第44話 星のような君を歌って
霧の中で、人の名前を呼ぶ声は、思ったより遠くへ届かなかった。
「正朋くん!」
大輝の声は、二軒先のシャッターに当たり、すぐに白くほどけた。
さやが隣を走る。走ると言っても、足元は見えにくく、濡れたタイルが滑る。二人は手を離さないように、自然と歩幅を合わせた。
「こっちは八百屋さんの裏です」
早貴が地図を抱えて指示を出す。
真喜子は聞き取り表の裏に、探した場所を鉛筆で印をつけていた。こんな時でも記録している。その姿を見て、大輝は胸が痛くなった。記録は冷たい作業ではない。二度同じ場所で迷わないための、必死な手つきだった。
商店街の人々は、自然に役割を分けていた。
幸平は路地の奥や倉庫の影を見て回り、理彩子は電気のコードや水たまりを確認しながら危ない場所を避けるよう声をかけた。なつほは、小さな足が入り込めそうな隙間を見つけるたびに膝をついた。勇は大声で呼びすぎて咳き込み、道雄に「喉の在庫管理が雑です」と言われていた。
可純は、正朋の母親の横についていた。
いつものように先頭で叫ぶのではなく、震える肩を支えるように、すぐ隣を歩いている。靴紐がほどけた母親に気づくと、可純は何も言わず膝を折った。霧で湿った地面に片膝をつき、黙って結び直す。
大輝はそれを見て、胸の奥が少し熱くなった。
可純は、こういう時に一番早い。
「正朋!」
正朋の母親の声が、かすれた。
その時、集会所のほうから小さな歌声がした。
最初は誰かの鼻歌のようだった。霧の厚みに包まれて、音程だけがふわりと浮いてくる。
航貴だった。
スピーカーは使っていない。マイクもない。けれど、彼の声は、不思議と商店街の壁にぶつかりながら、細い道を選ぶように伸びてきた。
――星のような君。
大輝は足を止めた。
その曲名を初めて見た時、胸の奥へ刺さった棘。さやの財布から出た領収書。電話口の歌声。浮気の心配。知らされなかった寂しさ。
その全部が、霧の中で別の意味へ変わっていく。
これは、誰かを隠すための歌ではなかった。
誰かを帰すための歌だった。
「正朋くん、歌、分かるかな」
さやが息を整えながら言った。
「保護隊の子どもたち、みんなで練習していました」
大輝は答えた。
遠くから、紗那の声がした。
「ほーしーのー!」
「紗那ちゃん、歌詞が先に走ってます!」
啓彰の注意が続いた。
広河は栗皮茶色の旗を振っていた。短く直した灯台姫の衣装は霧でしっとり濡れ、裾が足に貼りついている。それでも広河は、旗を高く上げた。
「姫、光るー!」
「走らない約束です!」
「姫、歩いて光る!」
可純なら笑っただろう。けれど、大輝は笑えなかった。小さな子どもたちが、怖さを飲み込んで声を出している。
航貴の歌に、子どもたちの声が重なった。
正朋がどこかで聞いているかもしれない。そう思うだけで、歌はただの音楽ではなくなった。霧の中に一本ずつ細い紐を投げるような行為だった。
大輝とさやは、灯台へ向かう細い坂道に入った。
そこは、旧灯台の下部倉庫へつながる道だった。昼間でも薄暗く、霧の日には商店街の明かりが届きにくい。足元の石段は湿って、ところどころ苔が光っていた。
「正朋くん!」
さやが呼ぶ。
返事はない。
ただ、仮灯のほうから、かすかにすすり泣く声がした。
大輝は息を止めた。
「いた」
さやが先に動いた。
灯台の下部、古い扉の脇に、小さな影がしゃがみこんでいた。正朋だった。両手で何かを握りしめ、膝を抱えている。髪も上着も霧で湿っていたが、怪我はないように見えた。
「正朋くん」
大輝が近づくと、正朋はびくっと肩を上げた。
「こわかった」
「うん。怖かったですね」
「歌、きこえた」
正朋はしゃくりあげながら言った。
「灯台、ちかいって、わかった」
大輝は、正朋の肩に自分の上着をかけた。さやがすぐに正朋の母親へ連絡を入れる。
正朋の手の中に、古い紙があった。
濡れて、少し破れかけている。けれど、正朋はそれを必死に握っていた。
「これ、落ちてた」
「紙?」
「なくしたら、怒られると思って」
大輝は紙を受け取らなかった。無理に開けば破れてしまう。
代わりに、正朋の手を包むように支えた。
「怒りません。持っていてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた正朋は、また泣いた。
正朋の母親が駆けつけ、子どもを抱きしめた。可純はその場でへたり込みそうになり、勇に支えられた。勇は支えながら自分も泣いていたので、二人まとめて道雄に「重心が不安定です」と注意された。
航貴の歌声は、まだ遠くで続いていた。
霧の中で、旧灯台の仮灯が弱く瞬いている。
大輝は、正朋の手に残った古い紙を見た。
それはただの紙ではない。
また、誰かが帰ってくるための手がかりだった。




