第48話 可純、静かに宣戦布告する
可純が立ち上がった時、会場は身構えた。
大輝も身構えた。
啓彰に至っては、すでに「発言は短くお願いします」と書いた紙を手に持っていた。
しかし、可純はその紙を見ると、珍しく頷いた。
「分かってる。今日は短くする」
「本当ですか」
「小学生、信用がないって残酷ね」
そう言って、可純は前へ出た。
いつもなら、胸を張り、片手を上げ、誰よりも大きな声で言葉を投げる。けれど、その日の可純は、湯呑みを持つように両手を前で重ねていた。
「最初に言っておきます」
声は大きくない。
それでも、よく通った。
「私は、再開発会社の人を敵にしたいわけじゃありません」
会場の空気が少し動いた。
再開発会社の担当者も、顔を上げる。
「もちろん、腹は立ちました。資料の出し方とか、日程変更の紙が看板の裏にあったこととか、危険建物って言い方とか。腹は立ちました。そこは取り消しません」
「短く」
啓彰が小声で言う。
「今のは必要な前置き」
可純は負けずに返したが、声は荒くならなかった。
「でも、私が本当に嫌だったのは、灯台を壊すことだけじゃないんです。灯台に関わった人たちのことが、最初からなかったみたいに扱われることが嫌だった」
可純は、栗皮茶色のファイルを見た。
「私、定年したばかりの頃、けっこう参ってました」
大輝は息をのんだ。
可純が、自分の弱い話を人前でするのは珍しい。
「毎日行く場所がなくなるって、思っていたよりきついの。朝起きても、急ぐ理由がない。電話も鳴らない。誰かに必要とされている感じが、急に薄くなる。自分で選んだ定年なのに、町の中で自分だけ余った部品みたいな気持ちになった日がありました」
幸平が静かに目を伏せた。
勇は、ふざけた顔をしなかった。
優空と珠里は、何も言わず可純を見ていた。
「その時、灯台の掃除当番に誘われたんです。誰でもいいから来てって。私は、誰でもいいなら私でもいいかと思って行きました」
可純は少し笑った。
「行ったら、床は湿ってるし、ほこりはすごいし、緑茶は薄いし、勇さんの冷凍コロッケはその時から焦げてた」
「長年の味です」
「黙って」
勇はすぐ黙った。
「でも、帰る時に、優空さんが言ったんです。『助かりました』って。それだけで、私、次の朝起きる理由ができたんです」
優空は驚いたように瞬きをした。
「そんなこと、言いましたか」
「言ったの。言った側は忘れるのよ。受け取った側は、けっこう覚えてる」
大輝は、子ども領収書帳の受け取り印を思い出した。
ありがとうと書かれた一行。花丸。曲がった字。喜びは、受け取ったと示されて、初めて保護される。
「だから、私は灯台に救われたんじゃありません。灯台を掃除する場所に、私の手が必要だと言ってくれた人たちに救われたんです」
可純は、再開発会社の担当者へ向き直った。
「あなたが悪人だって言いたいんじゃありません。新しい仕事を作ろうとしているのも、町を良くしようとしているのも、嘘じゃないのかもしれない。でも、その中で、誰かの手の跡を『古いから』『危ないから』『使われていないから』とまとめて消す考え方には、私は反対します」
そこで、可純は少し息を吸った。
大輝は、初めて見た気がした。
声を張り上げない可純の強さを。
「私は、町の記録を消す考え方に、宣戦布告します」
会場は静まり返った。
いつものような拍手は、すぐには起きなかった。
その代わり、誰かが小さく鼻をすすった。珠里が湯呑みを置く音がした。真喜子が聞き取り表の端を指で押さえ、早貴が地図を畳まずに見つめていた。
再開発会社の担当者は、長い沈黙のあと、言った。
「持ち帰って、再検討します」
それは、勝利宣言できる言葉ではなかった。
保存が決まったわけでもない。費用も、管理も、まだ何も終わっていない。
けれど、可純は頷いた。
「持ち帰ってください。私たちも、持ち帰ります。怒りだけじゃなくて、維持費も、当番も、保険も、全部」
「可純さんが現実的なことを言った」
勇がつぶやく。
「明日は雪かもしれません」
道雄が言った。
「霧で十分よ」
可純はそう言って、ようやくいつもの顔に戻った。
大輝は、緑茶を配った。
賛成派だった店主にも、反対派の人にも、再開発会社の担当者にも。同じ急須から注いだ湯気が、それぞれの前でゆっくり上がる。
その場で決まったことは、まだ少ない。
けれど、誰も町を嫌いにしないための話し合いは、確かに次へ進んだ。
可純は湯呑みを両手で包み、照れ隠しのように言った。
「で、今の発言、短かったでしょ」
啓彰は紙を見て、少し考えた。
「長かったですが、必要でした」
可純は、負けたような、勝ったような顔で笑った。
大輝も笑った。
霧は、窓の外でまだ白く残っている。
その向こうにある旧灯台は見えない。
けれど、見えないからこそ、そこに光を残す理由が、少しずつ言葉になっていた。




