第42話 最後の説明会前夜
説明会の前夜、大輝の店の明かりはいつもより遅くまで消えなかった。
外は北風が落ち着き、代わりに湿った冷気が商店街の路地へ降りていた。霧はまだ出ていない。けれど、川のほうから白い息のようなものが少しずつ流れ込み、旧灯台の輪郭を薄くしている。
長机の上には、麻央の書類が順番どおりに並べられていた。
小火に関する資料。焦げた紙片の写真。勇の非常食搬入記録。幸平の証言メモ。理彩子の配線調査。なつほの模型。道雄の見積もり比較。早貴の霧の灯台マップ。真喜子の聞き取り表。子ども領収書帳。看板裏の日程変更写真。
そして、さやが持ち帰った封筒。
大輝は、その封筒を見たまましばらく動けなかった。
表には、海外のガラス工房の名前が印刷されている。中には、灯台レンズの修復見積もりと、協力可能だという短い書面が入っていた。
台所で湯を沸かしていたさやが、少し気まずそうに言った。
「思ったより、返事が早かったの」
「うん」
「見積もりは、安くはない。でも、全部取り替えるより、今あるレンズを活かせるって」
大輝は封筒に手を置いた。
「ありがとう」
その一言を、今度は迷わず言えた。
さやは小さく笑った。
「まだ、ありがとうと言われるほどのことはできてないよ」
「隠して進めていたことには、まだ怒ってます」
「はい」
「でも、町のために動いてくれたことは、ありがとう」
さやは湯気の向こうで、少しだけ目を伏せた。
二人の間には、まだ完全にはほどけていない糸がある。航貴の歌声を電話越しに聞いて胸がざわついた夜。帰宅の遅い理由を聞けず、栗ごはんを炊きすぎた日。秘密にされた寂しさと、守ろうとして隠したさやの不器用さ。
けれど、ほどけきらない糸を、今すぐ切らなくてもいいのだと大輝は思った。
明日は説明会だ。
夫婦げんかの続きをするには、町の紙が多すぎる。
「大輝くん、緑茶」
可純の声がした。
「自分で淹れてください」
「前夜なのに?」
「前夜だからです」
大輝が言うと、可純は口を尖らせながらも急須を手に取った。珠里が横から湯の温度を見て、優空が湯呑みを並べる。可純は雑に注ぎそうになり、啓彰に「注ぎ口の向きに注意してください」と言われていた。
店には、主だった人たちが集まっていた。
麻央は資料の順番を何度も確認し、道雄は数字の紙に付箋を貼り直す。理彩子は説明が専門的になりすぎないよう、言葉を短く書き換えていた。なつほは灯台模型の外れやすい部品を補強し、勇は非常食の箱を間違えて説明会用の椅子代わりにしようとして、涼に止められている。
真喜子と早貴は聞き取り表と地図を並べ、子どもたちは子ども領収書帳の周りに集まっていた。
「明日、これも見せる?」
紗那が聞く。
「全部は見せないかもしれません」
大輝は答えた。
「でも、必要になったら見せます。子どもたちも考えているって、伝えます」
「姫も?」
広河が短くした衣装をつまむ。
「姫も。ただし、会場では走らない」
「姫、ゆっくり光る」
「光るのも控えめにお願いします」
一彰は作戦表の最後に「明日の目標」と書いた。
その下には、何を書くべきか迷っているようで、鉛筆の先が止まっている。
「勝つ、じゃないの?」
可純が覗き込んだ。
優空が静かに言った。
「勝ち負けで終わると、町を嫌いになる人が出るかもしれません」
「じゃあ、何?」
可純は問い返したが、いつもの勢いは少し弱かった。
優空は湯呑みを両手で包んだ。
「誰も、町を嫌いにならない終わり方がいいです」
その言葉は、店の中にゆっくり落ちた。
再開発に賛成する人にも理由がある。借金、後継者の不在、建物の老朽化への不安、体力の限界。灯台を残したい人の声だけで押しつぶせば、町は別の形で壊れる。
大輝は、意見箱に入っていた紙を思い出した。
残したいが払えない。
壊すのは嫌だが怖い。
正しさだけでは、人は動けない。
一彰はしばらく考え、作戦表にゆっくり書いた。
――町を嫌いにしない。
字はまだ小学生らしく、少し斜めだった。けれど、その一行を見て、可純は何も言わなかった。
航貴が店の隅で、明日のために歌詞カードを整理していた。
「歌は、まだ出番じゃないですよね」
大輝が言うと、航貴は照れたように笑った。
「説明会で歌い出したら、さすがに怒られます。でも、子どもたちが不安そうだったから」
「星のような君」
さやが小さく言った。
大輝はその曲名を聞いても、もう胸がざわつかなかった。
むしろ、明日の会場に持っていく紙の束の中で、その歌がまだ出番を待っているように感じた。
夜が深くなると、一人、また一人と帰っていった。
可純は最後まで残りたがったが、珠里に「明日声を出すなら寝なさい」と言われ、しぶしぶ店を出た。勇は非常食の箱を間違えて持ち帰りかけ、道雄に止められた。広河は短くした衣装を抱きしめ、紗那は子ども領収書帳におやすみを言った。
店に残ったのは、大輝とさやだけになった。
外へ出ると、旧灯台が霧の手前でぼんやり立っていた。仮灯はまだ弱く、町全体を照らすほどではない。それでも、上の丸いガラス室にわずかな光が反射している。
「明日で終わるのかな」
さやが言った。
大輝は首を横に振った。
「たぶん、終わらない。説明会が終わっても、修繕費も、当番も、保険も、まだ残る」
「現実的」
「麻央さんの書類に鍛えられました」
二人は並んで灯台を見上げた。
大輝の胸には、不安がある。明日の説明会で、どれだけ届くかわからない。集めた紙が、きちんと読まれるとも限らない。町を嫌いにしない終わり方など、本当にあるのかもわからない。
それでも、栗皮茶色のファイルは机の上にある。子ども領収書帳もある。焦げた紙片も、緑茶の湯呑みも、模型も、地図も、歌詞カードもある。
誰かが何かをした跡は、もう一枚ずつ、見える場所へ出てきている。
大輝は店の鍵を閉めた。
霧はまだ薄い。
明日の夕方、それがどう変わるのか、この時の大輝はまだ知らなかった。




