↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きみの声だけ、聞こえない  作者: A


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/14

扉の前 -誠-

 

 残り五十ページのあたりで、手が止まった。


 屋敷に残っていた人が、また一人減った。


 紅茶を淹れていた人はもういない。

 疑われていた男も、三日前に死んでいる。


 誰が誰を殺したのかという疑い合いは、もうほとんど進んでいなかった。


 代わりに増えていくのは、誰もいなくなった部屋の描写だけだ。


 冷えた暖炉。

 置かれたままのカップ。

 外はずっと雪で、出るための扉も閉ざされている。


 ページを閉じる。


 読むのが嫌になったわけではない。


 読み終わったら、感想を言うと言った。


 そのことを思い出した途端、次の一行へ進めなくなった。


(……何を言えばいいんだ)


 面白かった、では足りない。

 暗かった、でも同じだ。


 好きだと言っていた、紅茶を淹れる人はもういない。

 好きなところが死んだ話を、どう言えばいいのかがわからなかった。


 蓮見さんが何度も開いた本に、適当なことを並べるのは違う。


 結局、その日はそこで閉じた。


 次の日も、同じところで手が止まった。


 机の上のスマートフォンを取る。


 昨日の夜、最後に届いた四文字が、まだ画面の下に残っていた。


『待ってる』


 催促でもない。

 急かしてもいない。


 ただ、待っていると書いてある。


 少し考えて、本をもう一度開いた。


 読んでから探せばいい。

 当たり前のことなのに、どうしてか順番を逆にしようとしていた。





◆◆◆◆◆





 最後の章は、短かった。


 屋敷に、もう人は残っていない。

 誰が何をしたのかは、結局はっきり書かれなかった。


 生き残った一人が、蝋燭を持って地下へ降りていく。

 最初に来た日に見た、外へ出るための扉を探して。

 突き当たりにあったのは、重い鉄の扉だった。


 蝋燭を置く。

 引いた。押した。体ごとぶつかった。

 蝶番の錆が、少し落ちた。

 それだけだった。


 ドアノブを握った手のひらの皮が破れて、鉄が滑るようになっても、やめなかった。


 やめたのは、そのあとだ。


 主人公は扉の前に座り込んで、ドアノブを見ている。

 助けを呼ぶとも、泣くとも書かれていない。

 立ち上がるとも、諦めるとも書かれていない。


 蝋燭が短くなっていく描写が三行あって、そこで終わっていた。


 最後のページを、二度読んだ。

 解決しているのか、していないのか。


 わからなかった。

 わからないまま、本を閉じる。


 紺色の表紙に、しばらく手を置いていた。


『読み終わった』


 送ってから、天井を見上げる。

 返事は、一分もかからなかった。


『どうだった?』

『うまく言えない』


 既読がつく。

 それから、しばらくして短い文字が届いた。


『じゃあ、明日。あの場所で』


 場所の名前は書かれていなかった。

 書かなくてもわかる場所が、一つだけあった。





◆◆◆◆◆





 鳥居をくぐると、蓮見さんはもう長椅子に座っていた。


 石畳はまだ乾いている。

 社務所の雨戸は、いつ来ても閉まったままだ。


 膝の上に何も載せていない。

 手ぶらで待っていた人の座り方だった。


「早いな」

「ホームルーム、抜け出してないよ」

「疑ってない」

「ふふ。ちょっと、走った」


 一人分の間を空けて座る。


 鞄から本を出して渡した。


 蓮見さんは両手で受け取って、表紙をそのまま膝へ置いた。


 開かない。

 確かめない。


「汚さなかった」

「うん。知ってる」


 境内の砂利に、夕方の光が斜めに落ちている。


「それで、どうだった?」

「終わり方が、よくわからなかった」

「うん」

「あの人、扉の前に座ってただろ」

「座ってたね」


 蓮見さんが、表紙の角を指でなぞる。


「氷室君は、どう思った?」


 聞かれるとわかっていた質問だった。

 それでも、答えるまでに少し時間がかかった。


「開けようとすると思う」

「……あの扉?」

「ああ」

「あんなに叩いても開かなかったのに?」

「開くかどうかは、別の話だろ」

「……それ、答えになってないよ」

「なってないな」


 蓮見さんが、少しだけ笑った。


