扉の先 -透-
「嫌なら、断っていい」
その一言で、足が動かなくなった。
氷室君が読み終えても、私は自分の答えを出せなかった。
だから、次の本の話に逃げた。
それなのに、この人は近づいてくる。
近づいてきて、逃げ道まで置いていく。
心臓の音が大きくて、風の音が聞こえなくなった。
「……もし、私が断ったら」
「ああ」
「氷室君は、傷つく?」
聞いてから、指先が冷たくなった。
人にこんなことを確かめたのは、初めてだった。
「いや。それなら、違うやり方を考える」
迷いが、まるでなかった。
息が、少し楽になった。
「蓮見さんがどうしたいかだけ、考えてくれればいい」
「……私が?」
「嫌なら嫌でいい。気が乗らないなら、それでもいい」
四階の会議室。
腕が赤くなるまで箱を運んだあとで、扉のところで振り返って言われた。
『無理なら、断ってもいいんじゃないか』
覚えているかどうかは、わからない。
でも、きっとどちらでもよかった。
「……氷室君は、離れていかない?」
「これ以上離れたら、教室の端と端だな」
答えになっていない。
それなのに、肩の力が抜けた。
「今度は、氷室君が一番前だね」
「勘弁してくれ。寝にくくなる」
「ふふっ。寝れない、じゃないんだ」
「隣が告げ口する人じゃなきゃな」
「……じゃあ、私は当たりだったね」
「ああ。だから、追いかけた」
誰かの家に行ったのが、もういつだったか思い出せない。
気の緩んだ声。
家族にだけ向ける声。
いちばん濃く聞こえる声が、どうしても苦手だった。
「……少し、考えてもいい?」
「急がなくていい。俺が勝手に言っただけだから」
「勝手じゃないよ」
思ったより大きい声が出て、自分で驚いた。
氷室君の目が一瞬だけ開いて、それから、細くなる。
「なら、待ってる」
待ってる。
その四文字を先に送ったのは、私だった。
「……うん」
駅までの道を、二人で歩く。
特に何も話さなかった。
別れ際、氷室君が片手を上げる。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
改札を抜ける背中を、最後まで見ていた。
電車が動き出しても、まだ手のひらが熱かった。
断る理由なら、いくらでも作れる。
今までずっと、そうしてきた。
なのに、一つも使いたくない。
窓に映った自分の顔は、少し笑っていた。
◆◆◆◆◆
翌朝の教室は、いつもの音量だった。
≪うわ、靴下バラバラじゃん≫
≪新しいアクセ欲しいなー≫
≪あれ? あの二人、別れたんだ≫
扉を開けた瞬間から、四方から流れ込んでくる。
拾わないようにしても、勝手に届く。
こめかみの奥が、朝から少し重い。
「透ちゃん、おはよ」
前の席から、千佳ちゃんが振り返った。
「おはよう」
「ねえ聞いて。昨日、駅前のカフェ行ったんだけどさ」
千佳ちゃんの話は、いつも早い。
私は頷きながら、鞄から教科書を出す。
「苺のタルトがすごく美味しくて。また今度、みんなで行こうよ」
「……そうだね」
考えるより先に、続きが浮かんでいた。
予定が合えば。
落ち着いたら。
また今度。
どれも、前に使ったことのある言葉だ。
話が薄くなって消えるまで、そうやってきた。
「あ。こういうの、ダメだったっけ」
≪甘いもの苦手って、前に言ってた気がする≫
言った覚えは、ある。
去年、お昼を一緒に食べているみんなで行く約束を曖昧にするために使った理由だった。
千佳ちゃんは、それを覚えている。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
千佳ちゃんのことが、嫌いなわけではない。
最初は、強引なところが苦手だった。
知らないうちに周りを巻き込んで、流れを作ってしまうところも。
それでも、真っ直ぐで、思いやりがある人だ。
クラス替えの紙で、名前をつい探してしまうくらいには。
昨日の声が、頭の中で重なる。
『開けようとすると思う』
私は、見ただけだと答えた。
あの主人公のことを言ったつもりだった。
本当は、自分のことを言っていた。
机の下で、手を一度握り直す。
「千佳ちゃん」
「ん?」
「甘いもの、本当は嫌いじゃないの」
千佳ちゃんの目が、私の顔で止まった。
「え? そうなの?」
「ごめんね。みんなで出かけるのが、少し苦手で」
はみ出した教科書を、指で戻す。
揃った角を見てから、顔を上げた。
「だから、わがまま言ってもいい?」
「へ? あ、うん」
声が、少し震えた。
「そのカフェ、千佳ちゃんと二人で行きたい」
言い終えても、すぐには返事がなかった。
千佳ちゃんは、私を見たまま瞬きをする。
「だめ、かな?」
「っ……だめじゃない! 絶対、だめじゃないよ!」
抱きつかれて、髪が鼻先に触れた。
いちばん近い距離だ。
声がいちばん濃くなる距離でもある。
それなのに、届いたのは一つだけだった。
≪透ちゃんがそう言ってくれるの、初めてかも≫
服越しに伝わる体温が、くすぐったかった。
「じゃあ、今週の土曜は?」
腕の力が、少し緩む。
