第32話 歌の練習と夫婦げんか
翌日の商店街は、朝から少し浮いていた。
航貴が子どもたちに「星のような君」の練習をさせる日だったからだ。練習場所は大輝の店の奥、もともと在庫棚があった場所である。今は古い長机を寄せ、紗那の花丸ノートと一彰の作戦表と、広河の灯台姫衣装が同居している。
航貴は手を二回叩いた。
「はい、最初は小さく。霧の中で呼ぶ声だから、怒鳴らない」
「おこならない!」
紗那が復唱した。
「怒鳴らない、ね」
「おこならない!」
航貴は笑いをこらえ、もう一度手を叩いた。
広河は衣装の裾を踏みそうになりながら、真剣な顔で歌い出した。啓彰は背筋を伸ばし、隣の正朋に「口を開けてください」と小声で注意する。正朋は口を開けたまま、歌うのを忘れていた。
大輝は台所側で昼食の下ごしらえをしながら、その声を聞いていた。
曲は明るすぎなかった。悲しすぎもしなかった。霧の中で誰かを探す時、人はこんなふうに、少し震えながら声を出すのかもしれない。
そこへさやが、昼休みを使って店に寄った。
「見積書、コピーしてきた」
「ありがとう」
大輝は受け取った。レンズ補修の条件、輸送時の保険、支払いの分割案。麻央が見れば喜びそうなほど、現実的な紙の束だった。
「航貴くんにも、曲の使用について確認してある」
さやがそう言った時、奥から航貴の声がした。
「さやさん、ここ、歌詞の英訳もう一回見てもらえますか」
大輝の手が、包丁の上で止まった。
自分でも、ばかみたいだと思った。昨夜、話を聞いた。誤解だったとわかった。航貴は町のために歌を作り、さやは工房とのやり取りのために協力している。それなのに、二人の間に自分の知らない言葉があるだけで、胸がざらついた。
さやはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、奥へ行きかけて振り返った。
「大輝も一緒に見る?」
「私は料理中だから」
声が硬かった。
さやの顔が少し曇る。
「じゃあ、あとで共有する」
「あとでじゃなくて、先に言ってくれたらよかったこと、けっこうあるよね」
言った瞬間、包丁よりも言葉のほうが危ないと気づいた。
奥の歌が止まった。子どもたちは聞こえないふりをするほど器用ではない。紗那は目を丸くし、広河は衣装の袖を口に当てた。啓彰だけが「大人の会話中は静かにします」と正しい姿勢で間違った号令を出した。
さやは、店の入口近くで立ち止まった。
「ここで話すことじゃない」
「じゃあ、いつ話すの」
「昨日話したでしょう」
「昨日は聞いただけだよ。私はまだ、置いていかれた気持ちが残ってる」
さやの目が揺れた。
大輝は、止めたかった。けれど一度流れ出した言葉は、鍋の吹きこぼれより厄介だった。
「町の人には、聞く場所を作ってるつもりだった。でも自分の家のことは、聞く前に決まってた。灯台のレンズも、曲も、英訳も。私は、最後に領収書を渡される係?」
「そんな言い方しないで」
さやの声も強くなった。
「大輝が毎日しんどそうだったから、少しでも負担を減らしたかった。家のことも、町のことも、全部大輝に集まってるみたいで怖かったの」
「だから隠した?」
「隠した。間違ってた。昨日謝った。でも、私だって怖かった」
子どもたちは完全に固まっていた。
航貴が奥からそっと出てきて、声を低くした。
「すみません、僕、外に出ます」
「航貴くんは悪くない」
大輝とさやの声が重なった。
その重なり方がおかしくて、可純なら笑ったかもしれない。だが今は誰も笑わなかった。
航貴は困ったように頭を下げた。
「じゃあ、子どもたちと外で一回、発声練習してきます。怒鳴らない練習を」
紗那が小さく「おこならない」とつぶやいた。
航貴は子どもたちを連れて外へ出た。鈴のついたドアが鳴り、店には大輝とさやだけが残った。
煮立ちかけていた鍋を、大輝は慌てて弱火にした。
さやは、コピー用紙を胸に抱えたまま立っている。
「主夫だから守らなきゃ、って思われるのも、つらい」
大輝は言った。
「家にいる時間が長いだけで、弱いわけじゃない」
「わかってる」
「本当に?」
さやは答えに詰まった。
その沈黙で、大輝は自分の言葉が少し深く刺さったことを知った。
「ごめん」
今度は大輝が先に言った。
「謝りたいのに、責めた」
「私も、守るって言葉に逃げた」
さやは椅子に座った。仕事用の鞄を床に置き、額に手を当てた。
「大輝が町の中で必要とされているのを見て、うれしかった。でも、同時に怖かった。みんなが大輝に頼るぶん、私は何をすればいいのかわからなくなった」
大輝は、鍋のふたを閉めた。
夫婦の間にも、領収書に残らない支払いがある。心配、我慢、遠慮、言いそびれた言葉。どれも小さく見えるが、積もると台所の床を傾ける。
外から、子どもたちの声が戻ってきた。
今度は少し小さく、けれど揃っている。
星のような君。
霧の中で見失わないように。
大輝は窓の外を見た。
「あとで、じゃなくて、今から一緒に見る」
「うん」
「でも、まだ怒ってる」
「うん。私も少し怒ってる」
二人は顔を見合わせた。
仲直りとは、すぐ笑顔になることではないらしい。
同じ紙を、同じ机に置くところから始めるしかない。
大輝は湯飲みを二つ出した。
「緑茶、淹れる?」
「今日は薄めで」
「了解。夫婦げんか用、薄め」
さやが、疲れた顔で少し笑った。
外の歌は、霧のない昼の商店街に、不器用に広がっていた。




