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領収書屋さんと霧の中の灯台 ――北町商店街、最後の一枚まで愛で保護します――  作者: 乾為天女


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第38話 失望を笑って壊す

 焦げた紙片の写真は、翌日には麻央の資料の中に入った。

 ただし、可純が期待したような大きな赤い文字ではなく、白い紙の端に小さく貼られ、横には「臨時清掃日時を示す可能性のある紙片」とだけ書かれていた。

 「もっと、どーんと書かないの?」

 可純は不満そうに言った。

 「『ついに出た!』とか」

 「出しません」

 麻央は一行も揺らさずに答えた。

 「資料はお祭りのチラシではありません」

 「お祭りだったら楽なのにね」

 勇が冷凍コロッケを皿に移しながら言った。

 「そういうことを言う人がいるから、コロッケが余計に焦げるんです」

 道雄が換気扇を回した。

 大輝の店は、午後から人が増えていた。焦げた紙片の話を聞いた人、栗皮茶色の旗を見て来た人、説明会前に状況を知りたい人。賛成派も、反対派も、迷っている人もいた。

 緑茶を淹れながら、大輝は胸の奥に硬いものが残っているのを感じていた。

 焦げ片が見つかったことで、灯台撤去の説明は揺らいだ。小火を「建物全体の危険」と決めつける流れに、待ったをかけられるかもしれない。

 けれど、大輝は自分だけが胸を張っていい場所に立っていない。

 再開発会社からの仕事依頼。高い報酬。家計が助かると思ってしまった瞬間。不要書類処分という文字を見落としかけた自分。

 返したから帳消しになるわけではない。

 それを黙ったまま、町の記録を守りましょうと語るのは、どこか違う気がした。

 大輝が湯呑みを配り終えると、可純が机を叩いた。

 「では、作戦を決めます」

 「叩かないでください。湯呑みが跳ねます」

 珠里が静かに注意する。

 「作戦というより、説明の順番です」

 涼が紙を広げた。

 「まず小火の原因。次に、灯台の修繕で足りる部分。さらに、保存した場合の管理費。そして、住民への知らせ方の問題」

 「再開発会社が悪いって話は?」

 可純が身を乗り出す。

 「悪いかどうかを叫ぶより、何が起きたかを正確に示すほうが強いです」

 理彩子が言った。

 「強いのに静かって、難しいわね」

 大輝は、その会話を聞きながら、湯呑みを持ったまま立っていた。

 言うなら、今だ。

 言わないなら、この先も言えなくなる。

 「あの」

 声を出すと、店の中の視線が一斉に向いた。

 大輝は、自分の指が湯呑みの熱で少し赤くなっていることに気づいた。置けばいいのに、置けなかった。

 「僕、再開発会社の仕事を、受けそうになりました」

 空気が止まった。

 可純の目が丸くなる。麻央は書きかけのペンを止め、勇はコロッケのトングを中途半端に浮かせた。

 大輝は続けた。

 「領収書整理の仕事です。報酬が高くて、家計には助かる額でした。受け取り書に名前を書きかけました。あとから依頼書を見て、整理後の不要書類処分が含まれているとわかって、前払い金を返しました。でも、一瞬、喜びました。助かると思いました。町の記録を守るとか言ってるのに、僕はその記録を消す側に、少し行きかけました」

 言い終えると、胸の奥の硬いものが、形を変えずに床へ落ちたような気がした。

 誰かに失望されるのは怖かった。

 大輝は、主夫であることを軽く見られるたびに、せめて人の役に立つ自分でいたいと思ってきた。領収書を読める人、緑茶を出せる人、困った時に頼れる人。その顔を失うのが怖かった。

 沈黙を破ったのは、勇だった。

 「俺なら秒で受け取る」

 「勇さん」

 道雄が低い声で言った。

 「いや、だって高いんだろ? 高かったら、まず見ちゃうだろ。俺なんか冷凍庫の電気代で毎月心が凍るんだよ」

 「冷凍庫だから?」

 紗那が小さく聞いた。

 「そう。おじさんの心も冷凍保存」

 「つまらないです」

 啓彰が礼儀正しく切った。

 店の中に、遅れて笑いが起きた。

 可純は腕を組み、わざと偉そうに言った。

 「大輝くん、返したんでしょ」

 「はい」

 「なら遅刻の勝利」

 「遅刻の勝利?」

 「間に合った勝利は普通の勝利。遅刻の勝利は、走った分だけえらい」

 「意味がわかるようで、少しわかりません」

 涼が言うと、珠里が微笑んだ。

 「でも、言いたいことはわかります。迷わない人だけで町を守るなら、この町には誰も残れません」

 その言葉に、大輝は息を呑んだ。

 優空が湯呑みを両手で包みながら言った。

 「昔もそうでしたよ。灯台の修繕費を出した人たちだって、全員が余裕のある人ではありませんでした。出せなかった人もいた。迷った人も、後悔した人もいた。それでも、誰かが少しずつ手を出したから、今まで残ったんです」

 大輝は、目の奥が熱くなるのをこらえた。

 「怒らないんですか」

 「怒るところはあります」

 珠里は正朋に言った時の大輝の口調をまねるように、やわらかく答えた。

 「でも、話したことは受け取ります」

 紗那が花丸シールを持って近づいてきた。

 「貼る?」

 「僕に?」

 「言えたから」

 大輝は少し迷った末、しゃがんだ。

 「じゃあ、エプロンにお願いします」

 紗那は曲がった花丸を、胸のあたりに貼った。

 可純がそれを見て、大げさにうなずく。

 「よし。失望、ひとつ壊れた」

 「失望って壊せるんですか」

 真喜子が聞いた。

 「笑えば少しひびが入る。言えばもっと割れる。全部粉にするには時間がかかるけど」

 可純の言葉は相変わらず勢いでできていたが、その日は不思議と芯があった。

 大輝は笑った。

 自分だけがきれいな紙でいようとした心に、折り目がついた。けれど、その折り目があるから、誰かの迷いも受け取れる気がした。

 涼は机の中央に、新しい紙を一枚置いた。

 「では、説明会で話す順番に、大輝さんのこの件は入れません」

 「入れないんですか」

 「資料には入れません。ただ、町の中で迷っている人の話を聞く時に、大輝さん自身が忘れないでください」

 大輝はうなずいた。

 忘れない。

 高い報酬に揺れたことも、返せたことも、笑われて許されたことも。

 領収書屋さんの胸には、少し曲がった花丸が貼られている。そこに書かれた金額はない。けれど、受け取ったものは確かにあった。

 その日の緑茶は、いつもより少し濃かった。

 苦いのに、飲み終えると胸が温かくなった。



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