「……土曜は、たぶん、用事がある、かも」
言ってから、自分で驚いた。
まだ、何も約束していない。
それなのに、その日を渡す気にならなかった。
「オッケー。じゃあ、もう今日行っちゃおう」
「ふふ。二日連続で行くの?」
「昨日迷った方も美味しそうだったんだよね」
千佳ちゃんは、あっさり笑った。
≪ある意味ラッキーかも≫
私が断った土曜日に、楽しげな声が返ってくる。
机の下で握っていた手を、ゆっくり開いた。
◆◆◆◆◆
「ねえ、透ちゃん。最近何かいいことあった?」
苺に刺したフォークが、皿の底に当たった。
かち、と小さな音がする。
「……そう、見える?」
「うん。なんとなく」
千佳ちゃんが、頬杖をついたままこちらを覗き込む。
「どうして、そう思ったの?」
「だって、たまに一人で笑ってるし」
「……笑ってる?」
「昼休みとか。机の下で、スマートフォン見ながら」
覚えがある。
特に理由もないのに、メッセージを読み返していた。
「……気のせいだよ」
「はぁ。透ちゃん、嘘下手だよね」
苺を口へ運ぼうとして、途中で止める。
「じゃあ、何見てたの?」
「何って……」
フォークを下ろす。
千佳ちゃんの目が、楽しそうに細くなった。
「もしかして……気になる人でもできた?」
氷室君の顔が浮かんで、返事が止まった。
「……」
「えっ、ほんとに?」
「ち、違っ……」
千佳ちゃんが、テーブルへ身を乗り出す。
「誰? 同じクラス?」
「千佳ちゃん」
「あ、待って。私の知ってる人?」
両手で頬を覆う。
冷たい手のひらに、顔の熱が移ってきた。
「……まだ、自分でもよくわからないの」
千佳ちゃんの口が、開いたまま止まる。
「だから、今はうまく言えない」
フォークの柄を、指で一度転がした。
「……そっか。じゃあ、わかったら教えてね」
頷く前に、千佳ちゃんの視線が私の皿へ落ちる。
「あ。その苺、大きくない?」
「……そうかな」
「私、昨日こんな大きいの入ってなかった。いいなあ」
つられて、皿を見る。
フォークを刺したままの苺が、クリームの上で少し傾いていた。
「一口、食べる?」
「いいの? じゃあ、こっちも食べて」
千佳ちゃんが、自分の皿をこちらへ寄せる。
チョコのケーキを少し切って、フォークを添えた。
一口ずつ交換する。
コクのある甘さが口に広がった。
「どっちの方が好き?」
「……私は、チョコかな」
「じゃあ、明日も来なきゃね」
「三日連続になっちゃうよ」
「そっか。さすがにお財布が無理だ」
千佳ちゃんが笑う。
私も、フォークを持ったまま笑った。
「でも、嬉しかったな」
皿へ目を落としたまま、千佳ちゃんが呟く。
「何が?」
「二人で行きたいって、言ってくれたこと」
フォークの先が、タルトの端を崩す。
「透ちゃん、いつも予定が合えばって言うから。今日もそうなると思ってた」
小さな欠片が、皿の上へ落ちた。
「……うん」
前にも同じ答えを渡した。
その前にも。
千佳ちゃんは、何度も誘ってくれた。
「また、二人で来たい」
顔を上げると、千佳ちゃんはもう笑っていた。
「うん。次は別のところも行こう」
お皿の上には、まだ苺が半分残っていた。
◆◆◆◆◆
その日は、少し遅く帰った。
カフェを出たあと、二人で駅前の店に入り、ご飯まで食べた。
冷蔵庫の低い音が、今日はあまり気にならなかった。
机に置いたスマートフォンを見る。
目を閉じると、知らない玄関が浮かぶ。
おばあちゃんだけがいた私の家とは違う。
お父さんがいて、お母さんがいて。
醤油の匂いと、食器の音。
誰かが台所にいて、誰かがテレビをつけている。
四人なら四人分。
五人なら五人分。
同じ屋根の下で、声が全部近くなる。
想像だけで、こめかみの奥が鈍くなった。
断っていいと言われている。
断る理由も、ちゃんとある。
それなのに、今朝、土曜日を空けたままにした。
誰にも頼まれていないのに、自分で、そうした。
スマホに手を伸ばす。
暗い画面に、固い表情の自分が映った。
電源をつけて、文字を打ち込む。
『行きたい』
送ってから、画面を胸に押しつける。
心臓の音に重なるように、スマホが揺れた。
『わかった』
そっけない返事が、なぜか息を楽にする。
『いつが空いてる?』
指が、止まった。
自分で空けた日を、ゆっくり打ち込む。
『土曜日はどう?』
返事が止まる。
時計の動く音だけが響く。
画面を何度か見る。
立ち上がって、リビングを意味もなく動き回る。
しばらくして、再び通知が鳴った。
『大丈夫そう』
それだけだった。
それだけなのに、画面から目が離せなかった。
追いかけて、もう一つ送る。
『お土産はチロルでいい?』
『高級菓子折りで頼む』
画面の前で、少し笑った。
『それは無理』
その一言は、すんなりと打てた。
あの荷物を運んだ日、誰もいない部屋でも言えなかった二文字。
『なら、それで手を打とう』
扉の先に何があるのかを、知りたいと思った。
知りたい、と最初に言ったのは氷室君だった。
行きたいと打った指が、まだ少し震えていた。




