第6話 北の町の古い灯
優空は、朝の霧が濃い日にだけ、少し早く店へ来る。
その日は、商店街の看板の文字も半分ほど白く沈み、魚屋の軒先に吊られた青い網が、遠くのもののように見えた。大輝が暖簾代わりの布を出すと、優空は杖の先で入口の段差を確かめてから、ゆっくり中へ入った。
「今日は、灯台が見えにくいね」
「見えないのに、見に来るんですか」
「見えない日は、あるかどうか確かめたくなるの」
優空は笑い、いつもの椅子に座った。大輝は薄めの緑茶を出し、小さな皿に昨日の栗ごはんを丸めたものを置いた。多すぎた栗ごはんは、朝になるとおにぎりになり、昼になると誰かの口へ消える。余りものの行き先としては上々だった。
店の奥では、啓彰が子どもたちを座らせていた。
「話を聞く姿勢を整えてください。背筋を伸ばします。可純さんもです」
「私は子どもじゃないわよ」
「大人は見本です」
可純は言い返そうとして、広河がまっすぐ見ているのに気づき、しぶしぶ背筋を伸ばした。
優空は紙コップを両手で包み、霧の向こうへ目を向けるように話し始めた。
「昔ね、まだ今より船の音が近かったころ、冬の朝は本当に何も見えなかったの。川と海の境がわからなくなって、自分の家の前の道までよそみたいになる。そういう朝に、旧灯台の光がぼんやり見えると、ああ、北町に帰ってきたって思った」
紗那が手を挙げた。
「光、ぴかぴか?」
「ぴかぴかというより、ぼうっと。遠くの人が、ここですよって手を振ってくれる感じ」
広河は自分の小さな手を振ってみせた。
「姫みたい?」
「姫より、もう少し働き者だったかな」
可純が笑い、広河は少し考えてから、冠を押さえた。
「姫も働く」
「じゃあ、同じくらい」
優空はうなずいた。
大輝は、栗皮茶色のファイルを開いた。優空の話に出てくる時代と近い日付を探す。昭和の終わりごろの領収書に、「霧夜 茶葉代」とだけ書かれたものがあった。店名は、もうない茶舗。金額は小さい。
「これ、もしかして」
優空は眼鏡をかけ、紙をのぞきこんだ。
「この字、覚えてる。お茶屋の清さんだわ。霧が濃い日は、灯台の下でお茶を出していたの。船の人も、仕事帰りの人も、あそこで少し休んだ」
「領収書には、誰に出したかまでは書いてありません」
「でも、出した人はいたのよ。飲んだ人もね」
その言葉は、古い紙の足りない部分をそっと埋めるようだった。
啓彰がまた手を挙げた。
「質問してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「灯台は、観光地ではないのに、どうして残したいのですか」
子どもらしいまっすぐさで、集まった大人たちのほうが少し黙った。
優空は急がずに茶を飲んだ。
「観光地じゃないから、毎日使っていたの。写真を撮るためじゃなくて、帰る方角を思い出すために」
大輝はその言葉を書き留めた。聞き取り表の余白に、帰る方角、と記す。
可純が隣からのぞきこんだ。
「いい言葉ね。大きく貼ろう」
「まだ聞き取りの途中です」
「途中でも、いい言葉は逃げるわよ」
「逃げません。紙に書きましたから」
可純は納得したような、していないような顔で緑茶を飲んだ。
店の外では、霧の中を人が通るたび、足音だけが先に聞こえた。宅配の台車、犬の爪、誰かの自転車のベル。姿が見えるころには、音のほうがもう通り過ぎている。
大輝は旧灯台のほうを見た。白い霧の奥に、かすかな輪郭がある。見えないと言えば見えない。だが、そこにあると知っているから、目が探す。
優空は帰り際、ファイルの前で足を止めた。
「この紙、捨てないでくれてありがとう」
「まだ、捨てないと決めただけです」
「それが最初でしょ」
優空は杖を持ち直し、入口で振り返った。
「大輝くん、あの灯台はね、光っているときだけ役に立っていたんじゃないの。見上げる癖が、町の人に残っていた。それも、灯台の仕事だったのよ」
仕事。
その言葉が、大輝の胸に静かに落ちた。
誰かの帰り道になること。毎日名乗らず、そこに立っていること。給料明細には載らなくても、確かに誰かを支えること。
旧灯台の輪郭は、霧の中でまた薄くなった。けれど大輝の目には、さっきよりはっきり映っていた。




