第50話 灯台を壊さないための現実
麻央が保存案の説明を始めたとき、可純は最初の三分で眠そうな顔になった。
場所は大輝の店だった。表の机を三つつなげ、真ん中に灯台模型を置き、周囲に領収書、見積書、聞き取り表、意見箱の紙を並べている。壁には早貴の霧の灯台マップが貼られ、隣には一彰が書いた「今日こそ現実を見る」と大きな紙が貼られていた。
「現実って字、ちょっと怖い」
広河が灯台姫の衣装の裾を握る。
「怖くありません。現実は、逃げると追いかけてきますが、座って話せば書類になります」
啓彰がきっぱり言った。
「小学生の人生観じゃないわね」
可純は感心したように言ったが、その手は緑茶の湯呑みに伸びていた。
麻央はノートパソコンを開き、深呼吸した。
「旧灯台を残すためには、感情の説明だけでは足りません。必要なのは、修繕費、維持費、管理体制、保険、安全確認、利用目的。この六つです」
「六つもあるの」
勇が顔をしかめた。
「コロッケなら、揚げる、食べる、笑うの三つで済むのに」
「その前に、原材料、温度管理、賞味期限、配送、アレルギー表示があります」
道雄が即座に言う。
勇は胸を押さえた。
「俺の仕事まで現実にしないでくれ」
笑いが起きたが、麻央はそこで笑いに流されなかった。
「まず修繕費です。さやさんのレンズ修復見積もり、理彩子さんの配線点検、なつほさんの下部倉庫模型から出した床材の概算、幸平さんの部品調達案を合わせます。取り壊しより安い可能性はありますが、ただではありません」
麻央が数字を読み上げると、部屋の空気が少し重くなった。
反対派の人たちは「残したい」と言ってきた。けれど、金額が具体的になると、残す言葉にも重さが出る。賛成派だった店主の一人が、腕を組んだまま黙っていた。
大輝は、その沈黙を急いで埋めなかった。
緑茶を足し、湯呑みを置くだけにした。
「次に、維持費です。電気代、簡易清掃用品、非常食の入れ替え、保険料。ここを町内会費だけに頼ると、また不満が出ます」
「募金箱があります」
広河が手を上げた。
「募金箱は大事。でも、募金だけだと、月によって足りないことがあります」
麻央は優しく答えた。
広河は唇を尖らせたが、すぐに一彰の作戦表を見て言った。
「じゃあ、募金箱は気持ち係」
「うん。気持ち係。お金の根本は、別に決めよう」
麻央がそう言うと、広河は納得した顔で「気持ち係」と紙に書いた。
次に涼が立った。
「管理体制は、大人が責任を持ちます。子どもたちは手伝えますが、鍵の管理、夜間の見回り、悪天候時の判断は大人です」
「私、灯台姫なのに鍵を持てないの?」
広河が不服そうに言う。
「灯台姫は、鍵より大事なものを持ってください」
「なに」
「誰かの手」
涼が静かに言うと、広河は少し考えてから、正朋の袖をつかんだ。
「じゃあ、これ持つ」
「ぼくは物じゃない」
正朋が真顔で言い、また笑いが起きた。
涼は笑いながらも、紙の上では厳しかった。
鍵は三本。大輝の店、町内整理役の涼、商店街会長宅に置く。子どもだけで下部倉庫に入らない。夜間は見回り当番を二人以上にする。霧が濃い日は、灯台周辺に仮灯を追加する。
理彩子が続けた。
「安全確認は定期的に必要です。配線、湿気、床材、火気の持ち込み。最初の小火は、灯台が勝手に危険になったのではなく、古い設備を雑に使った結果でした。同じことをしない仕組みが必要です」
「掃除機は?」
正朋が小さく手を上げた。
部屋中の視線が集まる。
「正朋くんは、掃除機の一メートル以内に近づかない約束です」
啓彰が言った。
「一メートルってどのくらい」
紗那が両手を広げた。
「正朋くん三人分くらい」
勇が適当に言い、道雄に「単位として不正確です」と訂正された。
なつほは模型を指した。
「下部倉庫は、全部を自由に使うのではなく、区画を分けましょう。非常食棚、毛布棚、領収書相談の箱、子ども避難時の座る場所。動線を決めれば、物が増えても危なくなりにくい」
彼女が細い棒で模型の中を示すと、子どもたちは真剣に覗き込んだ。以前はラムネを詰められた模型が、今は町の説明道具として働いている。なつほは少し照れくさそうだった。
勇は非常食管理を引き受けた。
「冷凍コロッケだけだと偏るから、常温のものも置く。水、缶詰、アレルギー対応の菓子。期限が近づいたら、子ども食堂で使って入れ替える」
「勇さんがまともなことを言っている」
可純が目を丸くした。
「俺だって食品の前ではまともです」
「人の前でもお願い」
珠里が穏やかに言ったので、勇は「はい」と背筋を伸ばした。
道雄は受発注管理を申し出た。
「非常食と消耗品は、購入日、期限、保管場所を表にします。上乗せや無駄が出ないように、数字の透明性を保ちます」
「数字が怒らないように」
早貴が言うと、道雄は真面目に頷いた。
「はい。数字は、扱いを間違えると怒ります」
最後に、利用目的の話になった。
灯台は、単に古い建物を残すために残すのではない。下部倉庫は、非常食の管理、霧の日の一時避難、子どもの待機、領収書相談、緑茶休憩の場所になる。灯台の光は、観光用の派手な演出ではなく、霧の日に町の端を知らせる静かな目印として戻す。
麻央は説明を終えると、紙を一枚めくった。
「ここまで決めても、問題は残ります。誰かに負担が偏れば、灯台はまた嫌われます。だから、当番は小さく、記録は残し、できない日は交代できるようにする。保存は根性では続きません」
可純が、眠そうだった顔を上げた。
「根性だけじゃだめなの」
「だめです」
麻央が即答した。
「でも、根性が一滴もないと、書類を書く前に心が折れます」
「じゃあ、私の出番あるじゃない」
「あります。場が重くなったときに、必要以上に立ち上がる係です」
可純は満足げに胸を張った。
「必要以上なら得意」
大輝は、そのやりとりを見ながら、古い領収書の束に手を置いた。
昔の人たちも、きっとこうだったのだと思う。格好よく町を守ったわけではない。お金が足りないと渋い顔をし、当番表で揉め、誰かの失敗に笑い、緑茶を飲んで、また紙に名前を書いた。
感情だけでは残らない。
けれど、感情がなければ、残すための現実には向き合えない。
外では、冬の雨がやんでいた。
商店街の旗に、小さな雫が光っている。まだ灯台の光ではない。けれど、直すための道筋は、紙の上に現れ始めていた。




