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きみの声だけ、聞こえない  作者: A


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10/14

またあの場所で -透-

 翌朝、いつもより一時間早く家を出た。


 昇降口の上履きは、まだほとんど埋まっていない。


 誰もいない教室の扉を開けると、朝の冷たい空気と、チョークの匂いが残っていた。


 声がしない。


 この教室が静かなところを、私は初めて見た。


 鞄を自分の席へ置いて、窓際の最後尾まで歩く。


 春に私が座っていた席。

 今は、氷室君の席だ。


 机の中へ、小さく折った紙を一枚だけ入れた。


『放課後、あの場所で』


 紙から手を離した途端、胸が速くなった。


 席が隣だった頃は、机の端へ滑らせればよかった。


 今は教室を横切って、相手が来る前に机へ入れなければならない。


 同じ一枚の紙なのに、渡すために自分で決めることが増えている。


(……でも、借り物の答えじゃない)


 自分の席へ戻り、本を出して、開いた。


 文字は一つも頭に入らなかった。


 やがて、廊下が騒がしくなる。


 教室に人が増えて、声が増えて、いつもの重さが戻ってくる。


≪今日の体育、外かな≫

≪蓮見さん、今日は早いんだ≫

≪髪切ったの気づいてくれないかな≫


 扉が開くたびにそちらを見た。

 氷室君が教室へ入ってきたのは、チャイムの少し前だった。


 鞄を置き、教科書をしまおうとして、手が止まる。


 紙を開く。


 顔を上げた氷室君と、教室の端から目が合った。


 私は声を出さず、「待ってる」と唇だけを動かした。


 伝わったのかは、わからない。


 氷室君は紙を折り直して胸ポケットへ入れ、小さく頷いた。


 それだけのことで、一時間目の授業が半分も耳に入らなかった。





◆◆◆◆◆





「透ちゃん、今日どうしたの? ずっとそわそわしてる」


 昼休み、千佳ちゃんが顔を覗き込んでくる。


「……そう見える?」

「うん。時計、五回くらい見てたよ」


 数えられていた。


「何かあるの?」

「……ちょっと、ね」

「え、なになに?」

「内緒」


 上手な嘘がつけずに、千佳ちゃんが楽しそうに体を乗り出す。

 曖昧な笑みで誤魔化し続けると、やがて千佳ちゃんはすねたように、他の子たちの方へ去っていった。


 窓際を見る。


 氷室君は、いつもの通り眠っている。


 逆恨みだとはわかっていても、その寝癖を軽く小突きたくなった。




◆◆◆◆◆





 放課後、神社の長椅子で本を開いて待った。


 同じ行を三度読んでも、内容が頭に入らない。


 紙には、時間を書かなかった。


 ホームルームが終わってすぐなのか、隆君たちと話してからなのか、それとも来ないのか。


 待つしかない。


 これまで、誰かの返事を待つ必要はなかった。


 来るかどうか。

 来た時に何を考えているか。


 声を拾えば、先に知ることができた。


 氷室君にだけは、それができない。


 できないから、音がするたびに顔を上げた。


 一度目は、風の音だった。

 二度目は、社の裏から出てきた猫だった。

 三度目で、鳥居の向こうに黒い髪が見えた。


「待たせた?」

「……だいぶ」


 言わなくてもいいことが、口から勝手に出ていく。

 氷室君は、少しだけバツが悪そうに、頭を搔くように手を動かした。


「ごめん。健介に捕まってた」

「……もしかして、用事があった?」

「いや、ゲーセンに誘われただけ」

「行かなくてよかったの?」

「今日は、こっちへ来るって決めてたから」


 心の中で何と比べたのかは、聞こえない。

 口にされた言葉だけが、そのまま胸へ落ちた。


「それで、どうした?」


 一人分の間を空けて、氷室君が隣へ座る。


 昨日は雨を避けて、その隙間が狭くなった。

 今日は風もなく、長椅子は乾いている。


 膝の上の本を閉じた。


 紺色の布張りで、何度も開いた角が少し丸くなっている。


「前、本貸そうかって言ったの覚えてる?」

「ああ」

「⋯⋯ちゃんと、覚えてたんだ」

「断った方も覚えてる」

「断られた方は、もっと覚えてるものなの」


 少しだけ唇を尖らせてから、本へ目を落とす。


「昨日、知らないから知りたいって言ったでしょう」

「言ったな」

「だから、読んでほしいと思ったの。私が、何度も読んだ本だから」


