第53話 最後の日ではなく
再開発会社の大きな看板が外される日、可純は朝から黒っぽい服を着てきた。
「何の服ですか」
大輝が聞くと、可純は真顔で答えた。
「最後の日っぽいから」
その言葉を聞いた優空が、ゆっくり首を振った。
「最後の日じゃないわ。初めての管理当番の日よ」
可純は口を開けたまま固まった。
「……その言い方、いいわね」
「でしょう」
優空は、少し得意げに笑った。
北町商店街の北端では、作業員が看板のボルトを外していた。以前は「新物流複合施設予定地」と大きく書かれていた板だ。雨風で端が汚れ、広河の衣装が一度引っかかり、説明会の日程変更の紙を隠していた看板でもある。
それが少しずつ傾き、支柱から離れていく。
見ていた商店街の人たちは、拍手をするべきか、黙っているべきか迷っているようだった。
大輝も同じだった。
看板が外れることは、嬉しい。けれど、これで全てが解決したわけではない。保存申請は進行中で、修繕費の支払いもこれからだ。行政の確認も、保険の手続きも、当番の実行も残っている。
だから、可純の言う「最後の日」は違う。
優空の言う「初めての管理当番の日」のほうが、ずっと正しかった。
「じゃあ、初日らしく掃除しましょう」
涼が軍手を配った。
商店街の人たちは、照れながら受け取った。反対派も賛成派も、今日は同じ軍手をはめる。まだ気まずさはあるが、同じ箒を持つと、少しだけ話しやすくなる。
勇は非常食棚の仮置き場を確認しながら、段ボールを運んだ。
「この箱は水。こっちは缶詰。コロッケは今日はない」
「今日はないんですか」
紗那が残念そうに言う。
「非常食の確認に集中する日だから」
「勇さんが集中している」
真喜子が小声で言い、早貴が地図の隅に「勇さん集中日」と書いた。
道雄はすぐに気づいた。
「正式な記録にはしないでください」
なつほは灯台模型を下部倉庫の入口に置き、子どもたちへ説明した。
「ここが入っていい場所。ここから先は大人と一緒。湿っている床はまだ直す前だから、走らない」
「灯台姫は?」
広河が手を上げる。
「灯台姫も走らない」
「姫なのに?」
「姫だから」
広河は納得したのか、納得していないのか、衣装の裾を持ち上げて慎重に歩き始めた。
一彰は、今日の目標を灯台の入口に貼った。
一、看板が外れても騒ぎすぎない。
二、倉庫を掃除する。
三、正朋に掃除機を持たせない。
正朋は、その三番を見て頬を膨らませた。
「ぼくも掃除したい」
「箒ならいいです」
啓彰が、短い箒を渡した。
「掃除機は?」
「禁止です」
「一生?」
「少なくとも今日」
正朋はしぶしぶ箒を受け取った。けれど、いざ掃き始めると、誰よりも真剣に床の埃を集めた。以前の小火の日、彼が掃除機で吸い込んだ紙片が、結果的に町を救う証拠になった。けれど、それと危ない扱いをしていいことは別だった。
大輝は、その区別を子どもたちに何度も説明した。
「何かが役に立ったからって、危なかったことまで良かったことにはならない。次に同じことをしないために記録するんだよ」
正朋は、箒を握ったまま頷いた。
「じゃあ、ぼく、箒の記録にする」
「うん。それはいい記録」
下部倉庫の中は、まだ湿気の匂いがした。
壁には小火の跡が薄く残り、床材の一部は修繕を待っている。古い棚を動かすと、埃と一緒に、忘れられた釘、空き瓶、色褪せた避難案内の紙が出てきた。
珠里が、その案内紙をそっと拾った。
「これ、私が若いころに貼ったものかもしれない」
紙は端が破れ、文字もかすれている。けれど、そこには「霧の日は灯台下へ」と読める部分があった。
「昔から、同じことをしていたのね」
優空が言う。
「忘れていただけで」
珠里は頷いた。
大輝は、その紙をすぐに捨てず、乾いた板の上に置いた。あとで写真を撮り、保存できるか理彩子に相談するつもりだった。
外では、看板が完全に外された。
作業員が板を下ろす音が、冬の空に少し大きく響いた。広い空がそこに現れ、旧灯台の白い壁が前よりはっきり見える。
可純は、黒っぽい服の袖をまくり、箒を持った。
「最後の日じゃない」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「初日」
そして、勢いよく掃き始めた。
勢いがよすぎて埃が舞い、勇がくしゃみをし、紗那が笑い、啓彰が「掃除は周囲への配慮を持って」と注意した。
可純はくしゃみをしながらも笑った。
「配慮って、難しいわね」
「だから当番表があります」
涼が言う。
掃除が一段落すると、大輝は持ってきたポットから緑茶を注いだ。紙コップではなく、店から運んだ湯呑みを使った。割れないように、紗那と広河が両手で慎重に配る。
旧灯台の下で飲む緑茶は、店で飲むものより少し冷めやすかった。海風があるからだ。けれど、その冷め方も、昔の領収書に残っていた「台風避難者用 緑茶」の文字とつながっている気がした。
さやが、灯台の上を見上げた。
「レンズの部品、来週には港に届く予定」
「いよいよだね」
大輝が言う。
「うん。でも、届いたあとが大変」
「最後じゃなくて、初日だから」
二人で同じ言葉を言い、少し笑った。
看板が外れた場所には、まだ支柱の跡が残っている。地面には泥もあり、倉庫には直す場所がいくつもある。けれど、何もかもが終わった場所ではなく、これから手を入れる場所として見えるようになっていた。
帰り際、正朋が短い箒を大輝に返した。
「ぼく、掃除機じゃなくてもできた」
「うん。今日の大事な記録だね」
大輝はそう言って、子ども領収書帳の新しいページに書いた。
正朋、箒で初当番。
金額はない。
けれど、受け取り印を押す価値のある、確かな仕事だった。




