第4話 主夫の仕事は見えにくい
その夜、大輝は台所で栗ごはんを炊くつもりだった。
つもりだった、というのは、米の量を一合間違え、栗の量も勢いで増やし、結果として炊飯器の中が小さな秋祭りみたいになったからだ。蓋を開けた瞬間、甘い湯気が立ちのぼり、しゃもじを入れる場所に少し迷った。
「多いな」
自分で言って、自分で笑った。
さやはまだ帰っていない。貿易の仕事は相手国の時間に引きずられることが多く、夜の電話や急な確認も珍しくない。わかっている。わかっているのに、最近は玄関の開く音を待つ時間が長く感じた。
大輝は弁当箱を洗い、明日の味噌汁用に大根を切り、テーブルの端に置いた領収書の束へ目を移した。家の中にも紙はある。スーパー、保育用品、電気代、さやが立て替えた仕事関係の支払い。どれも整理しなければ、月末に困る。
それなのに、誰かに「仕事はしていないのに忙しそう」と言われると、胸の奥が少しだけ縮む。
悪気がないのはわかる。実際、大輝は外の会社に毎日通っているわけではない。肩書きを聞かれて「主夫です」と答えると、相手の顔に、どう受け取ればいいのか迷う隙間ができることもある。
ただ、その隙間へ毎日落ちると、思ったより痛い。
食卓に箸を並べていると、さやの財布が椅子の上に置きっぱなしになっているのに気づいた。朝、急いで別のバッグへ中身を移したとき、戻し忘れたのだろう。
大輝は触らないようにしようと思った。思ったが、椅子から滑り落ちそうになった財布を直した拍子に、薄い紙が一枚、床へ落ちた。
拾い上げた領収書には、店名と日付の下に、手書きで「星のような君」とあった。
曲名だろうか。贈り物の名前だろうか。大輝は何度も見直した。金額は大きくない。だが、但し書きの文字が妙に親密に見えて、指先が冷えた。
そのとき玄関が開いた。
「ただいま」
さやの声は疲れていた。コートの肩に、外の霧が小さな水滴になって付いている。
「おかえり。ごはん、多いよ」
「それは見ればわかる量?」
「蓋を開けた炊飯器が、ちょっと誇らしげだった」
さやは笑った。笑ったが、目の下に薄い影があった。
大輝は領収書を持ったまま、聞けばいいと思った。これは何。最近、帰りが遅いけど大丈夫。航貴の歌と関係あるの。言葉はいくつも浮かんだ。
けれど、さやが手を洗い、袖をまくり、食卓を見て「味噌汁、いい匂い」と言った瞬間、その言葉は喉の奥に戻ってしまった。
「灯台の会議、どうだった?」
「可純さんが宣戦布告した」
「ああ……想像できる」
「子どもたちは保護隊を結成した。啓彰くんが大人に挨拶を要求してた」
さやは椅子に座り、少しだけ肩の力を抜いた。
「北町らしいね」
大輝は茶碗に栗ごはんをよそった。多すぎる栗を隠すように、上へごま塩を振る。
領収書のことを聞けないまま、食事は始まった。さやは灯台の話に耳を傾け、焦げた延長コードの話では眉を寄せ、古いファイルの話では「捨てられなくてよかった」と小さく言った。
大輝は、その「よかった」に引っかかった。まるで、さやも何かを知っているようだった。
「最近、仕事、忙しい?」
やっと出した言葉は、遠回りにもほどがあった。
「うん。少し。今、確認しなきゃいけない相手がいて」
「相手?」
「海外の職人さん。あ、仕事の関係でね」
さやは言い足してから、味噌汁へ目を落とした。
大輝はそれ以上聞けなかった。聞く権利がないわけではない。夫婦なのだから、聞いていい。そう思うのに、財布から落ちた領収書を見た後では、質問の形が少しずつ疑いに変わっていく気がした。
食後、さやは電話に出るため別室へ行った。扉の向こうで、知らない言語の挨拶と、さやの低い声が聞こえる。
大輝は弁当箱を洗った。水の音で電話の声を消すように、少し強めに蛇口をひねった。
流し台の横には、家の領収書と、旧灯台の領収書が並んでいる。誰かのために払ったもの。誰にも見えにくい時間。説明しなければ、なかったことにされてしまう働き。
大輝は皿を拭きながら、床に落ちた「星のような君」の紙を、そっと家計用の箱へ入れた。
まだ何も聞けていない。栗ごはんだけが、明日の朝まで残りそうだった。




