第49話 さやのレンズ
さやが修復レンズの見積書を持ってきたのは、話し合いの三日後だった。
外は霧ではなく、細い雨だった。商店街のアーケードには、栗皮茶色の旗が濡れない程度に揺れている。大輝の店の入口では、紗那が描いた花丸の紙が、湿気で少し反っていた。
さやは昼休みを抜けてきたのだろう。黒いコートの肩に雨の粒をのせ、息を整えるより先に、鞄から透明なファイルを出した。
「遅くなってごめん。今日、正式な協力書が届いた」
大輝は湯呑みを置く手を止めた。
ファイルの中には、英語と日本語が混ざった書類、簡単な図面、写真が入っていた。写真には、灯台のガラス室に収まるはずの丸いレンズの一部が写っている。古い飴色の縁、細い傷、光を受けると虹のように割れそうな曲面。
大輝はそれを見た瞬間、自分の胸の奥でずっと尖っていたものが、雨に濡れた紙のように少しずつ柔らかくなるのを感じた。
「これが、さやがやってたこと」
「うん」
さやは、椅子に座る前に深く頭を下げた。
「隠していて、ごめん」
店にいた可純が、いつものように口を開きかけた。けれど珠里がそっと袖を引いたので、可純は口をへの字にして黙った。勇もコロッケの袋を開ける音を止め、道雄は電卓の蓋を閉じた。子どもたちは、啓彰の号令で「夫婦の話は聞こえないふり」をすることになったが、全員、背中で聞いていた。
大輝は書類を一枚ずつ見た。
輸送費、修復費、検査費、保険料。数字は思ったより大きかった。けれど、再開発会社が出していた取り壊し見積もりほどではない。さやの手書きのメモには、港の倉庫を一時保管場所にする案、商店街で分担できる支払い時期、海外の職人がオンラインで状態確認に応じる日時まで、細かく書かれていた。
「いつから?」
「小火の少し前。灯台のガラス室を見に行ったとき、レンズが欠けているのを見つけて。理彩子さんに相談したら、光を戻すなら専門の人に見てもらったほうがいいって言われた」
「どうして、俺に言わなかったの」
責める声にはしたくなかった。けれど、声の下のほうにまだ硬いものが残っていた。
さやは、その硬さを避けなかった。
「大輝が、灯台のことでいっぱいいっぱいだったから。家のことも、お店のことも、町の人の話も、全部受け止めていたでしょう。私まで面倒を増やしたくなかった」
「それで、俺は勝手に変な心配をして、勝手に傷ついてた」
「うん。それは、私の隠し方が悪かった」
さやはそこで一度、唇を結んだ。
「でも、本当はもう一つある。大輝が主夫って言われて、軽く見られるたびに、私が先回りして何かを取ってきたら、大輝の仕事まで私が説明してしまう気がした。あなたが見つけた価値を、私が外から飾るみたいになるのが嫌だった」
大輝は、反射的に否定しようとした。
けれど、言葉は出なかった。
領収書の束を読んでいるとき、大輝はいつも思っていた。支えた人の名前は、たいてい表に出ない。誰かの弁当箱を洗った人、緑茶を淹れた人、泣いている子の靴下を探した人。そこに金額がなければ、世の中は仕事と呼ばない。
けれど、さやもまた、大輝が見えなくされないように、違う形で悩んでいたのだ。
「俺、さやが航貴くんと……」
「うん」
「言いにくいんだけど」
「聞いた」
さやが小さく笑った。
「可純さんから、かなり脚色された状態で」
「脚色?」
可純が鼻を鳴らした。
「私は、愛の調査報告をしただけよ」
「可純さん」
啓彰がぴしりと立ち上がった。
「夫婦の話は聞こえないふりです」
「はい」
可純が小学生に叱られて正座したので、店の空気が少しほどけた。
さやは笑いながらも、目元だけは真剣だった。
「航貴さんには、曲の仮音源をもらっていたの。海外の職人さんに、町でどう使われる光なのか説明したくて。数字と図面だけじゃなくて、子どもたちが歌う声を送ったら、向こうの人が協力してくれるかもしれないと思って」
大輝はファイルの最後に入っていた紙を見た。
そこには、職人からの短い手紙が翻訳されていた。
古いものを直すとは、壊れた部分だけを見ることではない。その光を待っている人がいるなら、できる限り手を貸したい。
そんな意味の文章だった。
大輝は、指先で紙の端を押さえた。
「俺、ちゃんと言いたい」
「うん」
「ありがとう。さやが、町のために動いてくれていたこと。俺の知らないところで、灯台の光を戻そうとしてくれていたこと。今度は、ちゃんと受け取りたい」
さやの顔が、少しだけ崩れた。
泣くほどではない。けれど、毎日きちんと結んできた紐が、ようやくゆるんだような顔だった。
「私も、大輝が作っている場所を、ちゃんと見ているって言いたかった。領収書をまとめるだけじゃない。ここに来る人が、支払ったものを忘れないでいられる場所を作ってる」
大輝は、湯呑みに緑茶を注いだ。
湯気が二人の間に上がる。
夫婦の誤解は、それだけで完全に消えたわけではなかった。言わなかった時間は残る。寂しかった夜も、疑ってしまった自分の嫌な部分も、なかったことにはならない。
でも、紙に残った数字と同じように、残ったものを一緒に読み直すことはできる。
航貴が、入口からそっと顔を出した。
「すみません、入っていい空気ですか」
「悪い空気のときに入ってくるのが、歌の上手いお兄さんの仕事でしょ」
可純が言う。
「その職名、履歴書に書けないんですよ」
航貴は苦笑して、手にした封筒を掲げた。
「子どもたちの合唱音源、修正版です。音程は少し迷子ですが、気持ちは灯台まで届いています」
「迷子って言葉は、正朋の前では慎重に使ってください」
啓彰が言うと、正朋が椅子の下から顔を出した。
「ぼく、もう迷子じゃない。仮灯のほうに行ける」
「行かないで」
大人全員が同時に言った。
店に笑いが広がった。
さやは、その笑いの中で書類を机の真ん中へ置いた。
「これは、私だけのものじゃない。灯台を壊さないための材料の一つにして」
大輝は頷いた。
彼は領収書の束の横に、レンズの協力書を置いた。古い茶色の紙と、新しい白い紙が並ぶ。
どちらも、光を残すために誰かが動いた記録だった。
外の雨は弱まり、アーケードの端で栗皮茶色の旗が小さく揺れた。
大輝はその色を見て、思った。
町は、劇的に救われるわけではない。
ただ、隠れていた手が、一つずつ見える場所に出てくる。
それだけで、壊すしかないと思われていたものに、直し方が生まれていくのだ。




