第22話 星のような君の正体、半分だけ
航貴は、入力するときだけ少し猫背になる。
背が高いせいで、古い机と椅子が合っていないのだ。大輝は前から気になっていたが、本人は「この高さのほうが紙の影が見やすいんです」と言って譲らない。今日も、栗皮茶色のファイルから一枚ずつ領収書を抜き、日付、店名、金額、余白の文字を丁寧に打ち込んでいた。
「これ、曲名みたいですね」
航貴が言った。
大輝の手が止まった。
「曲名?」
「はい。『星のような君』って。ほら、昔の領収書の裏にも、似た言葉があります」
航貴が見せた紙には、薄い鉛筆書きで『星みたいな灯、帰りの子へ』とあった。金額欄の下に、小さく書かれている。誰かが灯台の電球を買った日のものらしい。
大輝の胸が、変な形に鳴った。
「航貴さん、その曲、知ってるんですか」
「知ってるというか、僕が作ってます」
何でもないことのように言われ、大輝は湯のみを持ったまま固まった。
「作ってる?」
「灯台の再点灯用に。子どもたちが歌いやすいように短くしてるんです。さやさんから、昔の灯台に合う言葉を聞かれて」
「さやから?」
航貴はそこで、入力の手を止めた。
「あれ。言ってませんでした?」
「何を、ですか」
「いや、灯台のことで、さやさんがいろいろ……」
その瞬間、店の戸が開き、正朋が勢いよく入ってきた。
「大輝さん、掃除機だめって言われた!」
後ろからなつほが顔を出す。
「正朋くんが、模型の階段を吸い込もうとしました」
「吸い込もうとしたんじゃない。掃除しようとした」
「模型は掃除機で掃除しません」
店の空気が一気に騒がしくなった。航貴は話を続けかけたが、紗那が歌の練習を始め、広河が衣装の裾を踏んで転びかけ、可純が「姫の転倒は不吉」と叫んだせいで、言葉が流れてしまった。
大輝は聞き逃した。
さやが、いろいろ。
何を。誰と。なぜ、自分には言わなかったのか。
夕方、さやから連絡が来た。
『今日も遅くなります。ごめん。夕飯、無理しないで』
大輝は画面を見つめた。無理しないで、という言葉は優しい。けれどその優しさが、今日だけは少し遠かった。
夜になり、航貴は子どもたちに歌を教えた。
「星のような君、霧の向こうで、帰り道を知っている」
まだ歌詞は仮のようで、航貴は途中で照れ笑いをした。啓彰は姿勢よく歌い、紗那は語尾を伸ばしすぎ、広河は姫らしく手を振り、正朋は途中で歌詞を忘れて「コロッケ」と入れた。
大輝は笑った。笑ったのに、胸の奥に小さな棘が残った。
浮気という言葉は、もう前ほど濃くはなかった。航貴の態度には隠し事の匂いより、うっかりした善意がある。さやが関わっているのも、灯台のためかもしれない。
それでも、自分だけが知らされていない寂しさは消えなかった。
夫婦なのに。
同じ台所で弁当箱を洗い、同じ家計簿を見て、同じ冬の光熱費に眉を寄せるのに。町の人が知っていることを、自分だけが知らない。
閉店後、航貴が入力済みの表を確認していた。
「大輝さん、さっきの話、どこまで言いましたっけ」
「星のような君は、灯台の曲だってところまでです」
「そうです。再点灯のときに歌えたらいいなって。さやさんが、レンズのことも合わせて考えてるみたいで」
「レンズ?」
大輝が聞き返したところで、航貴の電話が鳴った。子どもたちの保護者から、歌の練習時間についての確認だった。
また、話は切れた。
大輝は苦笑した。まるで領収書の端だけ見えて、肝心な但し書きが折れているようだった。
家に帰ると、さやはまだ戻っていなかった。
炊飯器の保温を切り、味噌汁を小鍋に移し、弁当箱を洗う。水音だけが台所に響く。
大輝は、濡れた手を拭いてから、家計簿の余白に小さく書いた。
『星のような君。灯台の曲。さや、レンズ?』
疑うためではない。聞くために、忘れないように。
それでも文字は、少しだけ情けない形になった。




