第33話 緑茶が冷める日
翌朝、大輝は緑茶を淹れなかった。
淹れようとはした。湯を沸かし、茶筒のふたも開けた。けれど急須に茶葉を入れる前で手が止まった。
昨日、さやと話した。怒った。謝った。薄い緑茶も飲んだ。だが、心の中の湯飲みはまだ少しぬるかった。人に出せるほど整っていないものを、いつもの顔で出すことができなかった。
店には朝から人が来た。
勇が冷凍コロッケの試作品を持ち込み、可純が新聞の切り抜きを握り、優空が毛糸の手袋をはめたまま古い領収書を眺めに来た。紗那は花丸のスタンプを逆さまに押し、正朋はそれを見て「花が転んだ」と言った。
いつもなら、大輝はそれぞれの前に湯飲みを置く。
今日は置かなかった。
「大輝、緑茶は?」
可純が言いかけて、途中で口を閉じた。
その珍しさに、勇がコロッケを落としかけた。
「可純さんが、途中で黙った」
「黙る日もあるわよ。高級品なの、私の沈黙は」
可純はそう言ったが、大輝をからかわなかった。新聞の切り抜きを畳み、棚の上にそっと置いた。
優空が立ち上がった。
「お湯、替えますね」
「いえ、私が」
「今日は私がします」
優空の声は柔らかかったが、断らせない強さがあった。
大輝は布巾を握ったまま、うなずくしかなかった。
優空はやかんの湯を捨て、新しい水を入れた。細い手で火をつけ、茶筒のふたを開ける。動作はゆっくりで、無駄がなかった。長い年月、誰かのために茶を淹れてきた手つきだった。
「昔ね」
優空が言った。
「灯台の下で、よくお茶を出したんです。台風の日とか、霧で帰れなくなった人がいた日とか。紙コップなんて洒落たものは少なくて、湯飲みを貸して、あとで誰のだったかわからなくなって」
「領収書、ありましたね。緑茶と紙袋の」
「ええ。でも、あの日の手の震えは、紙には残っていません」
大輝は顔を上げた。
優空は急須に湯を注ぎ、少し待ってから湯飲みに移した。最初の一杯を大輝の前に置く。
「淹れる人も、飲んでいいんですよ」
大輝は湯飲みを見つめた。
緑茶の表面に、店の天井の灯りが小さく揺れている。
「夫婦げんか?」
可純が小声で聞いた。
「可純さん」
珠里がいつの間にか入口にいて、静かに注意した。
「公平に聞く前に、決めつけてはいけません」
「公平に聞く気はあるわよ。大輝側、さや側、緑茶側」
「緑茶側は黙っています」
「だから強いのよ」
いつものやり取りなのに、今日は少し遠くで聞こえた。
大輝は湯飲みを両手で包んだ。
「私、町の人の話を聞く場所を作っているつもりでした」
誰に向けたわけでもなく、言葉がこぼれた。
「でも、家では聞くのが怖くて。聞いたら、自分が知らなかった時間があるって認めることになるから。だから、領収書だけ見て、勝手に心配して、勝手に傷ついていました」
店の中が静かになった。
正朋だけが、花丸スタンプを手に持ったまま、大輝の顔を見上げている。
「おとなも、こぼす?」
大輝は笑いそうになって、少しだけ目が熱くなった。
「こぼすよ。たくさん」
「ふく?」
「うん。拭く」
正朋は満足したようにうなずき、布巾を一枚持ってきた。まだ何もこぼれていない机の上を、一生懸命拭き始める。
可純が鼻をすすった。
「正朋、今のは反則よ」
「はんそく?」
「大人を泣かせるやつ」
「ごめんなさい」
「謝るところじゃないわ」
勇がコロッケを温め直しに行き、焦げないようにタイマーを二つ置いた。紗那は、花丸の向きを直して大輝のノートに押した。少し曲がった花丸だった。
優空は二杯目の緑茶を淹れ、可純の前に置いた。
「今日のは、少し薄いですね」
珠里が言った。
「薄い日もあります」
優空は微笑んだ。
「濃いばかりでは、喉が疲れますから」
大輝は一口飲んだ。
薄い緑茶は、弱い味ではなかった。口の中に、ゆっくり残る味があった。
午後、さやから短い連絡が来た。
――昨日の続き、今夜ちゃんと聞かせて。
大輝はしばらく画面を見つめ、それから返した。
――私も聞く。緑茶は薄めにする。
送信したあと、少しだけ肩が軽くなった。
店の緑茶は、何杯か冷めた。
けれど冷めた湯飲みを片づける手は、一人分ではなかった。




