第35話 涼の一枚の余白
商店街は、同じ通りなのに、日によって幅が変わる。
大輝はそう感じていた。
挨拶が交わされる朝は広い。揚げ物の匂いがして、店先で野菜の箱が開かれ、子どもがランドセルを揺らして走る時間は、通り全体がひとつの台所みたいになる。
けれど、再開発の話が出てからは違った。
賛成する店の前を、反対する人が少し早足で通る。迷っている家は、どちらにも返事をしない。可純の声が聞こえると、シャッターの奥で誰かが黙る。怒りよりも、気まずさが通りを狭くしていた。
「このままだと、灯台を残しても町が割れます」
涼が言ったのは、夕方の大輝の店だった。
机には、麻央の書類、道雄の数字、理彩子の安全資料、さやのレンズ見積もりが積まれている。紙は増えているのに、人の声は少しずつ減っていた。
可純は不満そうに腕を組んだ。
「だって、壊すって言う人もいるのよ」
「います」
「それを、そうですねって聞くの?」
「そうですね、とは言いません。でも、なぜそう思うのか聞かないと、こちらの声も届きません」
涼は、白い箱を机に置いた。菓子箱を裏返して、上に細い切り込みを入れただけのものだった。側面には、早貴の字でこう書かれている。
――名前を書かなくていい意見箱。
紗那が横から花丸を押そうとして、涼に止められた。
「これは、まだ花丸前です」
「まえ?」
「中に入った声を読んでからです」
紗那は真剣にうなずき、スタンプを胸に抱えた。
意見箱は、三日間、商店街の三か所を回った。大輝の店、勇の工場の入口、珠里がよく座る休憩ベンチの横。入れる人を見張らない。誰が何を書いたか聞かない。紙と鉛筆だけを置く。
三日目の夜、涼は箱を開けた。
紙片は思ったより多かった。
可純は目を丸くした。
「こんなに?」
「声に出せなかったぶんです」
涼は一枚ずつ広げた。
――灯台は残したい。でも、寄付を求められると困る。
――古い建物が本当に危なくないのか不安。
――親の代の店を閉めるか迷っている。再開発のお金で楽になるなら、責めないでほしい。
――子どもが集まる場所にするなら、事故が怖い。
――反対の旗が増えると、賛成と言えなくなる。
――灯台がなくなるのは嫌。でも、反対運動の人に見られるのも疲れる。
大輝は、胸の奥が重くなった。
どの紙も、敵の言葉ではなかった。どれも、生活の言葉だった。
可純は黙っていた。珍しい沈黙だった。だが、今日の沈黙は高級品というより、手のひらで何かを温めているようだった。
「私、声が大きすぎた?」
可純が聞いた。
涼は少し考えてから答えた。
「可純さんの声で助かった人もいます。でも、声が大きいと、近くにいる人の小さい声が隠れることもあります」
「難しいこと言うわね」
「すみません」
「謝らなくていいわ。刺さっただけ」
可純は紙片を一枚手に取った。『再開発のお金で楽になるなら、責めないでほしい』と書かれた紙だった。
「責めたくなるけど、責めたら終わるわね」
「はい」
「悔しいわね」
「はい」
大輝は、そのやり取りを聞きながら、緑茶を淹れた。
今日は少し濃いめにした。話すには力が要る日だった。
珠里が紙片を読み、優空が頷き、勇が腕を組んで唸った。
「寄付が怖いっていうの、わかるな。俺も冷凍コロッケなら出せるけど、現金は毎回となると胃が冷える」
「冷凍食品製造工が言うと説得力ありますね」
麻央が真面目に言い、勇はなぜか照れた。
涼は白い紙を一枚出した。
「保存案に、余白を作りたいです」
「余白?」
「寄付できる人だけが偉い、掃除当番に出られる人だけが正しい、という形にしない。お金を出せない人、体力がない人、迷っている人が、町に残っていられる余白です」
大輝は、白い紙を見た。
何も書かれていない部分は、怠けている場所ではない。まだ言葉になっていない人のために空けておく場所なのだ。
「合意書にも、その余白を入れましょう」
大輝は言った。
「できることを選べるように。お金、時間、物、記録、見守り。どれも同じ一行として扱う」
涼はうなずいた。
「紙一枚分の余白があると、人は呼吸できます」
可純が意見箱を見つめた。
「私の宣戦布告にも、余白いる?」
「かなり」
涼が即答し、店の中に笑いが起きた。
可純は怒るかと思いきや、少しだけ笑った。
「じゃあ、次から余白つきで叫ぶわ」
「叫ぶ前提なんですね」
「小さめに叫ぶ」
紗那がそこで、意見箱に花丸を押した。
少しにじんだ花丸だった。
でも、そのにじみまで含めて、今日の商店街にはちょうどよかった。




