第55話 領収書屋さんの新しい棚
再点灯の翌日、大輝は店の棚を動かした。
それは、たったそれだけのことだった。
けれど、栗皮茶色の古いファイルをどこへ置くかで、朝から三人に口を出された。
「一番上がいいわよ。大事なものなんだから」
可純が言う。
「上すぎると、子どもが届きません」
啓彰が言う。
「下すぎると、正朋くんが触ります」
道雄が言う。
「ぼく、さわるだけ」
正朋が不満そうに言う。
「その『だけ』が町を動かしてきたので、慎重に扱いましょう」
涼が穏やかにまとめた。
大輝は、棚の真ん中より少し下を選んだ。
大人がしゃがまなくても取れる。子どもが背伸びをすれば見える。ただし、勝手に開くには少し緊張する高さ。
そこへ、古いファイルを置いた。
最初に可純が持ち込んだとき、机の上でどんと音を立てたファイルだった。今は角を補強し、紙の一枚一枚を薄い保護袋に入れ、日付と内容ごとに分けてある。麻央が分類番号をつけ、道雄が一覧表を作り、真喜子と早貴が聞き取りで補足した名前を付箋に書いた。
ただの古い紙束ではなく、手に取れる町の記録になっていた。
「なんか、博物館みたい」
紗那が言う。
「博物館ほど立派じゃないけどね」
大輝が答える。
「でも、さわれる」
広河が背伸びをした。
「触るときは、手を洗ってから」
啓彰が言う。
「姫も?」
「姫も」
広河は、素直に手洗い場へ向かった。
新しい棚には、古いファイルだけでなく、現在の記録も置くことにした。
灯台点検表。非常食入れ替え表。緑茶休憩ノート。子ども領収書帳。霧の日の見守り地図。合意書の控え。さやのレンズ修復協力書の写し。航貴の「星のような君」の歌詞カード。
どれも、完成したから置くのではない。
続けるために置く。
大輝は棚の上に、小さな紙を貼った。
北町の記録。手に取る前に声をかけてください。
可純がそれを見て、眉をひそめた。
「もっと勢いのある文にしない?」
「たとえば」
「最後の一枚まで愛で保護します」
大輝は少し笑った。
「長いけど、可純さんらしい」
「長いって言った?」
「言いました」
紗那が横から赤いペンを持ってきた。
「花丸、いる?」
「看板に花丸は……」
啓彰が止めかけたが、少し考えて言い直した。
「一つだけなら、店内掲示として許容できます」
「えらい人みたい」
広河が言う。
紗那は、紙の端に小さな花丸を押した。珍しく小さかった。大事な場所だとわかっているのかもしれない。
午前中、真喜子と早貴が新しい聞き取り表を持ってきた。
「再点灯して終わりじゃないから」
真喜子が言う。
「霧の日に、実際にどう見えるか聞きます。あと、下部倉庫の使い方で困ったことがあれば集めます」
早貴が地図を広げた。
「灯台の光が届きにくい路地もあるかもしれないので、仮灯の位置も見直します」
大輝は二人を見て、胸の中が温かくなった。
中学生の二人は、最初、少し遠慮がちだった。大人の会議に混ざりながら、聞いていいのか、書いていいのか迷っていた。それが今では、町の次の課題を自分たちで持ってくる。
「助かる」
大輝が言うと、真喜子は少し照れた。
「助かるって言われると、続けやすいです」
「じゃあ、何度でも言う。助かる」
早貴は笑って、地図の端に小さく「助かる受領」と書いた。
麻央も来た。
彼女は厚い封筒を抱えていた。
「次の申請書です」
可純が露骨に顔をしかめた。
「まだあるの」
「あります。保存は、決まった瞬間より、決まったあとが長いです」
「現実がまた来た」
「逃げると追いかけてきます」
啓彰がすかさず言い、麻央は笑った。
大輝は封筒を受け取り、新しい棚の「進行中」の箱に入れた。
進行中。
その言葉は、以前なら少し苦手だった。終わらないもの、片づかないもの、責任だけが増えるもののように感じていた。
でも今は違う。
町が生きている限り、記録は終わらない。終わらないから、棚が必要になる。誰かが次の紙を置ける場所が必要になる。
昼すぎ、さやが店に寄った。
出勤前ではなく、外回りの途中だった。手にはコンビニの小さなレシートがある。
「これ、いる?」
「内容による」
「灯台のレンズ確認用に買った乾電池。会社の経費じゃないから、町の記録に入れておいて」
大輝はレシートを受け取った。
「家計から?」
「うん。でも、あとでちゃんと相談する」
「それが大事」
二人は笑った。
夫婦の中にも、見えない支払いはたくさんある。時間、気遣い、言わずに飲み込んだ言葉、言うために選び直した言葉。全部を領収書にすることはできない。けれど、必要なものは隠さず話す。それだけで、同じ紙でも重さが変わる。
夕方、航貴が歌詞カードの新しい版を持ってきた。
「子どもたちが歌いやすいように、少し短くしました」
「短くしたら、可純さんが怒るかもしれない」
「大丈夫です。可純さん用に長い前口上を別に作りました」
可純はそれを聞いて満足げに頷いた。
「わかってるじゃない」
涼が苦笑する。
「前口上は三十秒まででお願いします」
店の外では、日が暮れ始めていた。
旧灯台の光は、まだ点灯時刻ではない。けれど、上のガラス室が夕方の色を受けて、ほんのり明るく見える。
大輝は新しい棚を見た。
栗皮茶色のファイルは、誰でも手が届く高さにある。上に祀り上げるのではなく、下に置き忘れるのでもない。日常の中で、必要なときに開ける場所。
そこに、今日の新しいレシートが一枚加わる。
町の記録は、終わった物語ではなかった。
今日も、誰かが財布を開き、手を動かし、照れくさそうに紙を持ってくる。
大輝は、その一枚を受け取り、棚の前で小さく頷いた。
領収書屋さんの仕事は、まだ名前を変えながら続いていく。




