第43話 霧が降りる
説明会当日の午後、北町商店街の空気は、朝から少し湿っていた。
大輝は店の長机に並べた資料を、もう一度だけ鞄へ入れ直した。麻央の申請案、道雄の見積もり比較、理彩子の配線調査、なつほの模型の写真、勇の非常食搬入記録、真喜子と早貴の聞き取り表。紙の角をそろえるたびに、手のひらへ小さな緊張が積もっていく。
店の外では、栗皮茶色の旗がほとんど揺れていなかった。
風がない。
そのかわり、川のほうから白いものが低く流れてくる。
「霧、早くない?」
さやがドアの外を見た。
「天気予報では夜からだったはずです」
大輝は答えたが、自分の声が少し硬いことに気づいた。
旧灯台は、商店街の北端にぼんやり立っている。まだ夕方と言うには早い時刻なのに、上のガラス室の輪郭がにじんでいた。仮灯は点いているが、光は霧に吸われ、店先まで届く前に細くほどけてしまう。
会場は、商店街の集会所だった。大輝たちは資料を抱え、少し早めに向かうことにした。
可純は前を歩きながら、いつもより静かだった。静かすぎて、大輝は逆に不安になる。
「可純さん、体調悪いんですか」
「失礼ね。作戦よ」
「作戦名は」
「まだ決めてない」
「それは作戦ではありません」
啓彰が横からきっぱり言い、可純は「小学生に正論で刺される夕方って何」と胸を押さえた。
紗那は大きな花丸スタンプの入った小袋を抱え、広河は短く直した灯台姫の衣装で歩いている。一彰は作戦表を丸めて握り、真喜子と早貴は、聞き取り表を濡らさないよう胸に抱えていた。
「正朋くんは?」
大輝が聞くと、勇が後ろを振り返った。
「お母さんと来るって。途中で合流するはずだ」
「掃除機は持っていないでしょうね」
「持ってきたら俺が没収する」
「勇さんが没収すると、非常食の箱に入れて忘れます」
道雄の指摘に、勇は反論できず、なぜか自分の鞄の中を確認した。
笑いはあった。
けれど、霧はどんどん濃くなる。
商店街の看板が、二軒先から読めなくなった。店の明かりは白くにじみ、人の影が近づくまで誰か分からない。霧は音まで柔らかく包み、足音の方向を曖昧にした。
集会所に着くころには、入り口前に集まった人々の声が、いつもより低く聞こえた。
再開発会社の担当者は、入口の脇で資料を配っていた。背広の肩にも細かな水滴がついている。
「本日はお足元の悪い中――」
そう言いかけたところへ、可純が一歩前に出た。
大輝は、また大声が出ると思って身構えた。
だが、可純は担当者の手元の資料を受け取っただけだった。
「ありがとうございます」
丁寧すぎる声に、担当者のほうが一瞬戸惑った。
集会所の中は、すでに賛成派も反対派も入り混じっていた。壊したほうが安全だと言う人。残したいけれど費用が怖いと言う人。どちらにも頷けず、ただ腕を組んでいる人。
大輝は、鞄から湯筒を出した。
「ここで緑茶?」
さやが小声で聞く。
「配るかは分かりません。でも、持っていないと落ち着かない」
「大輝くんらしい」
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
説明会は、予定より五分遅れて始まった。
担当者は、灯台の危険性、今後の土地利用、新しい記念碑の計画を淡々と話した。スクリーンには、白い石の記念碑が映し出されている。滑らかで、立派で、どこにも汚れがない。誰かが駆け込む余白も、濡れた靴を脱ぐ場所も、緑茶の湯呑みを置く棚もなかった。
麻央が手を上げようとした時だった。
集会所の後ろの扉が、勢いよく開いた。
正朋の母親が立っていた。顔色がない。
「正朋、来てませんか」
その一言で、会場の空気が凍った。
大輝は立ち上がった。
「途中まで一緒では」
「角の八百屋さんの前で、旗を見てると思ったんです。ほんの少し、目を離したら」
正朋の母親の声が震えた。
霧の中で、子どもが消えた。
さっきまで灯台を壊すか残すかで張りつめていた声が、一瞬で消えた。賛成派も反対派も、再開発会社の担当者も、誰も次の資料を見ていなかった。
「説明会は中断しましょう」
涼がすぐに言った。
担当者は何か言いかけたが、会場の視線を見て口を閉じた。
「班を分けます」
啓彰が子どもとは思えない声で言った。
「大人の方は、勝手に走らず、必ず二人以上で探してください」
「啓彰くん、今は大人に任せて――」
「霧の日は、声がずれます。早貴さんの地図を見てください」
早貴は震える手で、霧の灯台マップを広げた。
大輝は、正朋が最後に見たかもしれない栗皮茶色の旗を思い出した。霧に濡れた旗。灯台姫の短い衣装。子ども領収書帳。掃除機の中から紙片を見つけた、小さな手。
「探しましょう」
大輝は言った。
怒りも、正しさも、資料も、その瞬間だけは机の上へ置いていくしかなかった。
外へ出ると、霧はさらに濃くなっていた。
旧灯台の仮灯は、白い布の奥で息をしているように、かすかに瞬いていた。




