第56話 霧の中の灯台と星のような君
一月上旬の朝、北町に霧が出た。
年が明けて、商店街の正月飾りが少しずつ外されても、冬の霧だけは律儀に戻ってくる。川と海のあいだを白く満たし、アーケードの端をぼかし、旧灯台の輪郭を柔らかく包む。
大輝は店の戸を開ける前に、灯台を見上げた。
光は、霧の中で強く主張するのではなく、そこにいると知らせる程度にともっていた。派手な光ではない。けれど、道に迷いそうな人が顔を上げたとき、北町の端はあちらだと教えるには十分だった。
彼は、白い息を吐いた。
店に入ると、昨日洗った湯呑みが棚に並んでいる。新しい棚には栗皮茶色の古いファイル、子ども領収書帳、緑茶の合意書の控え、非常食の入れ替え表が収まっていた。
まだ、何も終わっていない。
床材の本修繕は来週から。保険の正式な返事は月末。行政の保存制度の申請は、麻央が追加書類を準備中。道雄の表には、未記入の欄がいくつもある。
それでも、大輝は不思議と焦っていなかった。
未記入は、失敗ではない。
これから書ける余白だった。
鍋に湯を沸かし、緑茶の準備をしていると、最初に来たのは紗那だった。
手には赤いペン。頬には、寒さでできた赤い丸。
「おはよう」
「おはよう。今日は花丸、何個まで?」
大輝が聞くと、紗那は真剣に考えた。
「たいせつなところに、一こずつ」
「成長してる」
後ろから可純が現れた。
「成長すると、花丸が減るの?」
「質が上がるんです」
啓彰がランドセルを背負ったまま答えた。
彼は冬休みの宿題を持ってきていた。題名は「北町の灯台を守るために必要な礼儀」。大輝は少しだけ内容が気になったが、本人がまだ見せないと言うので、緑茶だけ出した。
広河は、灯台姫の衣装を少し直していた。
以前のような長い裾ではなく、動きやすい短さになっている。胸には「手をつなぐ係」の小さな札。冠は毛糸の帽子に変わっていた。
「冬の姫は寒いから」
広河はそう説明した。
一彰は、今日の目標を店の入口に貼った。
一、霧の日は灯台を見る。
二、緑茶をこぼさない。
三、終わりじゃなくて続き。
「三番、いいね」
大輝が言うと、一彰は少し得意げに頷いた。
正朋は、今日は掃除機ではなく、小さな布巾を持っていた。
「ぼく、棚をふく」
「ファイルは大人と一緒にね」
「うん。すわない。ふく」
正朋の言葉に、店の中が笑った。
優空と珠里も来た。
優空は正月の残りの小さな菓子を持ち、珠里は昔の写真を一枚持っていた。若いころの商店街と、霧の中に立つ灯台。写真の隅には、古い茶舗の看板が写っている。
「これも、棚に置いていいかしら」
珠里が言う。
「もちろん」
大輝は写真を受け取り、保護袋を用意した。
勇は非常食の期限表を持ってきた。
「今月末に入れ替える分、昼食会で使える。コロッケは別枠で」
「別枠が多いですね」
道雄が入ってくるなり言った。
「人生には別枠が必要なんだ」
「記録には根拠が必要です」
二人のやりとりを、真喜子と早貴が笑いながら聞いていた。二人は霧の日の見え方を聞くため、朝の通勤者に声をかけてきたらしい。早貴の地図には、新しい印が増えていた。
「灯台の光、思ったより横の路地からも見えます」
早貴が言う。
「でも、魚屋さんの裏は見えにくいです」
真喜子が付け足す。
「じゃあ仮灯の位置、次の当番会で相談だね」
大輝が言うと、二人は嬉しそうに頷いた。
麻央は遅れて来た。
手には、また厚い封筒がある。
可純が見た瞬間、緑茶を飲む速度を上げた。
「書類?」
「書類です」
「霧より濃い」
「でも、前より読めるようになっています」
麻央はそう言って、封筒を新しい棚の進行中箱へ入れた。
理彩子となつほ、幸平、涼、航貴も次々に顔を出した。灯台の点検、模型説明、部品の確認、当番交代、歌の練習。誰も長くはいられない。仕事や学校や家の用事がある。それでも、短い時間を持ち寄って、町の紙は少しずつ増えていく。
大輝は、緑茶を淹れ続けた。
湯気が上がる。
誰かが椅子を引き、誰かが紙をめくり、誰かが笑う。店は、以前よりずっと忙しい。けれど、大輝の胸にあった肩身の狭さは、少し薄くなっていた。
主夫であること。
家計を見ること。
弁当箱を洗うこと。
人の話の前に湯呑みを置くこと。
領収書を一枚ずつ読むこと。
それらは、派手な肩書きにはなりにくい。けれど、誰かが帰る場所を守るために、確かに必要な仕事だった。
さやが、出勤前に店へ寄った。
コートの襟を立て、片手に鞄、もう片手に小さな紙を持っている。
「大輝、これ」
彼女は少し悪戯っぽい顔で、領収書を差し出した。
大輝は受け取って、但し書きを見た。
灯台維持費、家族割なし。
金額の横には、さやの字で小さく「緑茶代含む」と書き足されていた。
大輝は吹き出した。
「家族割、ないんだ」
「町の灯台だから」
「厳しい」
「でも、領収書は出ます」
二人は笑った。
可純が横から覗き込み、すぐに大声を出した。
「それ、いい! 町内一律、家族割なし!」
「標語にしないでください」
涼が言う。
「前口上には使える」
航貴が真面目に言う。
「使わないで」
大輝とさやが同時に言ったので、子どもたちが笑った。
さやは出勤時間を気にして時計を見た。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
大輝は、当たり前の言葉を当たり前に返した。
それだけのことが、少し前より温かかった。
さやが店を出ると、霧の中で旧灯台の光が薄く揺れた。彼女は一度だけ振り返り、その光を見てから駅の方へ歩いていった。
航貴が、子どもたちと小さく歌い始めた。
星のような君。
朝の店で歌うには少し大げさな題名だ。けれど、正朋が歌詞を間違え、紗那が花丸を振り、広河が手をつなぐ係としてみんなの袖をつかみ、啓彰が礼儀正しく音程を外すと、その大げささは北町の日常にちょうどよくなった。
大輝は新しい棚に、さやの領収書を入れた。
古いファイルの隣ではなく、今日の記録の箱へ。
過去を守る棚と、今日を受け取る箱。その両方が、手の届く高さにある。
外では霧が少しずつ動いている。
灯台の光は、その中で消えずに残っていた。
誰かの帰り道を守る仕事は、名前を変えながら続いていく。
領収書屋さん。
緑茶を淹れる人。
家族の弁当箱を洗う人。
子どもの花丸を受け取る人。
古い紙の端から、町の喜びを読み直す人。
大輝は急須を持ち、店の中を見回した。
「緑茶、足りるかな」
「足りません」
道雄が即答した。
「そこは計算しないでほしかった」
勇が言う。
「非常食の棚にお茶菓子はあります」
優空が微笑む。
「受発注表に記録してください」
道雄が言う。
「花丸は?」
紗那が聞く。
「大切なところに、一つ」
大輝が答える。
紗那は頷いて、今日の記録帳の端に、小さな花丸を押した。
霧の中の灯台は、窓の向こうで静かに光っている。
大輝はその光を見上げ、笑った。
北町商店街の朝には、今日も緑茶の匂いがあった。




