第39話 麻央の提出書類
麻央の書類は、見た目だけなら誰も近づきたがらない厚さになった。
大輝の店の長机に置くと、どさりという音がして、紗那が目を丸くした。
「これ、絵本?」
「絵本ではありません」
麻央は淡々と答えた。
「灯台保存のための申請案、修繕計画、安全確認表、管理者名簿、聞き取り記録、土地台帳の写し、領収書一覧、説明会日程に関する確認事項です」
「呪文みたい」
広河が言った。
「姫は読めない」
「姫も読めるように、地図を付けます」
早貴が、筒状に丸めた紙を広げた。
霧の灯台マップ。商店街の北端、旧灯台、下部倉庫、非常時に集まれる場所、子どもがひとりで通ってはいけない細い道、足元が滑りやすい坂。色鉛筆で描かれた線は少し曲がっていたが、見る人の歩幅を思い出させる地図だった。
真喜子はその横に、聞き取り記録を置いた。
通勤帰りの人の短い言葉。年金生活者の昔話。子どもが迷った時の記憶。派手な体験談ではない。一行、二行の積み重ねだった。
「こんなに出すの?」
可純は書類をめくりながら、早くも顔をしかめた。
「読むほうも大変じゃない?」
「大変です」
麻央は認めた。
「でも、感情だけでは届かない場所があります。灯台が好きです、残してください、だけだと、相手は費用と安全を聞いてきます。だから、先に答えます」
理彩子が配線調査の紙を指差した。
「湿気のある床材、古い延長コード、掃除機の使用、熱を持った位置。小火の原因は、灯台全体の危険ではなく、臨時清掃時の作業環境にあった可能性があります」
「可能性って言葉、何回も使うのね」
可純が言う。
「断定できないことを断定しないためです」
「強いわね、可能性」
「便利な逃げ道ではなく、正確でいるための足場です」
麻央の言葉に、道雄がうなずいた。
「数字も同じです。取り壊し費用、記念碑設置費、土地の整備費、それから修繕費。並べると、相手の見積もりに妙な厚みがある。全部が不正だとは言いません。ただ、比較できる形にする」
「妙な厚み」
勇が自分の腹を見た。
「俺の話じゃないですよね」
「していません」
道雄は即答した。
なつほは灯台模型を机の上に置いた。前回の失敗を経て、完璧な模型ではなく、取り外しできる部分を増やしたものになっている。床材の傷んだ箇所、配線を替える場所、子どもが近づかないように柵を置く位置が、色の違う小片で示されていた。
「これなら、専門用語が苦手な人にも見えると思います」
「ラムネ入れていい?」
正朋が聞いた。
「入れません」
なつほ、大輝、啓彰が同時に答えた。
大輝は、書類の束を前にして、少し息が浅くなるのを感じた。
町の愛、と言うのは簡単だ。だが、愛を申請書にするには、こんなにもたくさんの手が必要になる。誰が鍵を持つのか。誰が保険料を確認するのか。非常食の賞味期限を誰が見るのか。子どもの出入りをどう制限するのか。修繕後の点検をいつ行うのか。
好きだから残したい、だけでは、好きなものを守れない。
麻央は、書類の一枚を大輝に渡した。
「ここ、領収書屋さんの役割です」
「僕の?」
紙には、下部倉庫の活用案が書かれていた。
非常食保管。子どもの一時避難。緑茶休憩。医療費控除や家計整理の相談。古い領収書の閲覧と聞き取り記録の追加。
大輝は目を伏せた。
「ずいぶん多いですね」
「一人でやる案ではありません」
涼が横から言った。
「大輝さんの店を入口にするだけです。入口があると、人は助けを求めやすくなります」
「入口」
「はい。灯台の下部倉庫は、危険な倉庫として始まりました。でも、使い方を決めれば、困った時に駆け込める場所になります」
珠里が、古い領収書を一枚手に取った。
「昔も、そういう場所でしたよ。名札はありませんでしたけれど」
真喜子が聞き取り表をめくり、恥ずかしそうに一行を読んだ。
「灯台があると、帰る場所がまだある気がする」
店の中が静かになった。
真喜子は慌てて紙を伏せた。
「すみません、自分で書いたのに、読むと変です」
「変じゃない」
早貴が言った。
「だから地図に入れたんだよ」
霧の灯台マップの端には、真喜子の一行が小さく書かれていた。道案内の線のように、目立たない場所に。
大輝は、胸が温かくなるのを感じた。
書類は硬い。言葉も硬い。けれど、その下には、帰る場所をなくしたくないという柔らかい願いがある。
麻央は、最後に管理者名簿を差し出した。
「署名は急がなくていいです。迷っている人もいます。説明して、納得してもらってから」
「私、書く」
可純が真っ先に言った。
「読んでからです」
麻央は止めた。
「読まなくても、気持ちはある」
「気持ちだけで書類は通りません」
可純はむっとしたが、やがて観念して椅子に座った。
「じゃあ、読んで。私は目で読むと眠くなる」
真喜子が立ち上がった。
「私、読みます」
早貴が地図を持つ。啓彰が「聞く姿勢をお願いします」と号令をかける。広河は灯台姫の衣装のまま、真喜子の横に立った。紗那は花丸シールを机に並べ、正朋は掃除機から遠ざけられている。
真喜子の声は最初、少し震えていた。けれど、一枚、また一枚と読むうちに、店の中の大人たちは顔を上げた。
書類は、町の愛を冷たくするものではなかった。
届く場所まで運ぶための、丈夫な封筒だった。
大輝はその封筒に、自分も手を添えるのだと思った。




