る。
昨日は雨を避けて、その隙間が狭くなった。
今日は風もなく、長椅子は乾いている。
膝の上の本を閉じた。
紺色の布張りで、何度も開いた角が少し丸くなっている。
「前、本貸そうかって言ったの覚えてる?」
「ああ」
「⋯⋯ちゃんと、覚えてたんだ」
「断った方も覚えてる」
「断られた方は、もっと覚えてるものなの」
少しだけ唇を尖らせてから、本へ目を落とす。
「昨日、知らないから知りたいって言ったでしょう」
「言ったな」
「だから、読んでほしいと思ったの。私が、何度も読んだ本だから」
もう一度、本を前へ出す。
差し出しかけて、指が止まった。
「でも、無理にとは言わないよ。前に読まないって言ってたし、思ったより厚いし、それに、あんまり明るい話でもないし――」
「蓮見さん」
「え?」
「どっちなんだ」
「なにが?」
「貸したいのか、貸したくないのか」
言葉を重ねて作っていた逃げ道を、まっすぐ塞がれた。
息を吸う。
「……貸したい。けど、無理に読ませたいわけじゃないの」
「じゃあ、借りる」
「……本当に?」
「だめなのか?」
「それは……もちろん、いいけど」
氷室君の手が伸びる。
本から指を離すまで、一瞬だけ時間がかかった。
「本当に読む?」
「努力はする」
「そこは読むって言ってよ」
「嘘はよくないだろ」
「……そういうところ、変わらないね」
不安なのに、笑ってしまう。
氷室君は表紙を眺めてから、鞄の中へ入れた。
角が折れないように、教科書とノートの間を少し広げる。
たったそれだけの動作を、私はずっと見ていた。
「汚さず返すよ」
「……意外と気にするんだね」
「借り物だからな」
なんでもないような言葉に、ほっとする。
本が、彼の鞄に収まった。
自分の内側にあったものを、一つだけ預けたような気がした。
◆◆◆◆◆
「読み終わったら、感想聞かせてね」
神社を出るために立ち上がる。
「いいけど、期待しないでくれよ」
「ふふっ。読書感想文はやめておいてあげる」
「それはよかった」
どちらともなく笑う。
「じゃあ、読み終わったらまた言う」
「……どれくらいかかる?」
「どうだろう。一週間くらいか?」
「一週間、か」
「夜通し読めって?」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないんだけど」
席は離れている。
毎朝、誰もいない教室で机へ紙を入れるわけにもいかない。
一週間後に、偶然話せるのを待つのも違う気がした。
いや、もしかしたら、そう言い訳をしたかっただけなのかもしれなかった。
「……連絡先、聞いてもいいかな。嫌なら、いいんだけど」
声が、少しだけ上ずった。
「いいよ。俺が読み取ればいい?」
あっさり返され、慌ててスマートフォンを出す。
画面を向けると、小さな音がした。
連絡先に、氷室誠という名前が増える。
「試しに、何か送って」
「今?」
「届かなかったら、困るから」
氷室君が文字を打つ。
『氷室』
画面を見せられ、思わず笑った。
『知ってる』
丸くなって眠る猫のスタンプを、続けて送る。
すぐに『誠』と返ってきて、また笑ってしまった。
「あははっ。だから、知ってるってば」
「どうぞ、氷室誠をよろしくお願いします」
「ふふっ。選挙みたいだね」
「落選確実だな」
氷室君は、知らないまま終わるのではなく、これから知ろうとしてくれている。
私の名前をこっそり打ち込むと、すぐに『知ってる』と言葉が返ってきた。
◆◆◆◆◆
夜、部屋の棚の奥から、空き缶を取り出した。
蓋を開けると、あの日しまった紙がそのまま重なっている。
捨てなくてよかった、と思う。
あの日の私は、元に戻るつもりで、それでも手を離せなかった。
蓋を閉めて、今度は棚の手前に置いた。
その時、机の上でスマートフォンが震えた。
『十二ページまで読んだ』
ベッドの上で、起き上がる。
『ちゃんと読んだんだね』
『自分で借りたしな』
『感想は?』
既読がつく。
『眠い』
『返して』
送ってから、画面を伏せた。
すぐに、手のひらの下で震える。
『最後まで読んだら、ちゃんと話す』
文字を見つめる。
紙は、隣の机までしか届かなかった。
席が離れてからは、それさえ難しくなった。
今は、離れた部屋から言葉が届く。
返事を打った。
『待ってる』
送信したあとも、入力欄へ指を置いたままにする。
『読み終わったら、』
そこまで打って、送らずに消す。
大事にしていた本を貸した。
自分の欠片を、一つだけ渡した。
画面の明かりを消す。
暗くなった部屋に、冷蔵庫の低い音だけが戻ってくる。
知りたい、と言ってくれた人。
その人に、どこまで知ってほしいのだろう。
誰にも借りられない私の答えを、決めなければいけなかった。




