第34話 道雄の数字が怒る
道雄が怒っている日は、数字のほうが先に震える。
大輝はそう思っていた。
本人は静かだ。声を荒げない。机を叩かない。けれど、伝票を並べる速度がいつもより速くなり、鉛筆の先が紙の上で細かく跳ねる。受発注事務で鍛えた目は、数字の列の中から小さな引っかかりを拾い上げる。
「この見積もり、変です」
道雄は、再開発会社が出した説明資料を机に置いた。
可純が身を乗り出す。
「変って、どれくらい?」
「栗ごはんに塩と砂糖を間違えるくらいです」
「それは事件ね」
「事件ではなく、確認事項です」
道雄は訂正したが、声の奥はやはり怒っていた。
机には三種類の紙が並んでいた。再開発会社の取り壊し見積もり、さやが持ってきたレンズ補修の見積もり、理彩子となつほと幸平がまとめた最低限の安全修繕案である。
麻央がノートパソコンを開き、項目ごとに入力していく。早貴は横で地図を広げ、灯台周辺の動線を書き込んでいた。
「取り壊し費用が高いのは、古い建物だからでは?」
涼が慎重に聞いた。
「それはあります。でも、ここ」
道雄は指で一行を押さえた。
「仮囲い設置費が二重に入っています。さらに廃材運搬費が、灯台の規模に対して大きすぎる。下部倉庫だけでなく、周辺の店舗解体まで含めたような単価です」
「つまり?」
可純が聞く。
「灯台を危険だから壊す、という説明の紙に、周辺整備の準備費用が混ざっている可能性があります」
店の空気が、少し硬くなった。
勇が冷凍コロッケの袋を抱えたまま、そろそろと後ろへ下がった。
「俺、数字の話になると急に衣が縮むんだけど」
「コロッケの衣は関係ありません」
道雄は即答した。
「でも、勇さんの非常食搬入記録は関係あります。小火の日の時刻と合わせると、清掃の開始時間が説明より前にずれます」
「俺、関係あるの?」
「あります」
「じゃあ、衣、伸ばします」
「伸ばさなくていいです」
可純が小さく吹き出した。緊張が一瞬だけ緩む。
理彩子は、別の紙を取り出した。
「安全修繕案は、床材の一部交換、配線の引き直し、湿気対策、仮灯の安全確認が中心です。建物全体を新築同様にする必要はありません。使い方を下部倉庫と周辺の避難場所に限定すれば、費用は抑えられます」
「レンズは?」
麻央が聞く。
さやが昨日届けた資料を、大輝は机に出した。
「修復なら、この範囲です。もちろん輸送の保険は必要ですけど」
道雄は資料を確認し、静かに息を吐いた。
「取り壊しより、修繕のほうが安い可能性が高いです」
その一言で、店の中がざわついた。
可純が立ち上がる。
「ほら、数字まで怒ってる!」
「怒っているのは私です」
道雄が言った。
「数字は怒りません。数字は、並べられた場所で意味が変わるだけです」
「それが怒ってるってことじゃないの」
「違います」
「頑固ねえ」
「受発注では、頑固でないと損をします」
大輝は二人のやり取りを聞きながら、資料の余白に目を落とした。
灯台を壊す理由として出された数字が、町を残すための材料にも変わろうとしている。同じ紙でも、どこを見て、何と比べるかで、まったく別の顔になる。
麻央が入力した表を回転させ、みんなに見せた。
「ただ、安いから残せる、では足りません。維持費が毎年かかります。保険も必要です。誰が鍵を管理するのか、子どもだけで入らない仕組みをどうするのか。そこまで書かないと、相手は危険性を理由に押してきます」
可純は口を尖らせた。
「勝ったと思ったら、また宿題」
「勝ち負けじゃありません」
涼が言った。
「町が自分で管理できると言える形にする必要があります」
大輝はうなずいた。
感情だけで守ることはできない。だが、数字だけで町を測ることもできない。領収書は、その真ん中にある。支払った人の手と、支払われた物の形を、同時に残す。
道雄は最後に、再開発会社の見積もりのコピーに赤い付箋を貼った。
「次の話し合いでは、ここを質問します。強い言い方はしません。逃げ道のない聞き方もしません。ただ、項目ごとに確認します」
「それ、いちばん怖いやつね」
可純が言った。
「大声より怖い」
「大声は、相手に耳をふさぐ理由を与えます」
道雄は資料を揃えた。
「数字は、ふさいだ耳の隙間にも入ります」
勇が小声で言った。
「やっぱり怒ってるよ、数字」
「怒っているのは私です」
道雄は二度目も訂正した。
その訂正の声が、少しだけ誇らしげだった。




