扉の前 -誠-
残り五十ページのあたりで、手が止まった。
屋敷に残っていた人が、また一人減った。
紅茶を淹れていた人はもういない。
疑われていた男も、三日前に死んでいる。
誰が誰を殺したのかという疑い合いは、もうほとんど進んでいなかった。
代わりに増えていくのは、誰もいなくなった部屋の描写だけだ。
冷えた暖炉。
置かれたままのカップ。
外はずっと雪で、出るための扉も閉ざされている。
ページを閉じる。
読むのが嫌になったわけではない。
読み終わったら、感想を言うと言った。
そのことを思い出した途端、次の一行へ進めなくなった。
(……何を言えばいいんだ)
面白かった、では足りない。
暗かった、でも同じだ。
好きだと言っていた、紅茶を淹れる人はもういない。
好きなところが死んだ話を、どう言えばいいのかがわからなかった。
蓮見さんが何度も開いた本に、適当なことを並べるのは違う。
結局、その日はそこで閉じた。
次の日も、同じところで手が止まった。
机の上のスマートフォンを取る。
昨日の夜、最後に届いた四文字が、まだ画面の下に残っていた。
『待ってる』
催促でもない。
急かしてもいない。
ただ、待っていると書いてある。
少し考えて、本をもう一度開いた。
読んでから探せばいい。
当たり前のことなのに、どうしてか順番を逆にしようとしていた。
◆◆◆◆◆
最後の章は、短かった。
屋敷に、もう人は残っていない。
誰が何をしたのかは、結局はっきり書かれなかった。
生き残った一人が、蝋燭を持って地下へ降りていく。
最初に来た日に見た、外へ出るための扉を探して。
突き当たりにあったのは、重い鉄の扉だった。
蝋燭を置く。
引いた。押した。体ごとぶつかった。
蝶番の錆が、少し落ちた。
それだけだった。
ドアノブを握った手のひらの皮が破れて、鉄が滑るようになっても、やめなかった。
やめたのは、そのあとだ。
主人公は扉の前に座り込んで、ドアノブを見ている。
助けを呼ぶとも、泣くとも書かれていない。
立ち上がるとも、諦めるとも書かれていない。
蝋燭が短くなっていく描写が三行あって、そこで終わっていた。
最後のページを、二度読んだ。
解決しているのか、していないのか。
わからなかった。
わからないまま、本を閉じる。
紺色の表紙に、しばらく手を置いていた。
『読み終わった』
送ってから、天井を見上げる。
返事は、一分もかからなかった。
『どうだった?』
『うまく言えない』
既読がつく。
それから、しばらくして短い文字が届いた。
『じゃあ、明日。あの場所で』
場所の名前は書かれていなかった。
書かなくてもわかる場所が、一つだけあった。
◆◆◆◆◆
鳥居をくぐると、蓮見さんはもう長椅子に座っていた。
石畳はまだ乾いている。
社務所の雨戸は、いつ来ても閉まったままだ。
膝の上に何も載せていない。
手ぶらで待っていた人の座り方だった。
「早いな」
「ホームルーム、抜け出してないよ」
「疑ってない」
「ふふ。ちょっと、走った」
一人分の間を空けて座る。
鞄から本を出して渡した。
蓮見さんは両手で受け取って、表紙をそのまま膝へ置いた。
開かない。
確かめない。
「汚さなかった」
「うん。知ってる」
境内の砂利に、夕方の光が斜めに落ちている。
「それで、どうだった?」
「終わり方が、よくわからなかった」
「うん」
「あの人、扉の前に座ってただろ」
「座ってたね」
蓮見さんが、表紙の角を指でなぞる。
「氷室君は、どう思った?」
聞かれるとわかっていた質問だった。
それでも、答えるまでに少し時間がかかった。
「開けようとすると思う」
「……あの扉?」
「ああ」
「あんなに叩いても開かなかったのに?」
「開くかどうかは、別の話だろ」
「……それ、答えになってないよ」
「なってないな」
蓮見さんが、少しだけ笑った。
その笑い方だけは、紙をやり取りしていた頃のものに近かった。
けれど、すぐに消える。