 もう一度、本を前へ出す。


 差し出しかけて、指が止まった。


「でも、無理にとは言わないよ。前に読まないって言ってたし、思ったより厚いし、それに、あんまり明るい話でもないし――」

「蓮見さん」

「え?」

「どっちなんだ」

「なにが?」

「貸したいのか、貸したくないのか」


 言葉を重ねて作っていた逃げ道を、まっすぐ塞がれた。


 息を吸う。


「……貸したい。けど、無理に読ませたいわけじゃないの」

「じゃあ、借りる」

「……本当に?」

「だめなのか?」

「それは……もちろん、いいけど」


 氷室君の手が伸びる。


 本から指を離すまで、一瞬だけ時間がかかった。


「本当に読む?」

「努力はする」

「そこは読むって言ってよ」

「嘘はよくないだろ」

「……そういうところ、変わらないね」


 不安なのに、笑ってしまう。


 氷室君は表紙を眺めてから、鞄の中へ入れた。


 角が折れないように、教科書とノートの間を少し広げる。


 たったそれだけの動作を、私はずっと見ていた。


「汚さず返すよ」

「……意外と気にするんだね」

「借り物だからな」


 なんでもないような言葉に、ほっとする。


 本が、彼の鞄に収まった。


 自分の内側にあったものを、一つだけ預けたような気がした。





◆◆◆◆◆





「読み終わったら、感想聞かせてね」


 神社を出るために立ち上がる。


「いいけど、期待しないでくれよ」

「ふふっ。読書感想文はやめておいてあげる」

「それはよかった」


 どちらともなく笑う。


「じゃあ、読み終わったらまた言う」

「……どれくらいかかる?」

「どうだろう。一週間くらいか?」

「一週間、か」

「夜通し読めって?」

「ううん、そうじゃない。そうじゃないんだけど」


 席は離れている。


 毎朝、誰もいない教室で机へ紙を入れるわけにもいかない。

 一週間後に、偶然話せるのを待つのも違う気がした。

 いや、もしかしたら、そう言い訳をしたかっただけなのかもしれなかった。


「……連絡先、聞いてもいいかな。嫌なら、いいんだけど」


 声が、少しだけ上ずった。


「いいよ。俺が読み取ればいい?」


 あっさり返され、慌ててスマートフォンを出す。


 画面を向けると、小さな音がした。


 連絡先に、氷室誠という名前が増える。


「試しに、何か送って」

「今?」

「届かなかったら、困るから」


 氷室君が文字を打つ。


『氷室』


 画面を見せられ、思わず笑った。


『知ってる』


 丸くなって眠る猫のスタンプを、続けて送る。

 すぐに『誠』と返ってきて、また笑ってしまった。

 

「あははっ。だから、知ってるってば」

「どうぞ、氷室誠をよろしくお願いします」

「ふふっ。選挙みたいだね」

「落選確実だな」


 氷室君は、知らないまま終わるのではなく、これから知ろうとしてくれている。

 私の名前をこっそり打ち込むと、すぐに『知ってる』と言葉が返ってきた。





◆◆◆◆◆





 夜、部屋の棚の奥から、空き缶を取り出した。


 蓋を開けると、あの日しまった紙がそのまま重なっている。

 捨てなくてよかった、と思う。


 あの日の私は、元に戻るつもりで、それでも手を離せなかった。


 蓋を閉めて、今度は棚の手前に置いた。


 その時、机の上でスマートフォンが震えた。


『十二ページまで読んだ』


 ベッドの上で、起き上がる。


『ちゃんと読んだんだね』

『自分で借りたしな』

『感想は?』


 既読がつく。


『眠い』

『返して』


 送ってから、画面を伏せた。

 すぐに、手のひらの下で震える。


『最後まで読んだら、ちゃんと話す』


 文字を見つめる。


 紙は、隣の机までしか届かなかった。

 席が離れてからは、それさえ難しくなった。


 今は、離れた部屋から言葉が届く。


 返事を打った。


『待ってる』


 送信したあとも、入力欄へ指を置いたままにする。


『読み終わったら、』


 そこまで打って、送らずに消す。


 大事にしていた本を貸した。

 自分の欠片を、一つだけ渡した。


 画面の明かりを消す。

 暗くなった部屋に、冷蔵庫の低い音だけが戻ってくる。

 

 知りたい、と言ってくれた人。

 その人に、どこまで知ってほしいのだろう。

 

 誰にも借りられない私の答えを、決めなければいけなかった。


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