第54話 灯台再点灯
灯台の光が戻る夜、北町の霧は遠慮がちだった。
濃すぎれば何も見えなくなる。晴れすぎれば、灯台のありがたみが少し照れくさくなる。そのあいだを選んだように、冬の空気の中へ薄い白さが漂っていた。
旧灯台の下には、商店街の人たちが集まっていた。
派手な式典ではない。赤い絨毯も、来賓席もない。勇が持ってきた常温保存のビスケット、優空の緑茶、珠里の膝掛け、なつほの模型、道雄の点検表、理彩子の安全確認済みの紙、涼の当番表。そういうものが、折りたたみ机の上に並んでいる。
大輝は、それを見て少し笑った。
再点灯の夜なのに、机の上は光よりも紙が多い。
けれど、その紙の山こそが、ここまで来た道だった。
「緊張してる?」
さやが隣に立った。
彼女の手には、港から届いたレンズ部品の最終受領書がある。何度も確認した紙なのに、端が少し折れている。忙しい仕事の合間に、何度も鞄から出し入れした跡だった。
「してる」
大輝は正直に答えた。
「灯台って、点く瞬間に失敗したらどうするんだろうって」
「そのために理彩子さんが三回確認したし、職人さんもオンラインで見てくれたし、幸平さんが部品の固定を見たし、なつほさんが細かい傷も確認した」
「それでも心配するのが、領収書屋さんです」
「いい屋号になってる」
「まだ看板にはしてない」
さやは笑った。
灯台のガラス室では、理彩子と幸平が最後の確認をしていた。上から懐中電灯の光がちらちら動く。幸平は高いところが得意ではないらしく、降りてきたとき少し顔が白かった。
「大丈夫ですか」
真喜子が聞く。
「大丈夫だ。輸送機械の組立より、町の期待のほうが重いだけだ」
「名言みたい」
早貴が地図の端に書こうとして、幸平が慌てて止めた。
「正式記録にはしなくていい」
航貴は子どもたちを集め、歌の確認をしていた。
「今日は大きな声より、遠くまで届く声で」
「どう違うの」
紗那が聞く。
「大きな声は、隣の人をびっくりさせる声。遠くまで届く声は、霧の向こうの人に道を教える声」
子どもたちは、わかったような、わからないような顔で頷いた。
広河は灯台姫の衣装を着ていた。ただし、以前より裾が短く直され、走らなくてもつまずかないようになっている。冠には「手をつなぐ係」と書かれた小さな紙が貼られていた。
正朋は、広河と啓彰のあいだで手をつながれている。
「ぼく、今日は迷子にならない」
「今日は、みんなでいる日です」
啓彰が言う。
一彰は、今日の目標を灯台の下に貼った。
一、光ったら拍手。
二、歌の順番を間違えない。
三、泣いてもいい。
「三番、誰向け?」
勇が聞く。
一彰は、少し考えて答えた。
「大人」
大人たちは、笑いながら目をそらした。
可純は、すでに泣きそうだった。
「まだ光ってないですよ」
大輝が言う。
「準備運動よ」
可純は鼻をすすった。
再点灯の時刻が近づいた。
派手なカウントダウンはしないと決めていた。灯台は、誰かを驚かせるための光ではなく、帰り道を知らせるための光だからだ。
涼が静かに手を上げた。
理彩子が上から合図を返す。
大輝は、なぜか足元の地面を見た。古いコンクリートの割れ目、掃除で取りきれなかった砂、正朋が箒で集めた小さな埃の残り。全部が、ここに人が通った跡だった。
そして、旧灯台の上に、光がともった。
最初は、頼りない薄い明るさだった。
けれど、レンズを通った光は、ゆっくりと形を整え、霧の中へ伸びていった。白い線ではない。町の空気に溶けるような、柔らかい輪だった。
誰もすぐには拍手しなかった。
皆、息を止めて見上げていた。
古い壁。直したレンズ。薄い霧。冬の夜。そこに戻った光。
大輝は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
領収書に残っていた「床板補修材」も、「緑茶」も、「迷子保護用毛布」も、今日のこの光に直接は映らない。けれど、どれか一枚が捨てられていたら、ここまで来なかったかもしれない。
航貴が、最初の音を出した。
「星のような君」は、霧の夜には少し恥ずかしい題名だった。けれど、子どもたちの声が重なると、恥ずかしさよりも温かさが先に来た。
紗那は少し早く歌い、広河は一小節遅れ、正朋は歌詞を一つ飛ばした。啓彰が小声で修正しようとして、自分の音程を外した。勇がつられて大きな声を出し、道雄に「音量が上乗せされています」と言われた。
完璧な合唱ではなかった。
でも、霧の向こうへ届く声だった。
大輝は、さやと並んで灯台を見上げた。
「ありがとう」
彼は小さく言った。
「どれに?」
さやが聞く。
「レンズにも。歌にも。隠していたことを話してくれたことにも。俺が疑ったのに、戻ってきてくれたことにも」
「それ、全部領収書にする?」
「金額がつけられない」
「じゃあ、残らない?」
大輝は首を振った。
「残るよ。たぶん、言葉にしたから」
さやは、少しだけ肩を寄せた。
領収書に残らない愛もある。
でも、残したから届く愛もある。
大輝は、古いファイルを初めて開いた朝のことを思い出した。栗皮茶色の紙束から始まったものが、今、霧の中の光になっている。
歌が終わると、拍手が起きた。
可純は我慢できずに両手を振り上げた。
「勝利!」
「保存はこれからです」
麻央がすぐに言う。
「再点灯勝利!」
「それなら、少しだけ」
麻央が笑った。
勇がビスケットを配り、優空が緑茶を注ぎ、珠里が寒そうな子どもに膝掛けをかけた。涼は当番表を風で飛ばされないよう押さえ、道雄は点検表に時刻を書き込む。理彩子は灯台の上から降りてきて、なつほとレンズの光り方について小声で話していた。
その全部が、町の再点灯だった。
光だけではない。
誰かの手が、また動き始めたこと。
大輝は、湯呑みを受け取り、灯台を見上げた。
霧は薄く、光は遠くまで行きすぎない。
けれど、北町の人が帰るには、十分だった。