しばらくして、小さく息を吐く。
「そっか」
「蓮見さんは?」
聞き返すと、蓮見さんの指が表紙の上で止まった。
「……私は、見ただけだと思う」
「見ただけ?」
「うん。ドアノブを見て、そのまま座ってる」
その言い方に、引っかかるものがあった。
「あの人は、手の皮が破れるまで引いたんだけどな」
「うん」
蓮見さんが頷く。
「だから、すごいと思う」
褒め言葉のはずだった。
それなのに、声がやけに静かだった。
◆◆◆◆◆
「この本、誰かに貸したことあるのか」
少し迷ってから、聞いた。
「ないよ」
「一度も?」
「うん。一度も」
膝の上の本が、わずかに傾く。
「誰にでも渡したいわけじゃないから」
そこまでは、想像がついた。
だから、続いた言葉の方が意外だった。
「かといって……大切な人たちにも、渡せなかったの」
言葉を選んだ間があった。
「大切な人?」
「うん」
「どうしてだ」
「どうしてだろうね」
蓮見さんは、境内の方を向いたまま言った。
「どちらにしろ、今はもう、近くにいないから」
風が、境内の木を一度だけ鳴らした。
いない、とは言わなかった。
近くにいない、と言った。
その差が何を意味するのかを、俺は聞かなかった。
こちらを見て、笑う。
綺麗な笑顔だった。
どこも崩れていない。
前に、自分で言ったことを思い出す。
『無理な時ほど、綺麗に笑う』
だから、それ以上は聞かなかった。
聞かないでおこうと決めたわけではない。
聞けなかった、というのが正しい。
代わりに、別のことを聞いた。
「じゃあ、なんで俺には渡したんだ」
蓮見さんの肩が、少し動いた。
「……わからない」
「わからないのか」
「うん。自分でも、よくわかってない」
膝の上で、指が本の端を挟む。
「でも」
そこで一度、言葉が切れた。
「知りたいって、言ってくれたから」
◆◆◆◆◆
空の色が変わる頃、蓮見さんが立ち上がった。
本を鞄へ入れて、肩に掛け直す。
「氷室君」
「なんだ?」
口が開いて、そのまま止まった。
言いかけた形のまま、一度、閉じる。
「……次の本、また持ってくるね」
それだけ言って、鳥居の方へ歩き出した。
俺は、その背中を見ていた。
いつもそうだ。
『氷室君の目には、私はどう映ってるの?』
『私って、なに?』
『普通、だと思うの?』
自分のことは、聞いてばかりで。
いちばん大事なところを口にしない。
そして、言いかけてやめる。
言わないまま、先に距離を取ろうとする。
(……いや)
足元の砂利を見る。
俺だってそうだ。
自分の言葉になるまで、口にしない。
わからないものは、わからないまま脇へ置く。
踏み込みすぎるのは違うと、勝手に線を引いてきた。
それは、たぶん悪いことではなかった。
相手の領分を踏まない。
言いたくないことを、言わせない。
悩んで、迷っているものを、無理やり形にさせない。
ずっと、それでいいと思っていた。
ただ、線の内側で待っているだけなら、あの主人公と同じだ。
扉の前に座って、ドアノブを見ている。
開かないとわかっているものを、見ている。
『知りたいって、言ってくれたから』
知りたいと言った俺に、蓮見さんは、誰にも貸したことのない本を渡してくれた。
何度も読んだ、自分の一部みたいなものを。
俺は、それを受け取っただけだった。
自分のことは、まだ何も渡していない。
「蓮見さん」
声が、思ったより大きく出た。
鳥居の手前で、背中が止まる。
振り返った顔は、まだ笑ったままだった。
「なに?」
「次は、俺の番でもいいか」
「……何の?」
「知ってもらう方」
蓮見さんが、ゆっくり振り返る。
「今度、うちに来ないか」
「……氷室君の家?」
「ああ」
目が、丸くなった。
今日初めて、崩れた表情だった。
「嫌なら、断っていい」
言い終えてから、喉が渇いていることに気づいた。
返事は、すぐには来なかった。
鳥居の向こうを、車が一台、通り過ぎていく。
それでも、蓮見さんは、そこから動かなかった。