 その笑い方だけは、紙をやり取りしていた頃のものに近かった。


 けれど、すぐに消える。

 しばらくして、小さく息を吐く。


「そっか」

「蓮見さんは?」


 聞き返すと、蓮見さんの指が表紙の上で止まった。


「……私は、見ただけだと思う」

「見ただけ?」

「うん。ドアノブを見て、そのまま座ってる」


 その言い方に、引っかかるものがあった。


「あの人は、手の皮が破れるまで引いたんだけどな」

「うん」


 蓮見さんが頷く。


「だから、すごいと思う」


 褒め言葉のはずだった。


 それなのに、声がやけに静かだった。





◆◆◆◆◆





「この本、誰かに貸したことあるのか」


 少し迷ってから、聞いた。


「ないよ」

「一度も?」

「うん。一度も」


 膝の上の本が、わずかに傾く。


「誰にでも渡したいわけじゃないから」


 そこまでは、想像がついた。

 だから、続いた言葉の方が意外だった。


「かといって……大切な人たちにも、渡せなかったの」


 言葉を選んだ間があった。


「大切な人?」

「うん」

「どうしてだ」

「どうしてだろうね」


 蓮見さんは、境内の方を向いたまま言った。


「どちらにしろ、今はもう、近くにいないから」


 風が、境内の木を一度だけ鳴らした。


 いない、とは言わなかった。

 近くにいない、と言った。


 その差が何を意味するのかを、俺は聞かなかった。


 こちらを見て、笑う。


 綺麗な笑顔だった。

 どこも崩れていない。


 前に、自分で言ったことを思い出す。


『無理な時ほど、綺麗に笑う』


 だから、それ以上は聞かなかった。


 聞かないでおこうと決めたわけではない。

 聞けなかった、というのが正しい。


 代わりに、別のことを聞いた。


「じゃあ、なんで俺には渡したんだ」


 蓮見さんの肩が、少し動いた。


「……わからない」

「わからないのか」

「うん。自分でも、よくわかってない」


 膝の上で、指が本の端を挟む。


「でも」


 そこで一度、言葉が切れた。


「知りたいって、言ってくれたから」





◆◆◆◆◆





 空の色が変わる頃、蓮見さんが立ち上がった。


 本を鞄へ入れて、肩に掛け直す。


「氷室君」

「なんだ?」


 口が開いて、そのまま止まった。

 言いかけた形のまま、一度、閉じる。


「……次の本、また持ってくるね」


 それだけ言って、鳥居の方へ歩き出した。


 俺は、その背中を見ていた。


 いつもそうだ。


『氷室君の目には、私はどう映ってるの?』

『私って、なに?』

『普通、だと思うの?』


 自分のことは、聞いてばかりで。

 いちばん大事なところを口にしない。


 そして、言いかけてやめる。

 言わないまま、先に距離を取ろうとする。


(……いや)


 足元の砂利を見る。


 俺だってそうだ。


 自分の言葉になるまで、口にしない。

 わからないものは、わからないまま脇へ置く。


 踏み込みすぎるのは違うと、勝手に線を引いてきた。


 それは、たぶん悪いことではなかった。


 相手の領分を踏まない。

 言いたくないことを、言わせない。

 悩んで、迷っているものを、無理やり形にさせない。


 ずっと、それでいいと思っていた。


 ただ、線の内側で待っているだけなら、あの主人公と同じだ。


 扉の前に座って、ドアノブを見ている。

 開かないとわかっているものを、見ている。


『知りたいって、言ってくれたから』


 知りたいと言った俺に、蓮見さんは、誰にも貸したことのない本を渡してくれた。

 何度も読んだ、自分の一部みたいなものを。


 俺は、それを受け取っただけだった。

 自分のことは、まだ何も渡していない。


「蓮見さん」


 声が、思ったより大きく出た。

 鳥居の手前で、背中が止まる。


 振り返った顔は、まだ笑ったままだった。


「なに?」

「次は、俺の番でもいいか」

「……何の?」

「知ってもらう方」


 蓮見さんが、ゆっくり振り返る。


「今度、うちに来ないか」

「……氷室君の家?」

「ああ」


 目が、丸くなった。

 今日初めて、崩れた表情だった。


「嫌なら、断っていい」


 言い終えてから、喉が渇いていることに気づいた。


 返事は、すぐには来なかった。


 鳥居の向こうを、車が一台、通り過ぎていく。


 それでも、蓮見さんは、そこから動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。