第5話 歌の上手いお兄さん
翌日の夕方、紗那は商店街の真ん中で歌いながら歩いてきた。
「ほしのような、きーみー。きみってだれー」
歌詞は途中から紗那の質問になっていた。手には保育園の上履き袋、首にはクレヨンの入った小さな袋。歩くたびに袋が跳ね、赤いクレヨンが床屋の前で一度飛び出した。
大輝は店の入口まで出て拾った。
「その歌、どこで覚えたの」
「こうきおにいさん」
紗那は当然のように答えた。
「こうきおにいさん、歌がじょうず。あと、ぱそこんが速い。指が、たたたたってなる」
ちょうどその航貴が、店の奥で古い領収書を入力していた。ノートパソコンの画面には、日付、店名、金額、但し書きの列が並んでいる。航貴は画面を見たまま、紗那の歌に合わせて小さく指を動かしていた。
「勝手に広まってますね」
「保育園児は広報力が強いから」
航貴は苦笑し、入力を続けた。
彼は普段、データ入力の仕事をしている。見た目は控えめで、商店街でも大声を出すほうではない。けれど、キーボードを打つ指だけは別人のように迷いがなかった。古い領収書のかすれた文字を読み、店名の旧字体を調べ、日付の西暦と和暦を行き来しながら、町の紙を少しずつ表にしていく。
「この『星のような君』って、曲名なんですか」
大輝は、なるべく普通に聞いた。
航貴の指が一瞬止まった。
「はい。灯台のために作ってる曲です。子どもたちが歌えるように、短くしてます」
「灯台のため」
「再点灯できたら、みんなで歌えたらいいなって。まだ仮の歌詞ですけど」
大輝は胸の奥にあった冷たいものが、少し形を変えるのを感じた。完全に消えたわけではない。さやの領収書に同じ文字があった理由は、まだわからない。ただ、曲名そのものが誰か一人へ向けた甘い言葉ではなく、灯台の話につながっているらしいことはわかった。
紗那は椅子に座り、足をぶらぶらさせながら歌の続きを考えている。
「ほしのようなきみ、きみは、えーと、だいこん?」
「大根は急に現実的だね」
「きのう、みそしるにいた」
航貴が吹き出し、入力欄に「大根」と打ちかけて慌てて消した。
「危なかった。灯台修繕費の但し書きが大根になるところでした」
大輝も笑った。笑いながら、画面の数字に目を向ける。
そこには、何年も前の領収書が入力されていた。台風の日の紙コップ、避難者用の緑茶、灯台下部の窓枠修理。派手な出費はない。けれど、同じ種類の支払いが何度も出てくる。
「これ、同じ人が何回も払ってますね」
「はい。名前は表には出ていないですけど、筆跡が似ています。あと、店の場所が今と違う。たぶん、昔の茶舗です」
航貴は古い紙を透明な袋へ戻した。
「町の自伝みたいですね。本人は書いたつもりがなくても、暮らしが勝手に残ってる」
大輝はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
自伝。確かに、領収書は誰かの立派な文章ではない。けれど、何に困り、何を買い、誰のために払ったかが残る。話すのが上手くない人の代わりに、紙が黙って証言している。
店の外から、広河の声が聞こえた。
「姫、到着!」
布の冠をかぶった広河が、一彰と啓彰を連れて入ってきた。一彰は紙を何枚も抱え、啓彰は入口で律儀に靴をそろえている。
「灯台保護隊の歌、練習しに来ました」
啓彰が深々と頭を下げた。
「その前に、手を洗います」
大輝が言うと、子どもたちは一列に並んだ。広河だけが冠を外すべきか迷い、結局、かぶったまま手を洗った。
航貴はパソコンを少し脇へ寄せ、小さくメロディを口ずさんだ。子どもたちの声が、店の中に少しずつ重なっていく。
星のような君。
その言葉を聞くたび、大輝の心はまだ少しざわついた。けれど、子どもたちの声で歌われると、そこには疑う余地のない明るさがあった。
大輝は緑茶を淹れ、航貴の横へ置いた。
「入力、疲れたら休んでください」
「ありがとうございます。今、昭和の紙と平成の紙が混ざって、頭の中で町内会が開かれてます」
「それは疲れそうですね」
紗那が急に手を挙げた。
「だいきさんも歌う?」
「僕は味噌汁係」
「味噌汁も歌えるよ」
子どもたちは本気でうなずいた。
大輝は断ろうとして、やめた。店の外では夕方の霧が少しずつ濃くなり、旧灯台の上部が白くかすんでいる。
航貴の指が、もう一度キーボードへ戻った。たたたた、と静かな音がする。その音に混じって、子どもたちの歌が続く。
大輝は、さやにこの歌のことを聞かなければと思った。疑いとしてではなく、同じ食卓に置く話として。
けれど、その勇気を、今夜の味噌汁が冷める前に用意できるだろうか。




