第7話 冷凍コロッケ外交
勇が冷凍コロッケを抱えて来たのは、昼前の商店街がいちばん腹の虫に弱い時間だった。
白い発泡箱を両腕で抱え、肩で店の扉を押し開ける。箱のふたには、黒い太字で「試食品、落とすな、泣く」と書かれていた。大輝が包丁を置くより早く、紗那が椅子から立ち上がる。
「ころっけ!」
「正しくは、北町冷凍加工食品製造所の、試作五号、霧の日でも心が折れない牛肉コロッケだ」
勇は胸を張った。言い終わるまでに息が少し切れていた。
可純が箱の中をのぞく。
「名前が長いわね。食べる前に冷めるわよ」
「冷凍ですから、そもそも冷えてます」
「屁理屈も冷凍してきたの」
子どもたちが笑い、勇は負けた顔をしながらも、うれしそうに調理台の前へ立った。大輝は油を出そうとして、すぐに手を止める。
「今日は揚げ物はやめましょう。店の奥に古い紙が多いので」
「では、オーブンで。安全第一のコロッケ外交です」
「外交?」
「再開発会社の担当さんが、通りの向こうで現地確認してました。腹が満ちれば、話も少しは丸くなるでしょう」
勇は本気だった。焦げ目ひとつで町の行く末が変わると思っている顔をしている。
大輝は少し迷った。相手を食べ物で黙らせることはできない。だが、湯気の前で声の角が取れることは、何度も見てきた。
「では、焦がさないように」
「任せてください。工場では秒単位で見てますから」
その言葉は、五分後に早くも弱くなった。
オーブンの中で、コロッケの端が黒くなり始めたのだ。勇が「あれ」と言った瞬間、香ばしいを少し通り越した匂いが店に広がった。紗那が鼻をつまみ、広河は灯台姫の冠をかぶったまま叫ぶ。
「また火!」
「火じゃありません、個性です!」
「個性が煙を出してます!」
啓彰が椅子の上に立ちかけたので、大輝が両手で下ろした。ちょうどそのとき、扉の外に再開発会社の担当者が立っていた。灰色のコートを着た男性は、店の中の騒ぎと、焦げた匂いと、テーブルに広がる古い領収書を順番に見た。
「こちらでも、火の扱いには注意されたほうがいいですね」
その声には笑顔がついていたが、紙に押された訂正印のように冷たかった。
勇が皿を差し出した。
「焦げたところは外せます。食べます?」
「結構です」
担当者は、商店街の掲示板に貼られた説明会案内を確認するだけだと言って、店には入らず去っていった。
勇は皿を持ったまま、しばらく固まった。
「外交、失敗です」
「開戦にもなってないから大丈夫よ」
可純が焦げた端をつまんで食べた。大輝が止める間もない。
「あら。苦いけど、食べられなくはない」
「褒め言葉が救急箱みたいです」
その場がほどけかけたころ、理彩子が店へ入ってきた。彼女は匂いに眉を寄せたが、騒がず、オーブンのコンセントと、古いファイルの置き場所を確認した。
「今の騒ぎ、灯台の下部倉庫の小火と少し似ています」
可純が身を乗り出す。
「勇のコロッケが証拠になるの?」
「コロッケは証拠ではありません。熱の出るもの、湿った場所、古いコード、近くに燃えやすい紙がある。この組み合わせが危ないという話です」
理彩子は店の壁際にある延長コードを指した。
「この店は大輝さんが気をつけているからまだいい。でも灯台の下部倉庫は、床が湿っています。そこで古い延長コードに掃除機をつないだなら、小火が起きても不思議ではありません」
「灯台そのものが危ないんじゃなくて、使い方が危なかったってこと?」
真喜子が聞くと、理彩子はうなずいた。
「まだ断定はできません。でも、建物全体を壊す理由にする前に、何が燃えたのか、何が熱を持ったのかを分けて考える必要があります」
大輝は焦げたコロッケの匂いを吸い込みながら、灯台の倉庫に落ちていた焦げた紙片を思い出した。
あの日、誰がどのコードを使ったのか。なぜ、そんなに急いで片づけたのか。
勇は黙って、焦げの少ないコロッケを子どもたちの皿へ分けた。広河が小さくかじり、目を丸くする。
「こげてないところ、おいしい」
「そこを売ります」
勇はすぐに立ち直った。
笑い声の端で、大輝は新しい紙を一枚出した。上に「小火の原因確認」と書く。まだ空白の多い紙だったが、そこに何を書くべきかは、少しずつ見えてきた。




