第52話 喜びの受け取り印
子ども領収書帳は、最初、紗那のおやつ代の領収書一枚から始まった。
それが一週間も経たないうちに、なぜか大輝の店の一角を占領する厚さになっていた。
「これは、灯台を見に来たときに転んで泣かなかった代です」
広河が、絆創膏の空き袋を貼ろうとする。
「領収書ではありません」
啓彰が言う。
「でも、がんばった」
「それは記録できますが、支払いの証明ではありません」
「じゃあ、がんばり証明」
広河は勝手に新しい欄を作った。
大輝は、止めようとしてやめた。
子ども領収書帳は、正確な会計帳簿ではない。金額を管理するためのものでもない。小さな子どもが、自分の差し出したものを「町の役に立った」と思えるように貼る場所だ。
だから、そこには菓子のレシートだけでなく、早貴が書いた霧の地図の下書き、真喜子の聞き取り表の余白、正朋が握っていた迷子保護用品の古い領収書を写した紙、紗那の曲がった花丸、広河の衣装の切れ端まで貼られていた。
「でも、貼りすぎると閉じません」
道雄が横から言った。
「閉じない帳簿は管理上の問題です」
「町の気持ちが厚いんです」
勇が堂々と言う。
「厚すぎると棚に入りません」
道雄が即答した。
そのやりとりを聞きながら、大輝は帳面をそっと開いた。
ページの端に、紗那が書いた文字がある。
とうだいのため。
「灯」の字はまだ書けず、ひらがなだった。けれど、その下に押された花丸は、いつものように大きい。
大輝は思った。
喜びは、放っておくとすぐに照れに隠れる。たいしたことない、偶然だ、ついでだと、人は自分のしたことを小さくしてしまう。だから、受け取った側が「確かに受け取りました」と印を返す必要があるのかもしれない。
その日の午後、子ども領収書帳に大人たちが受け取り印を押す会が開かれた。
正式な会ではない。可純が勝手に「本日、喜びの受け取り式を行います」と宣言し、啓彰が「式次第がありません」と慌て、涼が「長くならないようにしましょう」と釘を刺しただけの、小さな集まりだった。
それでも、子どもたちは真剣だった。
広河は灯台姫の衣装を着て、判子係の席に座った。頭には紙の冠、手元には朱肉。冠には「受け取った」と大きく書かれている。
「字が強い」
なつほが笑う。
「強く受け取るの」
広河は胸を張った。
啓彰は列を整えた。
「一列に並んでください。押印の前に、何を受け取ったか一言述べてください。走らない。朱肉で遊ばない。正朋くんは判子を口に入れない」
「入れないよ」
正朋は頬を膨らませた。
「過去の実績を踏まえています」
啓彰の言葉に、大人たちが笑った。
最初に優空が帳面の前に立った。
「私は、紗那ちゃんの花丸を受け取りました。花丸があると、古い紙も寂しくないわ」
紗那は顔を赤くして、足元を見た。
優空は小さな判子を押し、横に「ありがとう」と書いた。
次に珠里が、真喜子と早貴の聞き取り表に印を押した。
「あなたたちが聞いてくれたから、昔の話が思い出話で終わらずに済みました。年を取ると、自分の覚えていることが役に立つのか不安になるの。でも、聞いてもらえると、まだ町に置いていけるものがあると思える」
真喜子は口を結び、早貴は地図の端を握った。
「受け取りました」
珠里はそう言って、二人の名前の下に丁寧な字で書いた。
勇は非常食のページに印を押した。
「俺は、子どもたちの『コロッケを焦がしても怒らない心』を受け取りました」
「焦がさないでください」
啓彰が即座に言う。
「はい」
勇は素直に返事をした。
理彩子は、正朋が描いた掃除機の絵のページを見て、少し困った顔をした。
絵の掃除機は、怪獣のように大きく、口から紙を吸い込んでいる。横には「もうすわない」と書かれていた。
「これは、安全への強い意思として受け取ります」
「強い?」
正朋が聞く。
「強いです。でも本物には近づかないでください」
「はい」
正朋は小さく頷いた。
なつほは、広河の衣装の切れ端を見て、目を細めた。
「これ、縫い目が曲がっているけど、ほどけにくい」
「灯台姫だから」
「うん。まっすぐじゃなくても、ほどけなければいいこともある」
なつほはそう言って、印の横に「ほどけない勇気」と書いた。
広河は意味がわからない顔をしたが、なんとなく誇らしそうに座り直した。
大輝の番が来た。
彼は帳面の最初のページを開いた。
紗那のおやつ代の領収書。端が少し曲がり、のりがはみ出している。金額は小さい。けれど、この一枚がなければ、子ども領収書帳は生まれなかった。
大輝は判子を持ち、しばらく止まった。
「大輝くん、長い」
可純が言う。
「大事に押してるんです」
大輝は答えた。
そして、領収書の横に印を押した。
「受け取りました。灯台のために、何かしたいと思ってくれた気持ちを」
紗那は、口をへの字にした。
泣きそうなのをこらえている顔だった。
「おやつ、へった」
「うん」
「でも、とうだい、うれしい?」
大輝は少し考えた。
「灯台はしゃべらないけど、町の人はうれしい」
「じゃあ、いい」
紗那はそう言って、花丸をもう一つ押そうとした。
「一つだけです」
啓彰が止める。
店中が笑った。
最後に、さやが帳面の空いているページに小さな紙を貼った。
海外の職人から届いた、レンズ修復部品の仮受領書の写しだった。
「子どもたちの歌を、向こうの職人さんも受け取ってくれたよ」
航貴がスマートフォンから短い音声を流した。職人の声は日本語ではなかったが、最後に少したどたどしい発音で「ありがとう」と聞こえた。
子どもたちは目を丸くした。
広河が小さな声で言う。
「灯台姫、外国にも行った?」
「声だけね」
さやが笑う。
大輝は帳面を閉じようとして、道雄に止められた。
「乾いてからです。朱肉が移ります」
「現実だ」
可純がつぶやく。
緑茶の湯気が上がる中、帳面はしばらく開いたまま置かれた。
そこには、正確な会計では測れないものばかりが並んでいる。けれど、どれも受け取られ、名前を呼ばれ、印を押された。
大輝は、静かに思った。
喜びは、成功の大きさで決まるのではない。
誰かが差し出した小さなものを、確かに受け取ったと示すこと。その繰り返しが、町を少しずつ温めていく。
帳面の朱肉が乾くころ、外の空は淡く晴れていた。
旧灯台の上のガラス室はまだ修理中で、光は戻っていない。
それでも、子ども領収書帳のページには、もう小さな明かりがいくつも押されていた。




