第31話 さやの秘密の取引
その夜、大輝が家に帰ると、台所の灯りだけがついていた。
換気扇は回っていない。鍋も火にかかっていない。けれど、食卓の上には見慣れない封筒が二つ置かれていた。ひとつは薄い青色で、外国の切手が貼られている。もうひとつは、さやの職場で使うような無地の事務封筒だった。
大輝は靴をそろえながら、胸の奥がまた嫌な形に縮むのを感じた。
幸平から聞いた父親の話が、まだ体のどこかに残っている。誰かの秘密は、悪いものとは限らない。けれど秘密であるだけで、置いていかれた側には少し冷たい。
「おかえり」
さやが台所から顔を出した。髪はほどきかけで、袖をまくったまま。仕事帰りのまま夕食を作ろうとして、途中で諦めたような姿だった。
「ただいま。遅かったね」
「うん。今日は、話さなきゃと思って」
さやはそう言って、食卓の封筒に視線を落とした。
大輝は息を止めた。
聞くなら今だ、と思った。けれど、何を聞けばいいのかがわからない。航貴の名前を出した瞬間、自分の小ささまで台所に落ちそうだった。
さやは椅子に座り、無地の封筒を開けた。中から出てきたのは、見積書だった。品目の欄に、灯台レンズ、研磨、補修、輸送、保険といった文字が並んでいる。
「これ……灯台の?」
「うん」
さやはうなずいた。
「旧灯台のレンズ、完全に新しく作るとすごく高い。でも、割れ方と曇り方によっては、直せるって言ってくれた職人さんがいて。昔、仕事で取引したことのある工房に相談してたの」
大輝は、見積書の数字を見た。安くはない。けれど、再開発会社が出していた取り壊し費用の見込みより、ずっと現実的な額だった。
青い封筒からは、英語で書かれた短い手紙と、古い灯台レンズの写真が出てきた。写真のガラスは、霧を飲み込んだように白く曇っている。けれど中心には、まだ光を集める力が残っているように見えた。
「どうして、黙ってたの」
大輝の声は、自分でも思ったより低かった。
さやはすぐには答えなかった。指先で封筒の端をなぞり、少しだけ息を整えた。
「最初は、驚かせたかった。灯台を残せるかもしれないって、ちゃんと形になってから言いたかったの」
「うん」
「でも途中から、言えなくなった」
「どうして」
「大輝が、商店街のことで毎日大変そうだったから。家計のこともあるし、町の人の相談もあるし。私まで灯台の話を増やしたら、もっと背負わせると思った」
その言葉は、優しさの形をしていた。けれど大輝には、少しだけ鋭く刺さった。
「背負わせるって、私は荷物持ちじゃないよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
台所の時計が、やけに大きく鳴った。
さやは唇を結んだ。疲れている顔だった。怒っているというより、どこから謝ればいいのかわからない顔だった。
「大輝が、主夫でいることを周りに軽く見られて傷ついてるの、わかってるつもりだった。だから、町のことまで抱え込ませたら、また『便利だから頼まれてる』みたいに感じるんじゃないかって」
大輝は言葉を失った。
さやは大輝を守ろうとした。だが、その守り方は、大輝を輪の外に置いた。
「私、隠し方を間違えた」
さやは言った。
「ごめん」
大輝は、すぐに許すとも、責めるとも言えなかった。
食卓の上に、見積書と領収書と外国からの手紙が並んでいる。どれも紙だ。けれどその紙の向こうには、さやが夜遅くまで翻訳し、時差を計算し、職人に写真を送り、返事を待っていた時間がある。
「航貴くんは?」
やっと言えた名前は、情けないほど小さかった。
さやは一瞬きょとんとして、それから「ああ」と眉を下げた。
「曲のこと?」
「うん」
「航貴くんは、再点灯の時に歌を作りたいって言っていて、その録音費用の相談をしてた。海外の工房に送る説明動画にも、灯台の雰囲気がわかる音があったほうがいいって。あの曲名が領収書に入っていたのは、仮録音の場所代」
大輝は、湯気のない急須を見つめた。
自分が何を心配していたのか、急に台所の床へ全部こぼれた気がした。恥ずかしい。けれど恥ずかしいからといって、胸の痛みがすぐ消えるわけでもなかった。
「言ってくれたらよかった」
「うん」
「聞けばよかった」
「うん」
二人は、同じところで失敗していた。
さやは立ち上がり、やかんに水を入れた。
「緑茶、淹れる?」
「私が淹れる」
大輝が言うと、さやは少しだけ笑った。
「こういう時も?」
「こういう時だから」
やかんの音が、台所に戻ってきた。
大輝は茶筒を開けながら、見積書の端に書かれた小さな文字を見つけた。さやの字だった。
――家族には、最後に報告しない。
たぶん、自分で自分に言い聞かせるためのメモだったのだろう。
大輝はその一行を、見なかったことにはしなかった。
「これ、明日、麻央さんたちに見せてもいい?」
「うん。もう隠さない」
さやはそう言った後、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、夫婦の話は、商店街に領収書出さないでね」
「出さないよ」
「可純さんには特に」
「出したら、夫婦相談代で緑茶三杯分の請求書を作られる」
さやがようやく声を出して笑った。
大輝も、少しだけ笑った。
誤解は、完全には消えていない。けれど、台所の真ん中に置くことはできた。
湯飲みに注いだ緑茶は、少し濃すぎた。
それでも二人は、黙って飲んだ。




